イーリアス大祭 : 戦王、登場
イーリアス大祭の前日となった。
各地から出場を希望する者が連日集まり、女神の都市アテナ・ポリスは、これまでにない
人が増えれば、物流も増え、金がさらに回る。
エーゲ半島での祭典というのは神聖な行事だが、それ以上に、民も、旅の戦士たちも、この活気に熱狂している。
そして街中のとある宿に、ジンたちは泊まっていた。
なかなか立派な宿で、
宿泊者も多く、毎日が宴会のようににぎわっている。
好んで贅沢をするつもりはなかったが、空いている宿が少なかったため、ジンたちは結局この宿に泊まっている。
また一応、ジンとルシアは追われている身である。
過剰に警戒することはなかったが、あまり騒がず、不要の外出はせず、ただ寝泊まりしていた。
しかし噂というものは実に早いものだ。
エーゲ半島の都市コリントスの海兵たちを、酒場にて叩きのめした一件が、実に尾を引いた。
宿に入った時も、酒場で食事している時も、ジンたちは恐れられていた。
酒場で働く看板娘も、他の宿泊者も、ジン、ルシア、アレスの誰かが現れると、興味と恐怖が入り混じった視線で見てくるのだ。
「し、失礼します」
「うむ」
部屋の外から声が聞こえ、ジンは返事した。
ベッドに腰かけ、愛刀の手入れをしているところだった。
扉を開けて入ってきたのは酒場の看板娘で、この宿を経営する老夫婦の孫だ。
クセのある茶髪にそばかすの少女だが、笑顔満点で
しかしジンのことが恐いのか、入室してきた時の声は、少しうわずっていた。
さらにジンのそばには、刀が置いてある。
ただの少女からすれば、それだけでも恐怖に値する。
「食事をお持ちしました。ここに置いて、大丈夫でしょうか?」
「構わんよ」
娘の手には木のお盆があり、盆の上にはシチュー、サラダ、ミルクが入ったお椀が乗っている。
彼女は扉の近くにある小さなそで机に、そっとお盆を乗せた。
「うむうむ、ありがとうな」
ジンは優しく微笑んだが、娘はすぐにペコリと一礼して、急ぐように部屋を出ていった。
それからすぐに、ルシアとアレスが部屋に入ってきた。
「おはよう、じいさん。あの可愛いお嬢ちゃんにちょっかいをかけたのかい?」
「馬鹿言え、お前さんじゃあるまいし。夜遊びに行くと言って、朝まで帰ってこなかったのはどこのどいつだ」
「へっ、まあな。でもよ、じいさんも若い時はブイブイ言わせてたんだろう。大人しそうに見える人こそ、意外にヤンチャしているもんだ」
「ふん、さてな」
アレスの軽口を、ジンが笑って返す。
ルシアはくすっと笑いつつ、ジンに一通の手紙を渡した。
「イーリアス大祭の主催者から、出場者に配布された手紙よ」
「ほう、どれどれ」
ジンは手紙を読み上げた。
「本日、大祭の開幕を祝う前夜祭を行う。出場者はぜひ参加されたし……か」
「祭りだから、前日に酒盛りでもするのかしら」
「それもあるだろうが、まあ、事前説明が重要なのだろう」
ジンは戦国時代に、このような腕を競う大会に出たことがある。
こういった人を集める大会というものは、当日にあれもこれも詰め込むのではなく、前日に出場者に対して大会規則を伝達するのがほとんどだった。
「これほど巨大な祭りだ。冷やかし半分の人間をふるいにかけるためにも、前日に伝えるべき規則を伝え、当日に現れた者たちだけで腕を競う。逆にこの前夜祭とやらに顔を出さなければ、出場する意思を疑われてしまうやもしれん」
「なんだ、それならとっとと行こうぜ。堅苦しいだけじゃなく、ちゃんと宴を催してくれるなら、すっぽかす理由はねえだろう。しかもその紙によると、もう昼間っから前夜祭は始まってるらしいからよお!」
アレスはわくわくした様子だ。
若者らしく、酒好き、お祭り好きを隠すつもりがない。
「そうね、この宿に居ても特にすることはないし」
「うむ、では行くか」
こうして三人は宿を出て、前夜祭の開催地であるアテナ・ポリスの大神殿へ向かうのだった。
***
アテナ・ポリスの丘には、
かつての古代ギルシアス文明が最も繁栄していた時代の遺跡であるが、今もなお儀式、祝祭などに使われているため、アテナ・ポリス最大のシンボルとして有名だ。
なお、大神殿はただ一つの神殿を指すものではない。
大神殿の中で最大規模の『正殿』、
軍の凱旋を出迎える『
神々の石像が建ち並ぶ『大回廊』、
半円形に広がった階段状の『歌劇場』、
かつては王も裁かれたとされる『裁判所』など。
こうした古代遺跡がいくつも美しいままで残っており、それらすべてを合わせて、人々は大神殿と呼んでいる。
これらの遺跡を見るためだけにアテナ・ポリスに来る旅人も多い。
白い石造りの荘厳な巨大遺跡を見上げれば、誰でも感動で胸が震えるものだ。
たとえ聖王国の本土から来た天使信仰の人間でも、この神々の神殿に対する感動は嘘をつけない。
美しいものを賛美する心というのは、あらゆる人間に備わった
「やれやれ、やっと着いたぞ」
ジンたちは大神殿に続く丘の道を進み、昼前にようやく丘を上り切った。
丘へ続く道は旅人のための出店や市場が並び、とにかくにぎわっているのだが、そのせいで人が密集し、なかなか前に進めなかった。
すぐそこに丘と神殿があるというのに、やたらと遠く感じる道のりだった。
「すごい人だかりね。出場者だけじゃなく、商人や市民もごった返しているわ」
