冬をわたしに side紫帆
4月10日 鴻雁北
4月10日 薄曇り 入学式
雁が冬をもとめて北へ渡っていく季節。
私も行きたい、冬が続く国へ。春なんて来てほしくなかった。
でもこの日、私は運命的な出会いをした。
運命的なのは出会いだけで、その人と出会ったこと自体は『運命的』ではなくただの『運命』だった。だから驚きには値しない。
とはいえその出会いも現象面だけを見ると、それほど派手なものではなかったのだけど。
その日の私は、神津大学の入学式会場に向かって桜並木を歩いていた。
正直入学式にさほど興味はなかった。面倒臭かったけど、友達がみんな行くから仕方なく。
華やかな友達と違って紺色の地味なスーツ。私はあまりイベントに興味がない。みんな行くからとか、将来振り返った時にそういえば行かなかったなとか、そういったどうでもいい後悔をしたくないからとか、単なるその程度の話。だから汎用性の高い無難な服を用意した。
私の名字は
春の夜。それはなにか浮かれた響き。でも私の人生にはとりたてて浮かれ立つようなものはなかった。それに春の夜はいつのまにか流れ去り、記憶にしか残らない。いいえ、多くは記憶にもろくに残らなくて、なんだかそんなことがあったなという不確かで漠然とした
見上げると花びらが散っていく。
ほら、こんなふうに私はあっという間に過ぎ去って朽ちていく。
そう思った時、私の隣を誰かが駆け抜け私の目の前で大慌てで立ち止まって振り返る。
その時、世界の全ては凍りつき時間を止めた。
まだ名前も知らなかったその人は私を世界に縫い留めた。
その人の視線は冬のように優しく私を凍りつかせてこの世界に私を繋ぎ止めた。
過ぎゆく時間から切り取って。
世界が白くガラガラと崩れていく。
私は冬の端っこを捕まえた。
もうどこにもいかなくていい。一緒にいればそれでいい。全ての変化を拒絶しよう。
雁が冬を求めるように私は冬に魅入られた。
もう春なんて来なくていい。
そう思ったのに。
その人はあっという間に走り去ってしまい、あまりのことに呆然とした。何が何だかわからなかった。何故あの時すぐに追いかけなかったのか。そんなことを今更思っても、もうどうしようもなかった。
見た感じ、20代後半くらいでスーツを着ていた。年齢からおそらく学生じゃないだろう。スマホに謝りながら走り去ったということは、ひょっとしたら父兄だろうか。入学式に出席する予定だったのかもしれない。でもひょっとしたら違うかもしれない。
式場の講堂に入れば式が終わるまで出られないだろう。もし関係者じゃなかったら、もう会えないかも。そう思うと講堂に入る勇気はなかった。
待ち合わせをしていた友達に断って講堂の前の道であの人を待つことにした。その少しの時間の間にも2列で立ち並ぶ桜は忌々しくも花弁を撒き散らしている。まるで砂時計の砂が落ちるように有限の花弁が散りきるまでのカウントダウンをしているように時間の経過を刻みつける。
花弁が全て散り果ててしまったら、1枚の桜の花びらなんて誰もその記憶に留めない。
どのくらい経ったか並木を睨みつけていると、講堂からざわりと人が流れ出す。その人並みが途切れてしばらく経ってもあの人は出てこなかった。私があの人を見逃すはずがない。ということはあの人は新入生の父兄ではないのだろうか。やはり入らなくてよかったと思いながらも、それではどこに行ったのかという疑問が首をもたげる。
並木の先を見据えて地図を確認する。
この先は理学部棟と工学部棟。スーツは着ていたけれども営業のサラリーマンにしてはその装いはラフだった。とすれば研究員? 再度あたりを見回したけれど、式の終わった講堂周辺には人通り自体がほとんどなかった。あの人は見つけられない。午後は学部でシラバスとか必要書類の受け渡しがある。
……シラバス。そうだシラバスを見れば理学部と工学部の授業内容もわかる。もし講師かなにかなら、そこに名前が登録されていないだろうか。名前も知らないあの運命の、手がかり。
学部に急いでシラバスを受け取り、片っ端から縦覧した。写真にあの人はない。とすれば写真がない人。上から順に名前を画像検索する。取りこぼしのないように『あ』から順に。違う、この人も違う。違う……。
ひょっとして大学関係者じゃなかったの?
そんな焦りが心を急かす。いや、講師じゃないとしたら博士課程とかかも。各教授の研究室を徹底的に検索したら写真が見つからないだろうか。でも、もし無関係だったら。そんな恐怖が全身を浸し始める。
会ってしまったら、もう会えないなんて耐えられない。
大学に入ったのだから出てくるのを待ったほうがよかったんだろうか。でもあのキャンパスは出口が複数ある。どうしたら、どうしたらよかったの。どうしたら。そんな悲鳴を頭の中で響かせながら、震える指でようやく到達した『ゆ』。
この人が私の運命。
この人の講義で私がとれるものは一般教養の『熱力学』だけ。急いで授業を登録する。他の科目なんてどうでもよかった。適当に埋めた。
ネットにはあの人の情報がいくつか出ていた。鉄を研究している。27歳。工学部助教。
……今から会いに行ってもいいだろうか。気持ちがはやる。会いたい。思い出す。
あの人は私の運命。……でも、そこでふと我に帰る。
あの人にとっても私は運命なのかな。一瞬だけ合った目からはあの人も私をそのように思ってくれたような予感はする。けれどもわからない。
押しかけていくと迷惑にはならないだろうか。運命であることは知っているけど、あの人がどういう人なのかはわからない。ネットにも性格の情報なんかは出てこない。SNSもやっていないようだ。ひょっとしたら人前で知らない人と話すのを嫌うタイプの人かもしれない。
心に募る焦燥。手探りの闇。だけど、見つけた。わずかに掴んだ細い光。だから無駄に焦りはしない。私は彼を捕まえる。この煉獄のような胃の腑の滾りを抑えてあの人の冬を思う。
私の学部は入学式がある本部キャンパスとは少し離れたところにある。だからあまり時間は取れなかったけど隙間を見つけては本部キャンパスまで行ってあの人が通りがからないか探して、長い時間カフェから並木を眺めた。
その頃には桜はとうに散って、観念的な記憶としてしか桜は人の頭には残り得なくなっていた。忌々しい。早く捕まえなければ私もあの人の記憶からこの桜のように紛れて霧散してしまうのではないか、不安になった。そもそもあの人の頭の中に私のかけらが残っているかどうかすら定かではないのにね。
結局あの人には会えなかった。砂をはむような毎日は日めくりカレンダーを1枚ずつ剥ぎ取るように私の心を不安で抉りながらも過ぎ、捲るごとに私の胸は再会の期待に昂り、その内側を真っ黒に焦がした。
そしてその日は訪れる。
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