出会い : 不思議な老人
翌日、ルシアは久しぶりに試合のない休日を過ごした。
とはいえ、この闘技場から出ることは許されていない。あくまで闘技場の中を歩き回るだけで、彼女に自由は与えられていない。
彼女はフードをかぶり、観客席の外れに座って、試合をながめている。
フードは日差し除けのため、ではない。
素顔のまま観戦していたら観客が大騒ぎするため、こうして顔を隠して観戦しているのだ。
「ここにいたか、ルシア嬢」
そこにアントニオが現れた。
彼も今日は試合がなく、適当に闘技場の中をぶらついていた。
名前を呼ばれたルシアは顔を上げ、アントニオをにらみつけた。
そして、自分の口元に人差し指を当てた。
下手に名前を呼ぶな、という意味だ。
「おっと、すまんすまん……お嬢さん、隣に座っても良いかな」
そう言いながら、アントニオは彼女の返事を聞く前に、腰を下ろした。
ルシアはフードの中で嫌そうな顔をしたが、結局、何も言わなかった。
「お嬢さんも観戦か。でも今日は、大して人気のない剣闘奴隷しか出てねえな。捕虜の処刑もないし、観客もまばらで、さみしいもんだぜ」
アントニオの言う通り、観客の数が昨日と比べて明らかに少ない。
今は四人の剣闘奴隷と、牛型の魔物が戦っている。
盛り上がっていないわけではないが、昨日のルシアと巨人トロルの試合や、双竜帝国の兵士を魔物に食わせた処刑試合と比べたら、見どころのない試合ばかりだ。
剣闘奴隷たちは必死に生き残ろうとして戦っているが、観客たちを熱狂させるような試合内容ではない。
胴元のドミニクも、こういう試合の日はいつも機嫌が悪い。
主催者側に近い席に座っているが、足は細かく貧乏ゆすりしており、眉間には深いシワが寄っている。
「こりゃ、今日も旦那のボヤきが止まらないだろうな」
アントニオは苦笑いして、首を振った。
ルシアは無言だったが、彼女も同感だった。
今日の試合日程がすべて終わった後に、売り上げが少ない、とドミニクがボヤく姿が目に浮かぶ。
だが、そこで観衆がざわついた。
牛型の魔物が三人目の剣闘奴隷を角で突き殺し、あと一人で全滅といったところで、不意にぐったりと倒れたのだ。
「うお、ここで力尽きたか。血を流し過ぎたのか?」
アントニオも驚いたようで、わずかに体を前傾させた。
闘技場の中には、三人の剣闘奴隷の死体と、死にかけの魔物。
そして、唯一立ち上がっているのは、小柄な老人の奴隷だ。
「運が良いな、あのじいさん」
アントニオはくすくすと笑った。
小柄な老人は粗末な剣を構え、ふらふらとした足どりで牛型の魔物に近づき、首に向かって剣を突き立てた。
さすがの魔物も、無防備な状態で急所を刺されたらどうしようもない。
首から血が噴き出て、やがて魔物は動かなくなった。
「しょ、勝負あり!」
実況席の男が我に返り、慌てて宣言した。
予想外の結末だったが、観客たちはひとまず拍手を送った。
中には生き残った老人に向かって、「よくやった、じじい!」「これで寿命が延びたな!」「余生の運を使い果たしたぞ!」と、荒っぽい賞賛を送る観客もいる。
一方、老人は泣き笑いのような顔で観客に向かってうなずき、ふらつきながら入場口へ帰っていった。
老人は東部人のようだ。
聖王国で生まれた人間のような彫りの深い顔立ちではなく、凹凸の少ない、のっぺりとした顔立ちだ。
アントニオも賞賛をこめて拍手していたが、ふと、つぶやいた。
「あのじいさん、前の試合も魔物相手に生き残っていたような……」
そのつぶやきは、隣のルシアの耳に入ったが、彼女は気にも留めなかった。
だが、つぶやいた本人であるアントニオも、ただの偶然か記憶違いだと思いなおして、すぐに別の話をし始めた。
「そういや、明日の午後には第二聖騎士団が凱旋するらしいぜ。それに伴って多くの捕虜を連れてくるから、
「特別、試合?」
あまりアントニオの話に相づちを返さないルシアも、この話には反応した。
「ああ、そうだ。俺も人づてに聞いた話だが、何やら第二聖騎士団が戦果を挙げてきたようだ。捕らえた捕虜の中には双竜帝国の竜騎士もいるらしく、そういう大物を公開処刑するための特別試合を組むって話だぜ」
「あの竜騎士をここで殺すというの?」
