春と冬
Tempp @ぷかぷか
春を僕に side成
4月10日 清明 万物は清々しく明るい。なのに僕は……。
4月10日 薄曇り
春が訪れ桜が芽吹き、万物は全て浮かれて美しい。
あれは丁度5年前か。あの年は今年より少し寒くて、それからまだ桜が散りきっていなかった。ふわりと暖かい湿った桜の木の香りを乗せた風がひゅうと君の後ろから吹いて、それを追いかけるように薄桃色の小さな花びらが何枚も僕の脇を駆け抜けていった。
その記憶は今も鮮烈で、目を閉じるとジジジと古い映写機を回すように真っ暗な世界の一部が桃色に変わる。そう、この道の両脇を覆う桜並木と妙に薄い青色の空。ピンク色の絨毯のように風にそぞろ流されるたくさんの花びら。全てが一時の夢のようにふうわりとしていた。
そうだ。僕は入学式に桜並木を歩く君に一目惚れしたんだ。
でも今年はもう桜はすっかり散ってしまって黒に近い焦茶色の桜の幹には黄緑色の葉が揺れている。その木漏れ日がキラキラと歩道を揺らし、その下をあの時と同じように新入生が笑いながら歩いている。
今年はあの年より気温はずいぶん暖かいけれど、もう君と僕が隣り合って歩くことはない。そう考えると、なんだか暖かいはずの春の風もずいぶん寒々しく感じる。
でもね、紫帆。僕は君とずっといるよ。君が僕を温める。ずっと一緒にいよう。
今年も春が来た。
◇◇◇
5年前はこんな始まりだった。
その朝、僕は少し寝坊してあわてて鞄を引っ掴み、アパートの階段を一足飛ばしでカンカン鳴らして駆け落ちた。見上げた空は薄く霞がかっていた。
なんだか花粉が多そうだ。
それが僕が抱いたその日についての最初の感想。
今日は入学式だ。式に出席しないといけない。自転車に飛び乗り大学に急ぐ。足を必死にクルクル回して結構な勢いで坂道を駆け下り、いつもの半分の時間で自転車置き場に自転車を投げ込み桜並木を全力ダッシュして急ブレーキで振り向いた。
その瞬間、春の風が吹いて、僕は恋に落ちた。
世界のすべてが桃色に染まった。
それがこの日について僕が抱いた残り全ての感想。
けれども僕はけたたましく鳴り響くスマホに謝りながらその場を後にするしかなかった。その後、入学式で講堂に居並ぶ新入生を必死で見渡してもその人の姿を見つけることはできなかった。スーツだったからてっきり新入生だと思っていたのに。
その人が僕の運命であることは一目で分かっていた。その出会いは、これまで僕が初恋だとか恋愛だとか思ってたのと全く次元を異にした。僕はあなたのものです。普通にそう思った。すっかり赤い糸で雁字搦めだ。だから一旦別れてもきっとすぐ会えると確信していたのに。
式の最中キョロキョロ見回して、あの人がいないことをようやく理解した時の絶望ったらない。
こんなことなら式なんて病欠すればよかった。本当に。物凄く悔やんだ。ただでさえ入学式なんてつまらない。なのになぜこんな目に。
でも欠席してたら多分出会えなかった。けれども出会えたのにもういない。
そう思うと余計、世の中が真っ暗になった。早くここから飛び出して探しに行きたい。そんな焦りで手のひらを湿らせながら、めでたいはずの式が早く終ることをジリジリと祈った。
◇◇◇
4月11日 晴れ 運命の日のただの次の日
「
「あーうー、だめ」
「まじどったの? 風邪?」
研究室のひんやりした白い事務机に突っ伏して、極小サイズのサイコロをピンセットで積み上げていた。何も考えたくない時の手慰みだ。10個積んで崩れ去る。ああ、もうだめだ。この世の終わりが来た。賽の河原にいる。そんな感じ。
「なー、
「そっすね」
「熱力学とか、女子取らないよね」
「取んないっすね」
「あぁあ~」
「そんなん、毎年でしょうが」
僕は
この大学で幸運にも助教をしている。27歳。最年少くらいだから、多分優秀なほうだと思ってる。
