出会い : 林崎甚助とルシファー
そこにはおびただしい数の死体が転がっていた。
十や二十では利かず、まさに
死体はすべて男で、薄汚れた着物と壊れかけの鎧を身に着け、かたわらには刀や槍が転がっている。
つまり、野武士だ。
どこにも居場所のない、野良犬のような落ち武者たちを指す。
豊臣が滅び、徳川家康による幕府が開かれ、ついに戦国の世が終わった。
武士の世が終わったわけではないが、戦国の
そのような野武士たちの軍勢が、どうして神社の境内で
理由は明確だ。
境内の中央には、一人の老人が立っていた。
まげは解け、白い長髪が顔の前に垂れている。背は小さく、体も太くないため、痩せた
しかし、その長髪から覗く目は鷹のように鋭く、しわの刻まれた顔に老いた弱弱しさはない。
多くの修羅場をくぐり抜けた、武芸者の厳しさがにじみ出ていた。
そして彼の手には、血にまみれた一振りの刀がある。
彼こそが
ーーー居合の始祖、
「俺も老いたな。しかも、死に際をこうも汚されるとは」
甚助はやれやれと首を振り、自分のわき腹に視線を落とした。
「くそ、これは深いな」
右のわき腹には穴が空いている。とうとうと真っ赤な血が流れ、手で押さえても止まる気配がない。
野武士が繰り出した槍をかわしきれず、わき腹に受けたのだ。
返す刀で喉元を切り裂いてやったものの、槍で貫かれた傷は深く、今も甚助の命を刻一刻と削っている。
甚助は首を回し、自分の後ろにある社の入口を見た。
「すまねえな、明神様。あなたの家を、血で汚してしまった」
そうつぶやく甚助の目には、深い悲しみがあった。
死ぬのは怖くない。なぜなら初めから甚助はここで死ぬつもりだったのだ。
すでに諸国を回り、多くの剣客と技を磨き、最後の地として故郷へ戻ってきた。
もう思い残すことはない。
ここで座禅を組み、食事もとらず、ひっそりと衰弱して息を引き取る。
そうなるはずであった。
だが、彼の人生の最期は野武士によって邪魔された。
この境内を己の死に場所とする。
そう覚悟した甚助のことを、どこからか聞きつけてきたのだろう。
野武士たちは甚助の足跡をたどり、まさに死ぬ寸前まで弱っていた甚助に襲いかかった。
たしかに、これまで多くの野武士を斬ってきた。
特に豊臣が滅んでから、野武士は各地で旅人や村を襲った。
当然、甚助の身の回りでも頻繫に出没したため、現れるたびに返り討ちにした。
彼らはまさに戦国時代という夢に追いすがる亡霊だ。
剣一つ、槍一つで己の名を上げて出世できる。
救いがたいことに、今でもそう思っていたのだろう。
その結果、夢の行き場を失ったことで、林崎甚助という剣豪にせめて一矢報いてやろうと思ったのだ。
「おい、まだ生きているぞ! 殺せ!」
「あいつだ! みんな、やられちまってる!」
境内へ至る石段の下のほうから、野武士たちが上がってきた。
どうやらまだ仲間がいたようだ。
石段を上り切った野武士たちは全部で八人。
この惨状には驚いたようだが、戦意は失っておらず、仲間の仇を討とうと目を血走らせている。
「行くぞ、あのじじいを八つ裂きにしてしまえ!」
先頭の野武士が怒鳴り、一斉に襲いかかってくる。
さすがに限界か。
甚助は死を予感したが、彼はごく自然と刀を構える。
死ぬなら最期まで前のめりに。
命果てるまで剣を振るう。
それでこそ、侍。
すでに覚悟は決まっている。
「返り討ちにしてやる」
先頭の野武士に向かって刀を振ろうとした瞬間、甚助の視界は光に包まれた。
「うっ!?」
突然、まばゆい光に襲われたことで、さすがの甚助も顔をそむけた。
野武士が火薬を隠し持っていたのか。
甚助はそう思ったが、それなら野武士たちも無事では済まないはずだ。
「……はっ?どういう、ことだ?」
やっと視力が戻って、目を開けると、そこに野武士たちの姿はなかった。
死んでいる、ということではない。
煙のように綺麗さっぱりと消えていたのだ。
それどころではない。
後ろに振り返ると、境内の至るところに転がっていた野武士たちの死体も、すべて消え去っていた。
それどころか境内の中央を貫く石畳にも、血の痕すらないのだ。
七十年以上も生きてきたが、ここまで驚き、不思議に思ったことはない。
あの激しい戦いは現実……のはずだ。
どれだけ老いて
その証拠に、わき腹の傷も残っている。
『どうだ、驚いたかな』
真後ろから声が聞こえた。
甚助は素早く体を切り返し、背後に現れた何かを斬った。