「出場せずとも、祭りとは人を喜ばせるからな。
「ふうん、あなたのいた戦乱の時代でも、ちゃんと祭りはあったのね」
「おいおい、どういう意味だ」
「人殺ししかいない世界だと思っていたわ。それこそ、こういう美しい神殿とか焼き払ったりするような」
「さすがにそこまで野蛮ではないが……いや、まあ、
ジンは自分がかつていた時代の天下人、織田信長のことを思い出した。
信長の行った比叡山焼き討ちは、武家に属さなかったジンですら、衝撃的な出来事だと
ちなみに剣豪とはいえ、ジン、林崎甚助は一介の剣士に過ぎなかった。
さすがに信長、秀吉、家康のような大人物に会ったことはない。
だが、旅の途中で、焼かれた比叡山にふらっと足を運んだことはある。
焼かれた家、寺、そして僧侶とその家族の死体。
その光景は殺しに慣れたジンでも絶句するほど、惨いものだった。
その時は信長に対する恐怖や義憤などは感じず、「これは時代が変わるな」と、若かりしジンはそう感じていた。
「それにしても美しい神殿だな。これほど巨大な石の柱が並ぶとは……人が造った建築物とは思えぬ、素晴らしい出来だ」
ジンはアテナ・ポリスの大神殿を見上げて、感嘆の言葉を漏らした。
イーリアス大祭の前夜祭は、大神殿の奥にある『歌劇場』で行われる。
三人はそれまで大神殿を観光しながら、歌劇場へ向かっていく。
周りにいる出場者らしき戦士たちも、ほとんどが神殿の美しさに驚き、うっとりとため息をつく者もいる。
中にはこの神殿の美しさを手元に残そうと、紙にスケッチを描く旅人などもいる。
「古代の文明とは、なかなかすごいものだ」
「そうね。それに聖王国の領内だから、こういった異教の神殿は破壊されると思っていたけど、ここまで綺麗に残されているのは驚きだわ」
初めてアテナ・ポリスに来たジンとルシアは、今までにないほど心を落ち着けて神殿をながめている。
聖王国の都にも美しい建造物はあるが、二人はすぐさま脱出せざるを得なく、これまでの旅もゆっくりと建造物を見て回ることはなかった。
「お二人もここは気に入ったか。俺も前に来たことあったが、やっぱりいつ見てもすっげえ綺麗な神殿だよな」
アレスはうんうんとうなずいた後、少し前に出て指差した。
「歌劇場はこっちだぜ。神殿も良いが、歌劇場に行けばさらに驚くだろうよ」
それからアレスは二人を先導していく。
他の出場者たちも同じ方向に進んでおり、おそらく前夜祭のために早めに集まろうとしているのだろう。
アレスの後についていくと、二人は半円に広がった広大な歌劇場に出た。
歌劇場は階段状になっており、中心へ進むにつれて観覧席が低くなっている。
一番低い中心が舞台となっていて、舞台の後ろ側にも立派な神殿が建っている。
どの席からも舞台を観覧できる造りは見事だが、驚くべきはその広さだ。
「立派な劇場だな。まさに祭りのため、祝いのための大劇場ではないか」
「……すごい。都の闘技場より、断然広いわよ」
ジンは面白そうに笑みを浮かべ、ルシアは珍しく目を瞬かせた。
「おうよ、これが大神殿でも一、二を争う人気の歌劇場……通称、『ディオニソス神の大舞台』だぜ」
アレスは歌劇場を紹介してから、周りを見渡した。
「さて、空いてる席は……と」
すでにかなりの出場者が集まっているため、なかなか空席が見つからない。
同じ国から出場している戦士団も多くいるため、団体で席を取って埋まってしまっているのだ。
「お、あっち空いてるぜ!」
そこで、ちょうど良く、三人分の席が近くに空いていた。
アレスの後をついて、三人は舞台に向かって左側上段の席に座った。
だが、三人がそこに座った途端、周囲がにわかにザワつき始めた。
「……なんだ? みんなして、こっち向きやがって」
アレスは首をかしげた。
しかしルシアとジンは、少し早く違和感に気づいた。
特にジンは、遠くから近づく重い足音を、三人の中で誰よりも察知した。
そこで、周りがヒソヒソと話している声が聞こえた。
「うわ、あの三人、運が悪いな」
「ああ、あそこがなんで空いているのか、知らなかったらしい」
「下手すりゃ殺されるかもな……あの方に」
その声をジンが耳にしたところで、後ろから来た重々しい足音とともに、座っていた三人がすっぽりと影で覆われた。
その男は、巨大だった。
背丈はもちろんのこと、体のあらゆるところが筋骨隆々としている。
鍛えられていない場所などどこにもないのだと言わんばかりの、見事な
彼の目は鋭く、力強く、それでいて
深く、濃いひげ、分厚いあご、太い鼻、そして荒々しい目元の切り傷。
まさに戦士とはこうである、と体現したような顔。
たてがみのような兜、膝当て、股ぐらを隠す鎧、そして深紅のマント以外には何も身に着けていない。
ほとんど裸の、怪物のような巨漢。
彼が持っている武器はただ一つ、あまりに巨大で、武骨な槍。
「マジかよ、あんたは……!」
アレスは目を見開いた。
目の前にいる男は、小さな国の王であったはずだ。
一つの国を治めている男が、なぜこの都市にいるのか。
その男はエーゲ半島に名を轟かす化け物。
エーゲ半島最強と呼ばれるスパルタ戦士団を率いる、伝説の男。
彼の名はレオン・テルモピュライ・ヌーダース。
『戦王、レオニダス』であった。
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