第4話 透明人間④

「三十分経ったらうちに来て」

そう言って、藤沢さんは僕の部屋を出て行った。

実際に見た方が理解しやすいとのことだが、あの透明人間が藤沢さんの部屋にいるということだろうか。壁にかけてあるアナログ時計が30分のタイムリミットに迫っていく様子を見ながら、僕は部屋を歩き回る。秒針よりも、僕の鼓動の方がだいぶ早いのを感じる。


——三十分が経った。

藤沢さんの部屋のドアの前。

僕は、少し震える指でインターホンを押す。

ガチャリとドアが開いた。

「ようこそ。どーぞ、入ってください」

「...お邪魔します」

藤沢さんの後ろに続きながら、僕の部屋と全く同じワンルームの短い廊下を恐る恐る進む。まるで心霊スポットの廃墟にでも足を踏み入れるような面持ちだった。

ついに部屋に足を踏み入れた僕は、きょろきょろと部屋中を見わたす。

しかし、透明人間どころか、オカルト的なものは何もない。本やぬいぐるみ、小物がたくさん置いてあり、僕のイメージ通りの女子の部屋があるだけだった。

「あ~、恥ずかしくて隠れちゃってるよ」

藤沢さんは笑いながらそう言うと、クローゼットに近づき、扉の取っ手に手をかけた。

...その中にいるのか。

僕は、閉ざされたクローゼットの扉にすべての意識を向ける。

「...あんまり驚かないでね」

藤沢さんは僕の方をちらりと見た後、軽く手に力を入れ、扉を開いていく。

僕はその瞬間に、息をのんだ。


「ひゃあっ」

中から聞こえた小さな叫びは、昨夜聞いた声だった。

僕は、中にいた「それ」に、目を見張る。

クローゼットの端。

ふくらみを帯びた白いワンピースが、宙に浮かんでいた。

僕は驚きと困惑の混じった表情で、藤沢さんの方を見る。

「...えーと、紹介するね。この子は、那澄ちゃん。透明人間です」

「透明人間」と、はっきりと言われた。

おまけに「那澄」という名前もあるらしい。

「...み、水島那澄です」

その声は、ワンピースから。いや、それよりも少し上から聞こえた。彼女が本当に透明人間だとしたら、ちょうど口あたりからだ。

緊張したような、少し震えた声だった。

ワンピースの動きから、彼女がお辞儀をしたのがわかる。

「...三浦立紀です」

顔の見えない相手に向かって自己紹介をするのは、少し変な気分だ。

「じゃあ、握手しよっか。三浦君から手、出してあげて」

僕は戸惑いながらも藤沢さんの言葉に従い、透明な彼女に向かって手を差し出した。

すると、ワンピースの袖がゆっくりと動き、僕の方を向く。

「...!」

いきなり何かが僕の手のひらに触れた。

人の手の感触だった。

僕は反射的に驚き、少し体を引いた。

そんな僕を見てなのか、「見えない手」は、今度はゆっくりと、優しく、僕の手に触れる。

ぼくよりも一回り小さな手。

あたたかくて、やわらかい。

生きている人間の手だった。

見えないのに、体温や肌の質感、微かな筋肉の動きがしっかりと伝わってくる。

不思議な感覚だ。

確かに握っている見えないぬくもりを、僕はまじまじと見つめる。

「おーい、いつまで握ってるの」

「...!」

藤沢さんに言われて、僕は慌てて手を離す。

「どうだった?」

「...温かかったです」

「ふふっ、そっか」

僕の返答に藤沢さんは少し笑う。

「...あの、彼女と藤沢さんはどういう関係なんですか?」

「『彼女』じゃなくて、ちゃんと名前で呼んであげてよ」

「あっ、すみません。えっと、昨日は水島さんに藤沢さんの妹だと言われたんですけど...。」

「ははっ、それ嘘。でもまあ、私と那澄ちゃんは家族みたいなものかな。ずっと一緒に住んでるんだよ。でも詳しいことは秘密」

「はあ...」

詳しいことは教えてくれないのか。

何だか自分が信用されていないような気がして、少し悲しくなる。

「あ、ちなみに那澄ちゃんは十八歳だよ。三浦君と同い年だよね?」

「はい」

十八歳にしては水島さんの声は少し幼く感じる。

「あの、水島さんは十八年間も透明人間として生きてきたんですか?親とかって...?」

この質問はあまり良くなかったのかもしれない。

少しの沈黙の後、

「ごめんね。それも秘密」

と藤沢さんが苦笑した。

他人である僕があまり首を突っ込むべきではないなと反省する。彼女らが大切に守っている何かを傷つけてしまわないよう、それ以上は何も聞かないことにした。科学では説明できない、超常的なことが現実にもある。そのことを知れただけで十分だ。

「...じゃあ、僕そろそろ帰りますね」

僕は軽く頭を下げる。

「ああ、うん。...ごめんね、なんか巻き込んじゃって」

「いえいえ」

「そうだ。これ、持っていって」

藤沢さんが冷蔵庫から何かを取り出す。

「カップケーキ。那澄ちゃんの手作りだよ」

「え、そうなんですか。すごいですね」

きれいに膨らんだ生地にチョコチップがちりばめられていて、おいしそうだ。

「ふふっ、一回目は失敗して焦がしちゃったんだけどね」

「あ、昨日焦げ臭かったのって」

「そう、これ」

藤沢さんは、袋にカップケーキを2つ入れて渡してくれた。クローゼットの方を見ると、白いワンピースが不自然にゆらゆら動いていた。

...モジモジしているのか?


自分の部屋に戻った僕はベッドに座り、さっきもらったカップケーキを見つめる。透明人間が作ったカップケーキ。口にするのは少し抵抗がある...と感じてしまうのは失礼だな。

カップケーキを鼻に近づける。

ほんのり甘いにおい。

一口かじる。

...うん、ふわふわしてて、程よい甘さで、チョコチップも良いアクセントになっている。

普通においしい。

「...紅茶がいるな」

僕はキッチンに向かった。

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