5月5日 立夏 その毎日の喪失が許せない。
5月5日 雨
春の頂点。そして夏が少しずつ始まる季節。
世界は破壊と再生を繰り返していた。
そう書くとなんだか頭がおかしい気がするけど、少なくとも主観的にはそうだった。僕は紫帆と片時も離れたくなかった。だから、再開したその日から一緒に住むことにした。
あの日の僕は18時をしばらくを過ぎてから実験棟を飛び出し、約束したカフェに走った。春の夜は日を追うごとに短くなり、ちょうど校舎の西の
カフェに着く頃には僕の影はすっかり地面と区別がつかず、かえって繁華街の騒々しい光が僕をくまなく照らしていた。
やばい、もうすぐ19時。あせって左右を見渡すと、確かにそのカフェの中に紫帆がいた。もう見失いたくない。
紫帆は少し怒っているように見えた。
「遅くなってごめん」
謝って席につく。とりあえず生、と思って紫帆の飲むアイスティーのグラスに気がついて、新入生ならまだ未成年かと思いジンジャエールを注文した。
氷が詰まって汗をかいたジンジャエールと、すっかり氷が溶けきったまま水と紅茶が分離したアイスティー。ずいぶん待たせてしまった。申し訳ない。
それでもカチンと音をたたせて再開を祝い、ようやく紫帆に笑顔が戻る。
再び会えた。とても嬉しい。耐えがたい喜びが心に満ちる。悲しいとか苦しいとかばかりだと思ってたけど、喜びも耐えがたくなるものなんだな。もう離れるなんて無理だ。耐え難いよ。
先週感じていたよりもっとずっと強くそう感じて、一緒にいるのにまた視界から消え去るかもしれないという可能性に恐怖した。
「雪村先生」
「あの、成でいい。ええと、春夜さん?」
「私も紫帆でいい、成、これからよろしくね」
「うん。僕の方こそ」
その柔らかく揺れる唇にキスしたい。でもここは外だから。
もどかしい。世の中に僕と紫帆以外に存在しなければいいのに。そんな劣情を込めて紫帆をぼんやり見ていると、不意にその唇は微笑んだ。
「じゃあ行きましょうか」
「あれ? 晩御飯は?」
「そんなものはテイクアウトすればいいの」
急いでジンジャエールを飲み干して、店頭に並んだデリを適当に選ぶ。店の滞在時間は5分もなかったかもしれない。
そのまま僕は紫帆をアパートに連れ込んで、愛し合って、買ってきたデリを食べて、また肌を重ねて、いつのまにか朝を迎えた。
今は紫帆が着替えるのを眺めている。今日は振替の実習があるらしい。
夜に会って朝に別れる。それがもう、2週間も続いている。毎日訪れる世界の終わりと始まりに僕はすっかり参ってしまって、日々心は不安定になっていく。
なんだか耐え難い。実に耐え難い。本当に耐え難い。どうして世の中というものは色々なことを果たさなければならないんだろう。煩雑で、複雑で、不愉快で。ハ行の言葉なんて滅びればいい。でもそうするとハッピーもなくなるのか、とかそんな益体もないことを考えてながら、ただ時間が過ぎていくのに耐える。紫帆のいない時間を。
紫帆がリップを塗る姿に別れが目前に迫っていることを感じる。嫌だ、嫌だ、離れるのはおかしい。そんな悲鳴が僕の頭の中でこだまする。
紫帆は僕に気づいて、目と目の間を優しく擦った。また眉間に皺が寄っていたのかも。そう思って紫帆の右手をとってその甲にキスをした。
「嫌だ。行かないで」
「私もずっと一緒にいたいわ」
「そうしよう!」
「成も仕事があるでしょう?」
そうだ、研究しないといけない。でもそれはまた別の次元の話だ。どうしても今この瞬間の喪失を止めたい。気持ちばかり焦る。どうしたらいいんだろう。
紫帆は自分の髪の毛をパチリと抜いて僕の薬指に結んだ。
「これでどうかしら。一緒にいるわ」
一緒。指を掲げて見る。艶やかな紫帆の春のかけら。愛おしい。紫帆が僕の頭を撫でて何本かの髪を毟る。それを口の中に入れる。
「美味しいの?」
「どうかしら。成の髪の毛は短くて結べないから」
「そっか、ごめんね。伸ばした方がいいかな」
「そのままでいいの。これで夜まで我慢出来る?」
「頑張る」
優しく頭を撫でる腕に頬を擦りつける。それをそっと解くように紫帆はカバンを肩にかけた。今日も僕のいるべき場所がカバンに奪われてしまった。羨ましい。
「成、今日は18時過ぎには終わるから晩御飯作るけど何が食べたい?」
「何でも嬉しいけどオムライス食べたい」
「わかった。早く帰って来て」
「大好き、成」
「僕も大好き、紫帆」
キスをして、紫帆はあっさり出ていった。やっぱり寂しい。薬指を見る。でも紫帆のかけらがここにある。その
部屋を見渡すと僕の部屋は紫帆のもので埋まっていた。僕の持ち物はパソコンと研究資料以外全部捨てられて、全て紫帆が選んだもので埋まっている。どこになにがあるのかは、コップと歯ブラシくらいの位置しかわからない。けれど、紫帆に囲まれているような気持ちになってとても落ち着く。
まだ少しだけ紫帆の香りの残る布団を嗅いでいるとスマホがけたたましく震えた。疎ましいアラーム。起きないといけない時間。布団を引きずって歯を磨いて、布団の中で服を着て、時間のギリギリまで粘って仕方なく布団を脱ぐ。春のように暖かかったのにまた冬に戻ったみたいだ。
一つため息をつくと、もうすっかり冬は終わったはずなのに口元が少し白く煙ったような気がした。
春が欲しい。紫帆が。
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