「いや、さすがに竜と騎士は別々に出場させるだろう。都で竜に乗せてしまえば、王城は落とせないにしても、都の民に被害が及ぶだろうしな」
竜騎士とは文字通り、飛竜に騎乗して戦う騎士のことだ。
北の双竜帝国のエリート軍人であり、火を吹く飛竜に乗って暴れる姿は、聖王国の民にとって恐怖の象徴だ。
なお、この聖王国では、竜は悪魔の使いと呼ばれているため、竜に乗って戦う騎士団は組織されていない。
聖王国のエリート軍人は、祝福を授かった聖遺物を武器とする聖騎士なのだ。
「だが、万全の状態でなくても、竜騎士を処刑するという意味は大きい。国のお偉い方々もそれをわかっているからこそ、こういう試合を組むんだろうよ」
それからアントニオは席を立ち、あくびをして歩きだした。
「さて、俺は明日も試合があるし、今日のところはもう寝るぜ」
そう言い残し、彼は去っていった。
***
夕方になり、今日の試合がすべて終わった。
ルシアは観客席から離れ、階段で地下に降りていく。
ちなみに闘技場の地下には様々な施設がある。
剣闘奴隷や捕虜を収容する牢獄部屋、胴元の私室はもちろん、水で体を清めるための浴場、武器や鎧を修理して保管する鍛冶場など、一通りの施設がそろっている。
ルシアはそれらの施設の前を通過し、自室の前に戻ってきた。
鉄の輪っかを付けただけのノブに手をかけ、扉を引き開けようとした。
「あの、ルシアさん」
「ッ!?」
背後から声をかけられ、ルシアはすぐさま振り返って身構えた。
そこにいたのは、今日の試合で運よく生き残った、あの老人奴隷だ。
彼の手には、磨き上げられたルシアの剣がある。
「ついさっき、磨き上げが終わりました。明日もどうぞお使いください」
「……ええ」
ルシアは剣を受け取った。
だが、それよりも彼女の目線は、目の前の老人に向けられた。
声をかけられるまで、この老人が後ろにいたことに気づかなかった。
疲れていたわけでも、油断していたわけでもないのに、ルシアは完全に背後をとられていたのだ。
すなわち武器を持った人間に対して、自分は無防備な姿をさらけ出していたということになる。
ルシアは徐々に怒りが込み上げてきた。
お門違いな怒りだということはわかる。もしかしたら自分はひどく疲れていて、この老人に気づかなかっただけかもしれない。
それでも、このまま何も言わずに部屋に入る気にはならなかった。
「あなた、なんという名前?」
「へ? ……ジン、といいますが」
やはり東部人らしい、聞きなれないニュアンスの名前だ。
「ジン、ね」
ルシアは名前を繰り返してから、厳しい視線を向けた。
「少し時間はある? 剣を持ってきてくれたお礼に、果実酒でも振る舞ってあげる」
「え、いや、わしは別に」
「その老体で剣闘奴隷なんて大変でしょう。特にあなたの腕では、どうせ明日の命もわからない」
「それは、そうですが」
「せめて勝利の美酒くらい味わいなさい、ほら」
そしてルシアは、ジンを自室に招き入れた。
ルシアは部屋にあったイスにジンを座らせ、ベッドの下に保管していた酒を取り出し、栓を抜いた。
「昨日のトロルとの試合でもらった酒よ。さあ、どうぞ」
「……どうも」
ジンは酒を受け取る。
グラスなどはないため、そのまま酒瓶をあおって、喉を二度鳴らした。
意外にも良い飲みっぷりだ。
「ありがとう、ございます」
「いいえ。それより、どうしてあなたのような老人が、剣闘奴隷になったのか知りたいわ」
ベッドに腰をかけ、ルシアは質問を投げかけた。
「え? わしのこと、ですか」
「そう。同じ闘技場の奴隷なら、雑用をやる労働奴隷のほうが安全に過ごせるはず。なのに、あなたはわざわざ剣闘奴隷としてここに居る」
この闘技場、そしてこの都には多くの奴隷がいる。
その中でも剣闘奴隷は特に不安定な職種であり、金や名声を得やすいが、その分、命を失う危険も高い。
それゆえルシアは疑問に思った。
ジンのような老人なら、労働奴隷で働く方が性に合っている。
なのにこの老人は、あえて剣闘奴隷となり、幸運にも今日まで生き残っている。
ある種の興味、好奇心を、ルシアは抱き始めていた。
「そりゃ、金が欲しいからですよ。わしには金が必要なんです」
「……金?」
「ええ、金さえあれば、人生はどうとでもなります。わしのような老い先短い男でも、懐が温かければ幸せな日々を送れるので」
