第3話 透明人間③
目が覚めた。時計を見ると、時刻は九時二十三分だった。今日は土曜日で授業はない。もう少し寝ていてもよいのだが、昨夜塩を全身にかぶったせいで体や髪がべとべとして気持ちが悪い。
僕はシャワーを浴びることにした。
温かい水を肌に当てながら、昨夜のことを思い返す。
夢なんかじゃない。僕は確かに透明人間を見たのだ。一晩立った今でも寒気がする。昨日はパニックになって、すぐに布団に入ってしまったが、警察などを呼ぶべきだっただろうか。
いや、警察が真剣に取り合ってくれるとは思えない。それに、お隣さん...藤沢さんとの関係を悪くしてしまうことに繋がりかねないだろう。
...まてよ、そもそも藤沢さんはあの透明人間の存在を知っているのだろうか。
シャワーを終えた僕は、ハムとチーズをのせたトーストを二枚食べる。これが今日の朝食だ。
二枚目を麦茶で胃に流し込んだとき、インターホンが鳴った。
玄関の扉を開けると、藤沢さんが立っていた。
「おはよう、三浦君。ちょっと話があるんだけど、今大丈夫かな?」
藤沢さんが僕の家を訪ねてくるのは初めてだ。
「ああ、はい、大丈夫です」
藤沢さんの大きな瞳に見つめられた僕は、目を少し横にそらしながら答えた。
「部屋に上がりますか?」
「そうだね、玄関の前だと少し話しづらいことだから、お邪魔してもいいかな?」
「どうぞ」
女子を部屋に招き入れるのは初めてなので緊張する。
「そうだ!藤沢さん、昨日サークル室にスマホ忘れていきましたよね」
僕は昨日渡せなかったスマホを渡す。
「あ、そうそう。三浦君持ってきてくれたんだ、ありがとう~...」
藤沢さんがお礼を言いながら少し不思議そうな顔を浮かべているのに気づき、僕はハッとした。
「あ、いや、昨日すぐに渡そうと思ってたんですけど、帰ってから疲れてすぐに寝ちゃって。ははっ」
僕はとっさに取り繕う。スマホにはロックがかかっているとはいえ、すぐに返さずに持っていたというのは気持ち悪く思われたかもしれない。
「ああ、そうだったんだね!」
純粋に信じてくれたのか、僕に気を使ってくれたのか、藤沢さんは晴れや顔で頷く。
「部屋、きれいにしてるんだね」
藤沢さんはそう言って、テーブルの前にちょこんと正座をした。
「はは、ありがとうございます」
藤沢さんにほめられて、少しにやける。僕は戸棚から普段使っていないガラスのコップを取り出し、氷を三つほど入れる。そこに、やかんに残っていた麦茶を注ぐ。
「どうぞ、麦茶です」
テーブルの上に麦茶を置き、藤沢さんに向かい合うようにして座った。
「ありがとう」
そう言うと、藤沢さんは麦茶を一口飲んだ。
麦茶の波に揺られた氷がカランと音を立てる。
藤沢さんは、ぼんやりと窓の外を眺めながら、小さく息をついた。
少しの沈黙に緊張する僕の頬を、一滴の汗が伝っていく。
外から聞こえるセミの鳴き声が少しうるさくなってきた。
「三浦君さ、昨日何か見た?」
思わず、「えっ」と口に出してしまった。
藤沢さんの声はいたって真剣であった。
「何か」とは、言うまでもない、あの透明人間のことだろう。
僕は何と答えるのが正解かわからず、口ごもる。
「やっぱり見たんだ」
僕の様子を見た藤沢さんは確信したようだった。
口ぶりからして、きっと藤沢さんは透明人間のことを知っているのだろう。
それなら何も隠す必要はない。
「はい...透明...人間を見ました。」
「...そっか」
藤沢さんは、視線を落としてため息をつく。
「...あれはいったい何なんですか?」
「そうだねえ、うーん」
僕の直球の質問に、藤沢さんは答えづらそうにしている。
というか、答えたくなさそうだ。
僕としては勘弁してほしい。
ちゃんと説明してくれないと気になって眠れない。
「心霊的なものなんですか?」
「いや、そういうものではないんだけど...。ああ、それで盛り塩があるのね」
しまった。盛り塩を片付けるのをすっかり忘れていた。
「ごめんね、怖い思いさせちゃって」
「いえ...」
今、男としてのプライドが傷ついた気がする。
「教えてくださいよ、あの透明人間の正体」
「...うん、がっつり見られちゃったようだし、三浦君になら話してもいいかな」
その藤沢さんの声は重く、顔にはまだ葛藤が見えた。
僕は、何かとんでもなく恐ろしい事実を知ることになるのではないかと、今になって恐怖が襲ってきたが、透明人間の正体を知りたいという好奇心には到底及ばない感情であった。
「ただし、絶対に他の人には言わないでね。約束だよ」
「は、はい」
この約束を破ったら、きっと殺される。
それほどの圧を藤沢さんから感じた。
なるほど、オカルトよりも人間の方が怖いというのは間違いなさそうだ。
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