しかし、手ごたえはなかった。後ろには社しかなく、顔を左右に振っても、声をかけてきた存在は影も形もない。
『そう殺気立つな。ハヤシザキ、ジンスケ』
またも後ろから声が聞こえた。
今度は刀を振らず、静かに体を反転させ、振り向いた。
そこに立っていたのは、輝くような白銀の髪に、琥珀色の瞳、そして褐色の肌をさらけ出した、裸の
だが、それよりも目を引くのは、その男の銀髪から伸びた一対の角と、背中に広がる黒い片翼だ。
明らかに人間ではない姿をした男に、甚助は身構えた。
「南蛮の
戦国時代の日本人は、黒人や有色人種のことを『
日本各地を旅していた甚助も、一度や二度は黒人を見たことがあったため、目の前の男もそうだと思った。
しかしいくら南蛮人でも、翼を生やすはずがない。
『なるほど、肝も据わっている。余の姿を見ても恐れおののくわけでも、媚びへつらうわけでもない。素晴らしい資質を持っている』
「何をわけのわからぬことを! 問いに答えろ。お前は何者で、どうしてこんな不思議なことが起こった」
『そう急かすな……と言いたいところだが、たしかに余にも時間が残されていない。手短に、しっかり話すから、落ち着いて聞いてくれ』
男はゴホンと咳払いしてから、自己紹介を始めた。
『余はルシファーという。この日ノ本で生まれた生き物ではなく、遠く離れた別の世界で、魔族を従える王であった』
「るしふあ? 魔族?」
『……まあ、余の名に関してはその発音で良い。魔族とは、そなたの世界でいう、妖怪や亡霊などのことだ。そして余は、その魔族の住む大陸を初めて統一した男だ』
「つまり、徳川どののようなことをしたわけか』
甚助がそう言うと、ルシファーはうなずいた。
『その徳川家康という男は人間の統治者らしいが、つまり余もそういうものだ』
「ふむ」
甚助は合点がいったが、まだまだ疑問は尽きない。
「で、その魔族の王がなんの用だ。どういう目的でここへ現れた?」
『順を追って話す。まずは、これを見てくれ』
ルシファーは手のひらを掲げて、そこから光り輝く煙を出した。
煙は空へ逃げず、どんどんとルシファーの手のひらの上で形作られ、やがて一枚の布のように薄く広がった。
そしてその煙の幕に、なめらかに動く絵のようなものが映し出された。
「なんだ、これは」
『難しく考える必要はない。余の力で、お前に再現映像を見せているだけだ。よく動く
「絵巻物か」
甚助に理解してもらえたところで、ルシファーは映像を進めた。
まず映像には、ルシファーに少し似た、銀髪赤目のいかつい大男が映った。
『映っている男が見えるか。こいつが余の子孫、ルシウスだ』
「子孫……」
『うむ。ルシウスも、余と同じく魔族を率いる王として君臨していたが、少し前に人間の勇者に殺されてしまった』
「人が魔族を殺せるのか」
『並の人間では殺せないさ。しかし人間の中にも強力な力を持つ者がおり、その内の一人である勇者アークが、当代の大魔王であったルシウスを討ったのだ』
映像が変わり、今度は剣を持った黒髪の若者が現れた。顔立ちは整っているが、瞳は暗く、無慈悲な雰囲気が感じ取れる。
場所は広々とした石造りの広間で、西洋風の建築物の内部だろう。
その広間の中央に、両者が
これが、大魔王ルシウスと勇者アークの戦いの一場面らしい。
『見てみろ。これが我らの世界で起こった頂点の戦いだ』
ルシファーが言った途端、煙の中にいる両者が一気に距離を詰める。
ルシウスは真っ赤な炎を吐きながら、どこからか生み出した巨大な槍を振り回す。
さすが魔族の大将ということなのか、大木のような大槍を軽々と扱う姿は、甚助から見ても正真正銘の怪物だった。
対するアークも炎を剣で斬り裂き、大魔王の大槍を華麗に受け流す。
下手な受け方をすれば一撃で剣がへし折れるはずだが、アークの技量は凄まじく、まるで柳の枝のごとく槍の猛攻をしのぎ、時たま鋭い太刀を繰り出す。
剣と槍の応酬もさることながら、超常の現象も立て続けに起こる。
大魔王は炎を吐き、さらには赤い雷を降らせる。
雷が落ちた石畳は赤々と焼けただれているため、当たれば死は免れないだろう。
勇者も白い雷を剣にまとわせ、嵐のような連続斬りを浴びせてくる。
大魔王はそれらの太刀をかわすが、その度に周囲の壁や柱が一瞬で溶け、切断されていく。
あまりに次元の違う攻防を見て、甚助も思わずつばを飲みこんだ。
両者の実力は伯仲している。
