3月5日 啓蟄 春とともに。

3月5日 晴れ 啓蟄けいちつ

 生き物が冬から目覚め、ふきのとうの花が開く季節。


 2回目の運命の日で、最後の運命の日。

 その日はすっかり晴れていた。僕は大学に長期休暇を申請していた。入学試験の採点という怒涛の激務が終わった直後からの休暇。それで一応、三価クロムも研究室から拝借してきた。でも僕は紫帆を説得しようと思っていたんだ。

 結局紫帆が言ってることはよくわからない。紫帆の1番の希望は僕が紫帆だけと一緒にいること。そのうち僕が違う人に恋をしたりすることを考えると居てもたっても居られなくなるらしい。僕は紫帆以外を好きになることなんてありえないし、紫帆もそれはわかっている。けれども不安になる。それはわかる。僕もどうしようもない。このしっかりと抱きしめていても、手の内側からこぼれ落ちてしまいそうになる不安。

 僕も同じようなものだ。

 僕は紫帆が勝手に居なくなったりはしないことを知っている。でも知っているのと安心できるのは違う。どうしても不安は消えない。この世界に僕をつなぎとめる理性が『可能性としては存在しうる事象』だって言う。

 そんなことないと思いたい。でも確かにずっと紫帆を見ているわけにはいかないから、外にいるときに誰かに攫われたり事故で死んだりすることはあるのかもしれない。自分の見えないところで紫帆がいなくなるのは嫌なんだ。多分あの入学式の時に見失った喪失感は現在もずっと尾を引いている。

 あのときは紫帆が僕をみつけてくれたけど、次は見つけられるかわからない。

 それにいつかまた病気になるかもしれない。病気にならないなんてことはないだろう。そうするとひょっとしたら、死んでしまうかもしれなくて。死んだらいなくなってしまう。特に病院とか外で死んだら僕にはもうどうしようもないうちに燃やされて骨になることが決定されてしまっいて、紫帆はどこかの土の下に隠されてしまう。チロみたいに。


 知らないうちにいなくなる。やはりそれが1番耐え難い。

 紫帆が風邪を引いたあの3日間。紫帆がいなくなったら僕が耐えられないことは僕自身も身にしみていた。でもだからって。

 結局、この世界では僕らはずっと一緒にいることなんてできやしない。働かないと生きていけないし、家事をするにもくっついたままじゃ無理だ。例えば僕らがスライムみたいな生物だったらそんなこと考えずにずっと一緒にいられたのかな。少しでも離れる時間が耐え難かった。


 僕も紫帆も、お互いがいないと生きていけない。


 紫帆は僕が紫帆以外のものにならないように僕に名前を刻みたいと言っていた。マーカーだとすぐ消えてしまうから消えないものを。消えない名前。そんなことしなくても僕はもう紫帆のものだし紫帆のことしか考えられないんだけどそれで紫帆が安心するならかまわない。

 僕の専門は鉄だ。小規模で複雑な形状の鉄の疲労破壊の研究をするとか適当な理由をつけて、難しい漢字の形の鋳型を作った。夢とか蟲とか霧とか。そのなかに紫と帆を混ぜた。それほど大きな物ではないけど、それぞれ2センチ角の「紫」と「帆」という字の浮き出た印。


 1月の頭に作って研究室の端に転がっていた小型のバーナーを借りてきて、800度くらいに熱した印を僕は僕の身体に押した。焦げる匂いと煙が出た。そのくらいの熱じゃないと真皮まで到達しないから文字が残らない。

 頭では痛いだろうってわかってたんだけどさ、想像とか遥かに超えてめちゃめちゃ痛くて涙が出た。だから強い痛み止めを分けてもらった。共同研究している医療系の会社の知り合いに変な研究者がいてよかった。桜川さくらがわっていって同年代だけど、医師免許も持ってて治療もしてくれた。

 Mなの? って聞かれたけど絶対違うと思う。Mの人ってなんなの? 痛いのが好きなんだよね。意味がわからない。痛いのは嫌だ。

 自分で押したって頭おかしいの? って聞かれたけどそんなに変かなと思った。だって僕か紫帆が押すなら僕が押すものじゃないのかな? 紫帆がもし火傷したらと思うと嫌だったし。

 結局の所、僕らにとって押すこと自体に特に意味はなくて、名前を残したかっただけだから。僕は紫帆のもの。紫帆は僕が痛さで泣いていたら、ごめんねって抱きしめてくれた。だから、それはそれでいいのかなと思った。


 変かな。

 実際のところ痛み自体はそこまで長続きはしなくて、そのあと焼けた部分がずっと痒いほうが大変だった。

 それから今日までちょくちょく押して、途中からは桜川の会社でこっそり押してもらった。痛いのは嫌だったしすぐ手当して薬ももらえたから。僕が痛がると紫帆が悲しむ。それもなんだか嫌だったし。

