4月20日 穀雨 やはり運命だったんだ。
4月20日 晴れ時々雨
全ての成長の準備が完了して、それを助ける春の雨が降る季節。
それは運命の日。
その日は初めての熱力学の講義だった。僕にとっては好きな分野ではあるんだけど、たいていの学生にとってはそうではないのは毎年のこと。
レーザーポインタでスクリーンを示しながら、ああだこうだといろいろなことを考えながらふと教室を見渡すと、ポインタが転がる音がして僕が落としたんだと気がついた。
カラカラという音が響いて教室がざわつく。
でもそんなことはどうでもよくて、また目を離していなくなったらと思うと、もう無理だった。
運良くチャイムが鳴って、なんとか口を動かして、辛うじて終業の宣言をする。がたがたとざわつきが去って誰もいなくなるまで、僕は目を離さなかった。そして目は離されなかった。
寒くも熱くもない灰色の教室に僕ら以外誰もいなくなったとき、お互いに近寄ってキスをした。そうすると、明るい日差しが窓からゆったりと差し込んできた。世界は再び晴れたんだ。なんとなく、そう思った。
その再会は驚くほど静かだった。てっきり運命というのは劇的なものだと思っていた。ちょうど紫帆と最初に出会った時、まるで世界が破裂して壊れてしまったように感じたから。
でも再開した時、すでに世界は壊れた後で、その訪れは当然のように僕の前に横たわり、どうするべきものなのか、そんなことは世界が壊れたときに僕の頭にするりとインプットされていた。
その時の心境は今もってよくわからない。
そうするのが当然と思っただけだから。
でもキスしてから、僕はものすごく慌てた。頭の中の常識を思い出してそのズレに驚愕した。名前も知らない女の子にいきなりキスをするとか、しかも学生だし、それから嫌われたらどうしようという激しい動揺。でも壊れた世界の側にいる僕は、嫌われないこともするりと分かっていた。
「あ、あの、ごめん、つい」
「私は
「僕は
「なりって読むんだ。なんて読むのかと思ってた」
「え? どうして」
「シラバスを調べたの。先生に会いたかったから」
「僕に?」
それからまたキスをした。
紫帆のほうが少し背が低かったから僕が少しかがんで。初めて会ったはずなのに、ずっとこうするって昔から決まっていたみたいだ。
春の天気は移ろいやすい。
その時ちょうど風が吹いて、窓の外が黒くて分厚い雲に覆われて、どこかでバリバリと春雷が響いたと思ったらパラパラと雨が降り出した。教室の大部分は暗く影に沈み、だけど、僕と紫帆の周りだけは変わらず春が漂っていて、影の中でも紫帆から感じる春の気配がとても暖かくて、幸せだった。
春の運ぶ、暖かい雨。
ちょうど午前の授業の終わりの時間。
だからカフェテラスでお昼にすることにした。目の前に紫帆がいる。それはとても不思議で、当然なことだ。
人でごった返した食堂でなんとか端の席を確保する。午後から僕は研究室で機材の使用予約をしている。紫帆も午後は学部で何かの手続きがあるらしい。だからその間際まで少しでも一緒にいないとおかしい。
「え、法学部なの?」
「ええ。そう。だからなかなかこちらにはこれなくて」
少し驚いた。それはそうだ。紫帆の通うべき学部は線路を超えた南側。なのに、わざわざ僕の授業を取りに工学部棟まで来たらしい。歩くと30分はかかる。
遠い。それなのに、僕の授業をとってくれたのか。
紫帆はシラバスの講師の名前を片っ端から画像検索して僕の名前を探し当てたようだ。僕はただの通りすがりかもしれなかったのに。そこまでしてくれただなんてと思えば、心の内側から喜びが湧き上がってくる。
「あれ? ってことは文系だよね。熱力学とかつまらないでしょう?」
「雪村先生が教えてくれればいいよ」
「わかった。でも文系だと高校物理からになるのかな」
「理科は苦手なんだけれど」
「じゃあ代わりに僕に歴史を教えて? さっぱりなんだ」
「それなら」
会話の中身なんてどうでもよかった。
どうでもよくはないのだけど、紫帆の全てを独占したい。その口から紡がれる言葉のすべてを。僕に向けられる紫帆の全てを。そんな思いが頭に絡まる。ぼんやり紫帆を眺めていると、紫帆の指が僕の指に絡まった。そのひんやりとした指先の冷たさが暖かい。
でも時間は残酷で、午後が始まってしまう。耐えがたい。耐えがたいけどでも。
再び世界が終わるような気持ちで連絡先を交換して、また世界が再生されることを祈って夜を待った。
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