第10話「夏彦②」



 上総から狐に戻って、三年の月日が流れた


 そろそろまた冬がやってくる。

 今までいたところに比べたら、ここはまだ暖かい方だ。

 それにしても懐かしい。

 みんな元気にしているだろうか?



 深夜。

 人を避けて裏道を歩く。

 人通りはなくとも、目的地に着くまでは安心できない。車に轢かれてしまわないよう気をつけなければ。

 民家の塀を登ると、背後から声をかけられた。

「あんたがカズサ?」

 可愛らしい響きだ。耳で聞くというよりは、頭の中に直接入ってくるような。成る程、同類か。

 カズサは振り向き、暗闇を見据えた。

「その名前で回ってるのか…うん、まあ、それでいいよ。合ってる。君は?」

 問いかけると、闇が揺れる。

 真っ黒な猫が眼の前に座り、短く鳴いた。

「黒蜜。見ての通り」

「猫又か。情報通の萬屋だとか」

 二本ある尻尾を確認する上総に、黒蜜は何度か頷いて本題を告げる。

「こっちのこと教えてやってくれって。依頼で」

「じいちゃんかな?僕、昨日北から戻ったんだ」

「知ってる」

「あ、そっか。ごめん。情報通だもんな」

 謝りがてら歩を進めると、黒蜜は文句も言わずに後ろを付いてきた。

「北はどうだった?」

「寒かったよ。雪ばっか」

「それは嫌だな」

「炬燵もあったよ」

「炬燵は好き」

「人は少なかったな」

「作物は?」

「まあまあ育ったよ。お供え、ちゃんとされてたから」

「流石お稲荷様」

「何度聞いても、その持ち上げられ方は苦手だなぁ」

「ふーん…珍しいね」

「なにが?」

「ふんぞり返らないから」

「じいちゃんだって苦笑いするだけだよ」

「あの人は九尾だもん」

「あー…それもそうか」

 塀の上で笑い合う。途切れた道を飛び越して、左に曲がった。

 今日の目的は神社の参拝。

 話題に上ったがいるあの鳥居の神社ではない。

 そこから大分離れた小さな社だ。

 参拝というよりは巡回に近い。最近物騒だから、異変がないか確かめに行く……それが今の上総の役割。

「あっちは平和だったよ。良くも惡くも」

 上総は呟く。本当に平穏で、だけど淋しい毎日を思い出しながら。

「こっちは地獄だったよ。良くも惡くも」

 黒蜜が呟く。ため息にも似た苦々しい声で。

 塀が途切れた事で、二匹は並んで小路に降りる。黒蜜の紫の瞳が上総を映し出した。

「沢山死んだ。沢山殺した」

「君はどっち側なの?」

「黒蜜は中立。人間のとこ居候してる」

「そっか。僕もそうありたいと思ってるんだけど」

「九尾が許さない?」

「じいちゃんってか…その取り巻きがなんていうかな」

 力の強い九尾を頼って近くにいる妖怪は少なくない。彼等のうち殆どが妖怪側なのだ。九尾を目指す上総もそうあれと、口を揃えて言うだろう。

 苦笑する上総を見て、黒蜜は眉を顰めた。

「あまり気が進まない」

「ん?」

「今の君に話したらどうなるか見たくない」

「なにを…?」

「君ののこと」

 上総の心臓が跳ねた。黒蜜なら知っていてもおかしくはない。上総が人間として暮らしていた数年間のことも。その後、彼等が…夏彦達がどうなったのかも。

「夏彦のこと、だよな…?」

「そう。話すように言われてる」

「じいちゃんから?」

 黒蜜は頷き、またすぐに口を開いた。

「取り巻きさん達の前で話すと、場が荒れるから。こっそり話しとけって」

「そういうことか。手間かけさせて悪いね」

「これが仕事だから」


 黒蜜の話はこうだった。


 切欠となった妖怪殺しから続く抗争は未だ止まず。

 今や各神社とニンゲンの本拠地の攻防戦となっていた。

 ニンゲンは悪い妖怪を祓うことを生業にする退魔師を雇ったようで、神社に巡らせた結界にも対応することがあるらしい。

 これに血の気の多い妖怪達が黙っていられる筈もなく、力を使って住居や会社を奇襲する事件も何度か起こった。

 九尾はニンゲンの偉い人との話し合いで解決しようと奔走していたが、あちら側に話を聞きいれる気がないらしく、結果ここまで拗れてしまった。


 夏彦は現在、抗争中のニンゲン側にいるらしい。

 黒蜜が語った経緯は上総には信じ難いものだった。





 **




 数ヶ月前に遡る。



 高校一年生の梅雨辺りから、夏彦は堺の下で雑用がてら退魔の勉強をしていた。

 高校にはもう殆ど通っていない。それでも退学にならないのはそもそもがそういう学校だからだろう。

 昼間から制服で出歩いていても、「ああ、あの学校の生徒か」で済んでしまうくらいだ。

 新聞配達、時々学校、レジ打ち、夕方からは堺のところに通う日々。忙しくしていれば考えなくていい。それが彼の救いでもあった。

 夏が終わる頃には、冬美の処置を堺に任せることにした。夏彦にはどうすることもできなかったし、なにより費用が尽きてしまったから。

 堺は知り合いの術師と共に呪いの解析をしながら、医療知識のある知人の下で診てくれると言った。病院ではあからさまに出来なかった退魔の知識も、これからは存分に発揮できる。夏彦は堺の仕事を間近で見ることで信用を強めていった。

