5月23日 蚕起食桑
5月23日 晴れ
蚕が繭を作るためにさかんに桑を食べる季節。
緑は艷やかに青く春を遠くに追いやり、ようやく私は地に足がつく。
「春夜と申します。お邪魔します」
「かわいい彼女さんだねぇ」
「雪村センセ、ロリなの?」
「ばっ。
「わー紫帆って呼び捨てなんだ。10歳下なら十分ロリ」
「だまれ9歳だっ」
成の研究室にお邪魔した。その日、私はたまたま授業が休講になったから。
成の研究室は規模が大きいけど女性が少なかった。47人中1人だけ。それも同じ研究室に配偶者がいる。ここなら成が他の人を見つめることはないだろう。ほっと胸をなでおろす。
でもこの緑木という人とは随分仲がよさそうだ。成が他の人を見る。それは私にとって耐え難いこと。でも成はここで仕事をしている。仕事の上で人間関係は必要。私は成に私だけを見てほしいけど、成を破滅させたいわけじゃない。世界というものはままならない。
ずっとどこかで二人きりで閉じこもっていられたらいいのに。
「どうだった? つまらなかった?」
「いいえ。興味深かった」
「でも見ててもつまらないよね。鉄を熱して壊す実験なんて」
「そうね、正直なところ、理屈はわからないけど成が研究が好きなのがわかった」
「駄目かな」
成は戸惑うように私を見つめる。
「お仕事は楽しいほうがいいと思うわ」
「よかった」
成は嬉しそうにニコリと微笑んだ。
今日はカレー。
くるくると鍋をかき回す私を成は後ろから抱きしめて髪に顔をうずめている。
ここは私と成だけの空間。けれどもこの部屋の外はそうではない。
仕事はしなければならない。それなら楽しい方がいい。仕事は必要な事項。成が私との生活を繋ぎ止めるためにも必須な事項。そう頭の中で切り分ける。
本当は私以外に目を向けて欲しくない。でも仕方ない。私と成の体は2つに別れている。2つの物体は勝手にくっついたりはしないのだ。物理的な問題。1つでいるためには努力が必要。世の中はままならない。でも。研究室を思い出す。全てが成に必要なものなのだろうか。
詳しく聞いた。
研究室にある機材が成には必要だ。今の研究室で成と共同研究しているのは8人。外部に6人。それほど多くはない。けれども新素材の開発で将来的には関わる必要がある人も多いだろう。
成から自動的に転送されてくる全てのメールと電話の録音からもそうだろうと思った。以前はどうでもいいようなメールを送り合ったりしていることもあったけど、成が今しているメールは本当に仕事のことだけ。
たまに録音を聞くけれど必要最低限と必要最低限の途中に差し挟まれた雑談に最低限に返答しているだけ。成から雑談をふることも雑談の中で新しい話題をふることもない。そのことに酷く安心する。
自分で成に求めておいてとても不思議なことだけど、成は仕事以外は本当に私のことばかりだ。
今日も私を職場に紹介するということで連れて行ってもらった。だから私を紹介するのに必要な雑談をした。その範囲だ。成自身も私といれば私とだけ会話をしたい。そんな様子が見て取れた。
私は成を独占している。成の目は目の前にある仕事を除いて私以外には向けられない。
それに深く安堵と歓喜を覚えたけれども、その価値観の一元化が成の精神を不安定にしているのも理解している。私がいなければ他になにもないと思わせているのは私自身。けれども成が他のものを見るなんて許せない。私だけを見ていればいい。葛藤。
でもその両立は不可能。
成が私と一緒にいられない間、成の精神が安定する場所はなく、成は不安定に壊れ続けていく。仕事をしているときは仕事に集中しているからまだましだけど、問題は仕事をしていなくて私が近くにいない時。1人で食べる昼ごはん、機材の空き待ちの待機時間。その時間、成は空っぽになって、どんどん欠けていってしまう。
そんな様子が機械から再生される成の日常から聞きとれた。
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