しかしジンから返ってきたのは、つまらない理由だった。
なんということはない、ただ金にがめついだけの男だったのだ。
「そう、もう良いわ」
「へ?」
「その酒はあげる。好きにしてちょうだい」
ルシアはため息を吐き、ベッドに寝そべった。
「まあ、せいぜい頑張って稼ぐことね。その腕なら、すぐに死ぬでしょうけど」
ルシアは鼻で笑い、部屋を出ていくように、と手振りでうながした。
だが、そこでジンが含み笑いをこぼした。
「そういうお前さんはどうなんだ。ひどく落ちぶれた、大魔王の孫娘さんよ」
一瞬、ルシアは耳を疑った。
大魔王の孫娘、という言葉をかけられたことは、ここに来てから一度もない。
もちろん自分から明かすはずもない。
明かせば聖騎士団に捕まって処刑されるため、細心の注意を払い、自分の正体を隠して生きてきたのだ。
なのに、この老人はたしかに『大魔王の孫娘』と口にした。
ルシアはすぐさまベッドから飛び起きて、かたわらにあった剣を抜いた。
「貴様、何者だ……!」
イスに座るジンに向かって、ルシアは剣を構える。
対するジンは薄い笑みを浮かべたまま、ルシアの顔を見上げている。
先ほどのおどおどした表情とは、まるで別人だ。
「俺が何者か、なんて関係ない。大事なのはお前さんの将来だ」
「なに?」
「剣闘奴隷に落ちて、この小さな世界でもてはやされて、それで満足か? ここで戦い続けて、いずれ衰えを迎えた時に負けて死ぬ……それが、お前さんの一生か」
ジンの口ぶりは挑発めいたものではなく、小さな娘に教え諭すような、真剣な口ぶりであった。
だが、それが余計にルシアの胸をざわつかせた。
彼女自身も、心のどこかで引っかかっていたことだからだ。
「剣を抜いたら、始まりだぞ」
その瞬間、ジンが立ち上がった。
巨大な猛獣を目の前にしたかのような、すさまじい殺気をぶつけられる。
「くっ!」
彼からあふれ出す殺気に反応して、ルシアは反射的に剣を振ってしまった。
顔面に迫る刃を、ジンはそっと指で受け流す。
受け流されたルシアの手の力が横に逃げた瞬間、なめらかな手つきで剣そのものを奪い取った。
もぎ取られたというよりも、すくい取られたという感触だった。
寒気がするほど優しい、
「これで
今度はルシアが剣を突きつけられる。
ルシアは目を白黒させた。
闘技場の頂点に君臨する自分が、一瞬で追い詰められた。
それも、ただの老人にだ。
「……いったい、何者? 何が目的なの?」
剣を突きつけられたまま、ルシアは問いかけた。
「ううむ、なんとも説明が難しいところだが」
ジンは一度考えてから、こう答えた。
「ルシファーに対する、恩返しといったところか」
「ルッ……ルシファーッ!?」
普段あまり取り乱さないルシアも、『ルシファー』という名前を聞いた途端、飛び上がるほど驚いた。
ルシファーとは、ルシアの遠い先祖であり、魔大陸を最初に統一した魔族だ。
つまり最古の魔王であり、ルシアや他の魔族にとっては神そのものと言える。
その神の名が、なぜか人間のジンの口から出てきた。
それがルシアにとって不可解なことだった。
魔族の中でルシファーという存在は、とても恐れ多いものだ。
しかし人間の世間でルシファーという存在は、古い古いおとぎ話に出てくるような、まったく馴染みのない怪物でしかない。
特に天使信仰が盛んな地域では、「魔族など恐れる必要はない」「ルシファーなど実在しない、伝説上の怪物」と言われて、人間の子どもたちは育つ。
「聖騎士団の密偵、ではないの?」
「そんなんじゃない。信じるか否かは任せるが、俺はお前さんのお目付け役として、ルシファーにこの世界まで飛ばされた」
それからジンは剣をくるりと回し、ルシアに
ルシアはおずおずと受け取ったが、警戒と混乱が解けないようで、彼女の顔色はひどく青ざめていた。
「ふっ、そう固くなるな。別に取って食ったりしない」
「……自分の正体を知っている人間と、すぐに打ち解けるわけないでしょう」
「まあ、それもそうだな」
ジンは息を吐いてから、イスに座り直した。
「なら、俺がどうしてこの世界に来たのか、そこから話そう」
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