 堺の仕事は丁寧でそつがなく、なにより人情に厚い。依頼人の話を親身に聞き、関係者の感情を汲み取りながら処理をする。勿論きれいな仕事ばかりではなかったけれど、それでも夏彦は退魔師の仕事に好感が持てた。


 最初の頃は。


 退魔師には会合があって、月に一度は報告会が開かれる。夏彦は付添として会場まで行くことはあっても、会に参加することはなかった。

 その日も会場の外で領収書を整理しながら、長い長い会議が終わるのを待つ。小さなビルの細い廊下の突き当たり、自販機とベンチの置かれた狭い空間だった。

 同じ境遇なのか、缶コーヒーを買った一人の男が暇つぶしに話しかけてくる。

「あんた、堺さんとこの新入りだろう?」

「はい…そうですが」

「もう少し協力するよう言ってくれよ。報酬も悪くないんだし…こっちも何人か入院しちまって人手が足りないんだ」

「入院…?」

 男の話では、どうも地位のある人々が妖怪と報復合戦をしているらしく、退魔師達はそれに巻き込まれているらしい。

 堺が夏彦と出会ったのも、仲間の退魔師の見舞いに出向いた先でのことだったのだと、その時はじめて聞かされた。男は「何も知らないんだな」と言って得意気に話す。次から次に情報は落ちた。


 退魔師にも派閥があること。

 堺が妖怪退治に反対していること。

 殲滅すれば大金が支払われること。

 支払っているのがこの辺りの議員らしいこと。

 妖怪には本拠地があること。

 その本拠地が、上総の遺体が見つかったあの場所だということ。

 そもそも、上総を見付けたのが依頼を受けた退魔師の仲間だったらしい。妖怪の調査をしている時に見付けたのだとか。

 現在は強い結界が張られていて近付くのも難しいと、最後に男は話していた。


 堺は夏彦に沢山の事を隠していた。それが夏彦の為を思っての事だということは、すぐに理解した。

 しかし、知ってしまったら戻れない。知らなかったことにはできない。

 堺が妖怪討伐に積極的でないことには、夏彦も気付いていた。理由は分からない。冬美のことを優先してくれているからかもしれないと、夏彦が申し訳なく思いはじめた頃。



 堺もまた、決断を迫られていた。


 心電図が耳障りに騒ぐ。ビルの一室、真っ白な散らかった部屋で焦っているのは彼1人だった。

「おい、どうにかならないのか?」

 患者は苦しんでいない。いや、苦しむことすらできない。真っ白な手足はピクリとも動かないが、その周囲にはが満ちていた。

「知ってるか?堺よ」

「なにを悠長に…」

 呪いの解析を任せた知人…國代が天井を仰ぐのを苦々しげに追った堺は、降りてきた苦笑に閉口する。國代は眼鏡を頭の上にずらしながら皮肉った。

「妖怪なんかよりも、狂気に堕ちた人間のが怖いってことをさ」

「……こりゃ、ヒトのもんか」

 纏わりつく邪気を睨みつける堺に、國代は頷く。堺の長いため息の合間、國代は白衣の内ポケットから1枚の札を取り出した。

「狂気には狂気で対応するしかないかね」

「なにする気だ?」

「なあに、ちょいと逃がしてやるだけだ」

 國代の手元で札が光る。淡い輝きが薄闇に浮かんで見えた。

「よせ!失敗したら…」

「どのみち死んじまうんだ。このまま残るよりいいだろう?」

 強い言葉が堺を黙らせる。場を支配する機械音が二人を急かしていた。

「夏彦になんて言うつもりだ」

「死んだって言うんだ」

 堺は掌を握りしめる。それが自分の役割だと理解したから。

「じゃなきゃどこまでも憑いてくる。こりゃそういうもんだ」

 國代は言い切って、冬美の額に札を貼った。その表情には医者らしからぬ不気味さがある。彼は医者であると同時に術者だ。自分の作った術を試したいと思わないはずがない。

 それでも堺にはどうすることもできない。無力さと重圧と罪悪感で気が狂いそうでも。


 平坦な電子音が室内に木霊する。

 冬美の魂は國代によって封印され、肉体は冷凍保存されることになった。


 呪いによる執着が消え去るその日まで。

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