緑木はこの研究室の修士で、研究テーマは全然別だけど、なんだかんだと仲がよかった。気が合うという奴。
僕は鉄の組成の研究をしていて、主な研究材料は超高純度鉄だ。鉄の純度を上げる方法やどのくらいで破壊されるかといった鉄の疲労強度の研究をしたり、これを基礎に他の研究者と特殊合金を作ったりと素材に関する研究をしている。それで大規模な実験ができる機材や資材が揃ってて複数分野の研究者が所属しているこの研究室に所属している。
それとは別にこの
つまり、理系の中でも特に女子の少ない工学系分野。研究室にも教室にも女子なんてほとんど見ない。
結局のところ僕は昨日の朝、一目惚れをした。
その相手は入学式に出ていなかったから、式が終わった直後に飛び出して探そうとたのに打ち合わせに巻き込まれ、やきもきしながら急いで外に出たらもう誰もいなかった。
そりゃそうだ。入学式が終わったらみんなすぐにどこかに散ってしまう。
そう思った瞬間、僕の世界の彩度は数段階落ちた。桜のピンクもなんだか灰色に汚れて見えて、花壇に咲くチューリップなんかもみんなぼやぼやと灰色がかっているように見えた。
あの人とはもう二度と会えないんだろうか。そんな馬鹿な。
ちらりとそんな考えが頭によぎると耐え難い悲しみが肩にのしかかってくる。
それは駄目。
無理。
許せない。
出会ってしまった以上は会えないなんて耐えられない。
腹の中からバラバラになっていく、世界が崩壊する音がする、そんな気持ち。本当に入学式なんて欠席すればよかった。あの人を知らなければ、この喪失感も知らないでいられたのに。でも諦めることも考えられない。僕の運命はあの人なんだから。
よし、明日から時間があるときはあの桜並木を見張ろう。確かテラス付きのカフェがあったはずだ。そこで仕事しながら。
でも駄目だ、僕の研究は実験しなきゃ話にならないよ。講義の資料もつくんないとだし。こっそり桜にドローン仕掛けて見つけたら追うコードでも組むか? でもデータを、画像情報を入力しないと。ああ、僕は絵心がない。なんで写メんなかった。いや、いきなり写メったら通報案件だよな。せめて名前だけでも聞けていれば学校のサーバから調べられた、かもしれないのに。
「雪村先生目つきがやっば」
「うっさい。あぁ~」
「サイコロなんていじってないで今日はとっとと帰ったら? 先生なんかすげ気持ち悪いよ?」
「今日は営業の日」
「そんならしゃきっとしないと。髪めっちゃぼさぼさ」
そういえば今朝も寝ぼけて家を飛び出したんだった。研究室の洗面でちょっと手を水で濡らして手ぐしで髪を整える。いつもどおりの眠そうな顔。
今は大学も企業との共同研究が増えていて、僕は航空会社と医療系会社とそれぞれ共同して素材開発をしている。複雑な形状でも疲労しない合金の素材研究と、細胞の増殖基盤となりうる金属素材の研究。最近、超高純度鉄が哺乳類細胞の増殖基盤として期待されているらしく、そういう基礎研究の依頼が来ている。そういった仕事自体は好きなんだけど。
それで昨日の深夜まで悟りを開きながら作ってたプレゼン資料を鞄に詰めて外に出ると、肌寒い風とともに上空を灰色の羊雲がぷかぷかと歩いていた。
昨日のあの人がいないかと微かな期待を込めて左右を見ながら並木を歩いたけれども駄目だった。そういえばそもそも工学部じゃない可能性もある。入学式は1番大きい講堂があるこの本キャンパスで行われるけど、もし文系学部ならそのキャンパスは線路の反対側だ。
もしそちらのキャンパスのだとすると、卒業式まで会えないかもしれない。
そんなばかな。
絶望的な気分に拍車がかかって思わずコートの襟を立てた。耳元を吹き抜ける風はまだ少し冬を引きずっていて、寒かったから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます