第9話「夏彦①」
4月の頭。突然、冬美が昏睡状態になった。
精密検査をしても原因は不明。
唯一の手がかりとして、冬美の鞄から謎の薬が出てきた。
幾つか飲んだ形跡もあったが、医者も刑事も直接の原因ではないと判断したようだ。理由は、その程度では命に別状はないから。
精神科で処方される強めの睡眠薬。一度に複数飲めば毒にはなるが、医者がそこまで関与できるわけではない。
冬美が不眠に悩んで医者にかかったのかもしれない。精神科の名刺も出てきたことで、警察は事件性なしと判断し、早々に引き上げていった。
「なんで…」
病院のベッドに横たわるだけの妹に、夏彦は言葉を落とす。
「どうしてこんなことに…」
充分気を付けていたつもりでいた。だけど駄目だった。友人が亡くなり、妹は昏睡状態。短期間にこんな偶然が重なるだろうか。
やっぱり何かがおかしい。夏彦は確信し、決意する。
「お前の分まで…絶対に…俺がちゃんとするから」
彼の震える声を聞き届ける者はなく、真っ白な部屋に溶けるようにして消えた。
学年が変わる。
3年…今年は高校受験だ。
冬美は学校に来られないまま2年生に進学した。
先月まで自分の通っていた教室が、彼女のクラスになった。
夏彦は全く実感が沸かないまま学校に通う。
噂は尾ひれを付けて学校中を歩き回っていた。
兄である夏彦も居心地が悪くなるほどに。
夏になると父がリストラされた。
求職活動もうまくいかなかったらしく、父が酒に逃げては叫ぶ時間が増える。家の空気が重い。母親からも笑顔が消えた。
「どうして父さんが…」
仕事は順調だった筈だ。食卓に上っていた話の中に不穏なものなんてなかった。だからこそ溢れた夏彦の一言に、母親が小さく反応する。
「あんたのせいよ…」
「え…?」
思ってもみなかった言葉に夏彦は固まった。母親は茶碗に続きを落とす。行き場のない思いを溢れさせるように。
「あんたが、議員さんの親戚に手を出したりするから…」
顔を上げ、ハッとする。戸惑う夏彦に歩み寄り、母親は弁解した。
「ごめんなさい…夏彦…違うのよ…」
「母さん…」
「大丈夫…大丈夫だから…」
必死で謝る母を前に、夏彦は思う。
あれが全てのはじまりだったのかと。もしかして、なにもかも自分のせいなのではないかと。
困ったように笑う母の言葉は嘘だった。大丈夫なんかじゃなかったのだ。
冬になるより前に、父は自ら首を吊ったのだから。
その後、夏彦にも被害は及ぶ。議員からの圧力がかかって志望校を受けることは叶わなかった。学校からも県内で底辺の高校へ進学を勧められる始末。
仕方がないから推薦を希望するも跳ね除けられて。一般入試でなんとか合格した。
夏彦の合格を聞いた母は、翌日安心したように旅立っていった。父の元へと。
状況が状況だけに、親戚一同知らんぷり。県外へ逃げ出した人もいたそうだ。
夏彦に残されたのは少しの保険金と目を覚まさない妹。通える学校と住む家があるだけまだマシだろうか。
高校生に上がって間もなく、夏彦は孤立した。
友人や妹がいなくなったのは妖怪のせいだとふれて回ったからだろう。それでも何かのせいにせずにはいられなかった。こんなのは間違っていると、逆らっていなければ耐えられるわけがない。
両親の借金をアルバイトで返しながら、なんとか学校に通っていた。だが2ヶ月もしないうちに、彼は壊れた。
当然だ。誰も助けてなどくれなかったから。
途方に暮れた夏彦は学校を休みがちになる。
アルバイトを続けていられたのは、食べるためと、なにより妹のためだろうか。
仕事終わり、妹の顔を見に行くのが日課になった。元気になるからじゃない。まだ生きていてくれているか。それを確認するために。
**
その日も夏彦は、窓際で冬美の顔をぼんやりと眺めていた。綺麗だった顔はやつれ、肌は真っ白。生きているのが不思議なくらい、呼吸も小さい。
手を握っても温かさは感じられず、小さくため息をつく。
「その子、呪われているよ」
不意に部屋の外から聞こえた声に、夏彦は顔を上げた。中年の、パッとしない男が開きっぱなしの扉の前に立っている。通りすがりに思わず呟いた……そんなポーズで固まっていた。
夏彦が戸惑っていると、男は改めて室内に向き直り、進言する。
「少しみてやろうか」
「いえ…」
「怪しいおっさんだと思っているだろう。その通りだよ」
訝しげな夏彦を制し、入室した彼は冬美を見下ろし言い切った。
「だけどこのままじゃこの子は死ぬ」
重い空気が落ちる。男の鋭い眼差しを受けた夏彦は、飲み込んだ言葉の代わりを口にする。
「助けられるんですか?」
「かもしれない。できないかもしれないが」
どこか淋しげな返答に、それでも夏彦は頭を下げた。
「………お願いします」
男は頷くと、冬美の顔の前に掌を翳す。静かな空間に不思議な空気が生まれた。
なにをしているのだろう。戸惑う夏彦をよそに、男は浅く息を吐く。
「こりゃ根深いな…」
「え…」
「定期的に取り除いたとしても、元に戻すのは難しい。他の方法を探したほうが良いだろう」
「他の…」
そんなものあるのだろうか。不安そうな夏彦を見て、男は控え目に進言した。
「見つかるまではここで体の状態を維持しながら、俺が祓おう」
「……いいんですか?」
「そっちが良ければな」
複雑な顔をしたまま、夏彦は頭を下げる。必死に耐えているような。安心したような。覚悟を決めたような。小さく響いた「宜しくお願いします」は、微かに震えていた。
男はタバコを咥え、火を付けようとしてライターを仕舞う。そして誤魔化すように名乗った。
「俺は堺ってんだ。君は?」
「志木…志木夏彦です」
志木。堺は脳内で繰り返した苗字を喉の奥に押し込めて、夏彦に名刺を渡す。そして外を指差し場所変えを促した。
夕陽の差し込む公園のベンチ。
人は疎らで、遠くから帰宅途中の子供たちの声が聞こえてくる。
堺は病院を出る前に目的の病室に行き、一分も経たずに出できたかと思えば夏彦をこの場所まで連れてきた。そうしてやっと、ポケットに仕舞ったままだった煙草に火を付ける。曲がった煙草が酸素を得て短く光った。
「おじさんは退魔師ってやつなんだ」
唐突に、堺は言う。
「退魔……」
「そう。妖怪とか幽霊とか祓ったりするのが仕事。呪いに関するあれこれに詳しいのはそのせいだね」
並ぶキーワードに、夏彦は眉を顰めた。
「やっぱり、妖怪っているんですか?」
「んー…まあ、いるにはいるけど」
「神隠しも、そのせいですか?」
「あーーあれはね、まあ色々あって」
「俺にも祓えますか?」
食い気味の質問に、堺は硬直する。横目に捉えた夏彦は真剣な顔で問いを続けた。
「……冬美の呪いも、妖怪の仕業なんですよね?」
「そうとは言い切れないよ」
煙草を口元から離し、逆の手で宥める。夏彦はそれでも苦しそうに言った。
「可能性は高い…俺が、喋らなければ…」
そこまで聞いてしまえば、職業柄続きを聞かないわけにもいかない。堺は慎重に質問を繰り返し、夏彦から全てを引き出した。
7本目の煙草に火が灯る。煙が昇る空は既に赤みを失いつつあった。
「お友達が、妖怪にね…」
「夢を見たって…その直後に白骨死体ですよ。そんなの、どう考えたって…」
「決め付けるのは良くない」
「そうかもしれない。だけど、悪いことをしている妖怪がいるんだとしたら、許せないし…」
ずっと溜め込んでいたことをすっかり話してしまって、緩んだ気を引き締めるように。
「俺は、本当の事が知りたい」
夏彦は声と拳を震わせる。
「上総がいなくなってから、全部おかしくなった…みんな死んでしまった…俺のせいで…冬美もいつまで持つかわからない……だから…」
足の間に落ちた懺悔は、最後まで言葉にならなかった。夏彦はすがるように堺を見上げる。
怯えた眼差しを受け止めた彼は、ため息の後正面を向いた。
「冬美ちゃんといったね。妹さん。あの子を助けるための力なら、貸してもいい」
細く吐き出された煙が闇に紛れる。目を見開いた夏彦は、立ち上がる堺の背中を見据えた。
「退魔師になるかならないかは、おじさんの仕事を見てから決めなさい」
夏彦は無言で頷き感謝を示す。振り向き気味に微笑む堺の瞳が、酷く悲しそうに見えた。
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