決着まで時間がかかるかと思いきや、その時、大魔王ルシウスの背後から黒い刃が飛んできて、彼の背中に突き刺さった。
一瞬、大魔王の動きが止まる。
その一瞬の隙は、達人どうしの戦いでは生死を分ける。
勇者の剣が、大魔王の胴体を切り裂いた。
大柄で屈強な大魔王の肉体が、ローブ付きの鎧ごと切断された。
そこで映像は終わり、ただの煙になって霧散した。
『これが、我が子孫ルシウスと勇者アークの戦いだ』
「……おい、最後に飛んできた刃物はなんだ? あれがなければ、勝負はわからなかったぞ」
『ごもっともだ。あれはルシウスを憎んでいた魔族の部下による横槍だ。お前の世界で言うところの、
そう語るルシファーの表情は苦く、ふつふつとした怒りも感じられる。
『どんなに栄えた者もいずれ滅びる。ルシウスと勇者がまっとうに戦い、勝負が決したのであれば、余も口出しする気はなかった。人間と魔族で善悪や文化の行き違いはあれど、そこをいくら論じても答えはないからな』
「だが、この決着は納得がいかない……と?」
『その通りだ。勇者アークとその仲間たちはルシウスを殺した後、魔大陸を荒らすだけ荒らしてから、聖王国へ
なおもルシファーの話は止まらない。
『しかもよりによって、やつら高位魔族たちはルシウスの一人娘、ルシアの行方を捜索しておる! もちろん忠誠心ではない。自分がルシアと結婚することで、新たな魔王として名乗りを上げようとな!』
ルシファーの語気がだんだんと荒くなってきた。初めこそ威厳があったものの、今は子孫の末路に
「ずいぶんと人間臭い話だ。戦国の世とたいして変わらぬ」
甚助がそう思うのも当然だ。
甚助は戦国中期から後期にかけて生きてきた侍だ。
戦国大名の部下として働くことはなかったが、各地の武将たちが手を結び、かと思えば裏切り、裏切られ、やがて滅んでいくという話は、腐るほど耳にしていた。
ルシウスが討たれてから部下がのさばり始めたという話も、亡き主君の子を囲って権力を得るという話も、武家どうしの争いによく似ている。
「それで、お前はどうしてここへ?」
『簡単なことだ。お前には、ルシアの
「……は?」
甚助は目を丸くした。
「どういうことだ、その、つまり」
『お前を別世界に連れていく。転移したら、まずはルシアを探し、あの子の身を保護しろ。では、転移を始めるぞ』
雑な説明で終わらせようとしたルシファーに、甚助は食ってかかる。
「待て待て待て! るしふあ、お前は何を言っている⁉ 俺がその、るしあ、とかいう娘と伴侶になるという意味がわからないぞ!」
『ええい、これだけ説明したら察しろ! あの恩知らずの高位魔族に比べたら、お前のような不器用な侍のほうがよっぽどマシだ! お前が妻も持たずに剣に没頭していたことも余は知っているぞ!』
「なっ……妻をめとらなかったのは関係ないだろう! 俺はこの社で死ぬつもりだったのだ! それをどうして、お前の子孫の子守りをしなければならない!」
『俺が残った賊たちを始末し、死体まで片付けてやったのだ! ほら、ついでに腹の傷も治してやったぞ! 見返りとしてそれくらいやってくれても良いではないか!』
腹の傷を見てみると、みるみるうちに傷口がふさがり、出血も止まった。
それはそれで驚いた甚助だったが、まだ納得がいってなかった。
「だからと言って、右も左もわからぬ地でどうしろと? お前のやってくれたことは感謝するが、頼んでいることは滅茶苦茶だ!」
『何も難しいことは言っていない! お前は今まで通りに剣を振り、その上でルシアを守ってくれれば良いだけだ。もちろん勇者や高位魔族も斬り殺せば、もっと素晴らしいがな!』
「あんな怪物と戦えと? 冗談はいい加減にしろ!」
『それに関しては心配ない! この星、この時代をざっと見渡したが、その中でお前は最適な人材だ! あの世界に着いたら、お前の力はさらに花開く!』
ルシファーはそう言ってから手を合わせ、甚助には聞き取れない声で、ぶつぶつと文言を唱え始めた。
すると徐々に甚助の体が光を帯び、足が地面から離れて浮き上がる。
「おい、待て……っ」
甚助は身をよじって抵抗しようとする。
だが、ルシファーが発動した魔術は、魔力に無知な甚助に解けるものではなかった。
『では、達者でな。余の頼み、叶えてくれ』
ルシファーがそう言い残したところで、甚助の視界は再び光に包まれた。
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