 桜川は火傷を含めた外傷のリカバーの研究をしてるから、傷口の変化を見たいらしい。桜川の今の仕事は僕の超高純度鉄を使った細胞培養実験だ。だからこれは仕事だよねって言ったら紫帆は微妙な顔をしていいよって言った。

 よかった。痛いのは嫌だったし。


 僕へのクリスマスプレゼント。僕はやっぱり一時でも紫帆から離れ難かった。ちょっとでも触れていないと安心できなかった。いっときでも離れたくない。そうクリスマスに相談したら紫帆は変な提案した。頭の理解がよくおいつかなかった。それはちょっとどうかと思ったから断った。

 僕は冬が嫌いだからクリスマスなんて冬のイベントは正直あまりこだわりがない。少しでも一緒にいてほしかった。だから今日帰ったら話をしようと思ってた。


 夕方、家に帰ったら紫帆がベッドで倒れていた。

 何が起こったかわからなかった。あんなに僕がいないときにいなくならないでっていったのに。紫帆はわずかにまぶたを上げて僕を見る。どうして。枕元に薬のシートが散らばっていた。

「紫帆、救急車呼んじゃ駄目?」

「今日はなんの日?」

「啓蟄」

「本当は立春を超えたくはなかった

「ごめんね」

「いいのよ。見せて

 僕はいそいそと服を脱ぐ。たくさん紫帆の名前が刻まれた体。いくつかは透明な保護シートが貼られている。

「痒い?

「うん、ものすごく。でも掻いたら崩れちゃうって聞いたから我慢してる」

 ごめんね

「大丈夫」

 成は違う何かに成ってしまう?

「なんにもならないよ。僕はずっと紫帆と一緒にいる。このまま」

 私たちはたくさん話をしたわ

「うん、でももっと話したい」

 大丈夫、ずっと私は成と一緒

 紫帆がゆっくりと目を閉じようとする。僕は急いでまぶたにキスをして閉じるのを邪魔した。いやだ、行かないで。

 大丈夫、ここにいる。

 どこにも行ってない?

 そうここにいる。大丈夫だから。安心して。

 そっと触れた首筋の脈はもう動いていない。目は、僕が邪魔した片方だけ開いていて、少し瞳孔が開いて、光の反射がなくなった。


 嘘。もういない? 大丈夫よ、一緒にいるから。紫帆? そう、成、大好き。大丈夫だから。

 口を開けてみる。舌をつついてみても動かない。少し齧る。舐めてみる。だんだん、乾いてくる。唾液が、もう、出ないのか。唾液をがんばってだして紫帆の口蓋を舐める。紫帆? いない? 叫びだしたくなる。大丈夫、ここにいるから。成、安心して。片方だけ空いた目を見る。フラットな、かんじ。もう僕を映してくれないの? 大丈夫よ、一緒にいるわ。怖がらないで、成。紫帆の目が少し、乾燥しているような。もう涙腺から涙はでないのか。もう、動かない。嫌だ、悲しい。どこにもいかないで。大丈夫、私はここにいるわ。瞳を舐めてみると少し、ぐにゃりとした。紫帆。動かない。でもまだ充分温かい。そう、私はここにいるわ。大丈夫、安心して成。ずっと一緒にいるから。本当に? 本当。ずっと一緒にいる。だから、急いで。

 その言葉で思い出す。

 そうだ急がないと。紫帆の服を脱がせる。力が抜けた体は結構重い。横を向かせて心臓を押す。胃からは少しの胃液の残りの他は何もでない。仰向けにして恥骨を押すと少し水分が出た。お腹をぐるぐる押す。何も出ない。そういえば僕は昨日帰りが遅かった。紫帆は昨日から何も食べてなかったのか。そんな気がしてきた。ええと、どうするんだっけ。成、落ち着いて。大丈夫だから。道具は私が揃えておいたから。道具? そう、足元の方に。手元に引き寄せる。

 そう、首の下を割いて胸骨に沿って開いて食道と直腸を断って消化器系を取り出し、横隔膜を外して循環器系と呼吸器系を外して、あばらを剥がして恥骨と脛骨を抜いて背骨を取って肩甲骨を剥がしてええとそれから四肢を割いて骨を抜き丁寧に肉を剥がして皮から脂をこそげて乾燥させて機材でクロム液を浸透させた後に乾燥させて脂を塗り込み内面を砥石で削って仕上げた。

 気がついたら寝て、倒れるように起きて、何が何だかよくわからないままお腹が空いたら冷蔵庫に入れた肉をたべて、疲れて天井の紫帆を眺めて、なにがなんだかよくわからないまま日が過ぎ去った。


 カレンダーに目を向けると休暇は後3日。

 休暇の間中、僕は毎日紫帆と一緒にいて、一緒に眠った。ずっと一緒だった。いつも朝に紫帆か僕が家を出るから、こんなに長く一緒にいることはなかった。

 春。暖かい。

 紫帆に抱かれてとても安心した。紫帆とたくさん話しをした。ひょっとしたら僕は紫帆が動くから不安だったのかもしれないと少し思った。紫帆のしっとりした皮膚を撫でながらそう思う。動くからどこかに行ってしまう。反応するから拐かされてしまう。そんな気がしたのかな。

 でももうすぐ休暇が終わって仕事が始まってしまう。紫帆を連れていかないと。離れるなんて嫌だ。どうしよう。革。皮革製品。靴なんてとんでもない。服や手袋は通年いられない。そうすると。そういえば紫帆に指輪をと少し考えていたことを思い出した。

 ネットでクラフトのページを検索した。菱目打ちとかカシメが必要。加工に必要なものは手元になかった。僕は指輪になる大きさだけ革を持ち出し久しぶりに身なりを整えて外に出た。


 玄関の扉を開けるとそこにはもう春が広がっていた。

 ふわりと優しい風にのってどこかから沈丁花の香りが漂って来る。草木は青さを増して焦茶色の木々が今にも新しい葉を芽吹かせようとしている。でも、そんな目の前に見える春より僕の手のひらの中にある小さな春の方が圧倒的に暖かかった。

 成、ずっと一緒にいるわ。安心して。わかってる。大丈夫?

 道具を買って、公園やその辺を散歩した。世界は明るく幸せに満ちていた。

 そういえば紫帆と出かけるのはゴールデンウイークにハイキングに行って以来だ。ずいぶん久しぶりだ。あのときはあんなに不安だった。今はなぜか妙に落ち着いてる。不思議な気分。これからは色々でかけましょう? そうしようか。

 家に帰って道具を広げた。

 革細工は初めてだけど、手先は細かいと自負している。床面とコバを磨いていくと革が艶々になってくる。指を舐めていた時と同じような感覚で紫帆を磨く。もう汗は出ない。小さいカシメを1つ打つと完成した。思ったより簡単だった。紫帆、奇麗にできた。

 もう1つ作ろう。サイズ感としては薬指用と小指用。あまり指輪を増やしても変だよね。あとはチョーカー? そのくらいなら。

 夜は紫帆に包まれて眠った。とても暖かくて安らぐ。成、ずっと一緒よ。うん。

 休みの最後の1日、僕は紫帆と一緒にゴールデンウイークに登った山にリトライした。まだ少し肌寒かったけど、紫帆が僕を暖める。手をつないで、首筋を撫でられている気分だ。あの時周る予定だったコースをめぐる。スニーカーが湿った土を踏みしめる。歩く一歩一歩がとても楽しい。


 多分僕は紫帆がいなくなってしまうんじゃないかととても怖かったんだ。だから山の景色とかそれどころじゃなくて。でも今、目の前には紫色の少し尖ったカタクリの花や黄色い福寿草が咲いている。奇麗だね。ええ、本当に。


 そして新学期が始まった。

「あれ? 雪村先生なんか感じかわった?」

「そうかな」

「うーん、あ、頭がぼさぼさじゃない。それからちょっとパンクな感じ」

 緑木が首元のチョーカーを指差して呟く。

 パンクかな? 普通の地味目なものと変わらない気がするけど。身だしなみは整えるようにした。紫帆と一緒に歩くなら、きちんとしてないとなんか恥ずかしくて。

 紫帆は誰とでも話していいって言ってくれたから緑木と友達に戻った。けどいいのかな。いいのよ、私はずっと一緒ににるんだから。そう? 僕は別に話さなくてもいいんだけど。あなたそれじゃ何が良くて何が良くないかわからなくなるでしょ? それもそうかも。


 桜川は目をしばたたかせた。

「本当にやったんだ」

「見る人が見るとわかるかな?」

「現物見たことある人なんてほとんどいない。豚とでも行っておけばいい。大丈夫じゃないか?」

「そう、よかった」

 紫帆を豚と偽るのはなんだか嫌だけど。あら、私は別にかまわないわ。成以外からどう思われても。そうかな。

 ベッドに横たわる。

「そろそろ押すところはない」

「そう? 背中は」

「重ねないと無理だな」

「重なるのは嫌だな。読めなくなるよね」

「そうするとあとは膝裏とか脇とか関節部分だな。痛いよ? 他だともう見えるとこぐらいだ」

「うう、見えるとこは駄目。普通に暮らせなくなっちゃう。痛いのは嫌だけど我慢する」

「ほんとにMじゃないの?」

「絶対違うと思う」

 骨は炭素を抽出して6つの小さいダイヤにした。桜川との共同研究で骨からより高純度な人造ダイヤを作る実験という名目だ。2つはピアスにして、1つはタイピン、1つはペンダントトップ。2つは原石のまま。

 桜川が研究費名目で費用を出してくれたから助かった。代わりに分析に少しだけ協力した。紫帆がいいっていうから。でもすぐ帰ってきてね、本当に。他人の手にあるなんて不安で。桜川は信用してるけど。


 冬は寒いもので、春は暖かいもの。

 春のような紫帆。僕は紫帆といつも一緒にいる。これからもずっと。

 だから僕はもうずっと暖かい。

 春分。今は最も春の盛んな日。

 僕は君を纏う。


成編、おしまい。

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