第8話「冬美④」


 その日、夏彦は時間までに帰ってこなかった。

 彼が冬美との約束を破ったのははじめてで、両親も心配していた。だから彼女は、無事帰ってきた夏彦を問い詰める。

 しかし夏彦は曖昧に笑うだけで、本当の事を教えてはくれなかった。

 冬美は思った。兄は、なにか隠している。

 自分にも言えないことってなんだろう…なぜ、どうして隠すのだろう。不安と疑念が渦巻く。なにを信じていいのか、なにを頼りにしたらいいのか。

 彼女には、冬美にはもう判断ができなかった。

 それでも諦めきれずに足掻いていた時、コートのポケットから1枚の名刺が出てくる。

 藁にも縋る思いで、冬美は電話をかけた。




「上総先輩っていうの?どんな人だった?」

 アポイントは簡単に取れて、翌日には名刺をくれた人物…美濃辺との面会を果たす。

 駅前で声をかけられた時と同じ調子で問いかけてくる彼女に、冬美は出された紅茶に手を付けず、水面に答えを落とした。

「先輩は…同じ中学の…一つ上の、兄と同じクラスで…」

「かっこよかった?」

 好奇心丸出しの質問に、冬美は閉口する。悪気はないのか、笑みを浮かべたまま答えを待つ美濃辺を一瞬だけ見据え、仕方なくため息まじりに返した。

「小柄でしたけど…色素の薄い髪と瞳で…その、柔らかい印象の人でした」

「なるほどね、可愛い系か」

 部屋に入ってから簡単に経緯を説明しただけだが、美濃辺は責めるでも気味悪がるでもなく、どちらかといえば興味深そうに話を聞き終える。手元のノートに素早くメモを取り、一人頷いて人懐っこい笑顔を浮かべた。

「大丈夫。心配しないで。その人のこと、ちゃんと調べてあげるから。こういう仕事してるとね、ツテがあるの。初回無料相談ってことで、お金は取らないからそこも安心して?」

 柔和な態度に、冬美はホっとする。他に頼れる大人もいなかったから余計に気が抜けた。

「……すみません…お願いします…わたし、納得できなくて」

「あれは上総くんではない?」

 鋭い問いに心が揺れる。急に責められているような気がして、冬美は手を握りしめた。

「だって…」

「そうね。傷むのが早すぎるものね」

 頭に優しく手を乗せられ、顔を上げる。美濃辺は、柔らかく笑って小さく言った。

「また1週間後にいらっしゃい」





 **




 冬美にとって、その1週間は長すぎた。

 もどかしかったのもある。疑心暗鬼になっていたのもある。なにより味方がいなかった。特に学校では。

 彼女の捜索活動は校内でもウワサになっていた。いつまでも必死に探す姿が、冬美を爪弾きにしていた級友達には滑稽に映ったのだろう。悪意は簡単に、学校中に広まって冬美を蝕んだ。

「残念ねぇ。あんなに必死に探したのに死んじゃうなんて」

「家族でもないのに凄いよね。そこまでする?」

「もしかして、本当はあのコが殺したんじゃない?」

「探すふりして誤魔化そうとしたってこと?」

「ふられた腹いせに?」

「怖い怖い」

 まことしやかに、これみよがしに。

 聞こえてくる陰口はとうとうそこまで膨れ上がっていた。

 楽しかったはずの学校が地獄になる。

 仲の良かった友達も寄り付かなくなった。

 否定など意味があるのだろうか。

 否定したところで、もうなにも元には戻らないのに。


 放課後。

 警察に経過報告に行くという兄を待ち伏せる。

 冬美の拠り所はもう夏彦だけだった。しかし兄は、先に帰っていろと告げて一人で行ってしまう。

 夏彦からしてみれば、顔色の悪い冬美に休んでほしかっただけなのだが、裏目に出たといっていい。

 居ても立っても居られない冬美は、気付かれないよう夏彦の後をつけた。

 警察署は学校から20分ほど歩いたところにある。家とは逆方向だ。

 到着し、遠巻きに待っていると、署に入った夏彦は10分も経たないうちに出てきた。冬美は兄の進行方向を見て、再び身を潜める。家とは逆側に歩いていく…確かに少し歩けば隣駅…上総が住んでいた地域だ。

 またあの家に行くのだろうか?一人で?不安になった冬美は、兄の背中を追いかける。

 しかし夏彦は駅に入った。安心したのも束の間、逆のホームで電車を待つ兄を見て、冬美の疑惑が深くなる。

 気付かれないよう尾行して、辿り着いた先は鳥居が続く階段だった。夕陽で真っ赤に染まったそれらは、導くように山の上まで続いている。

 神頼み…いや、そんな感じではない。麓で立ち止まる夏彦の様子から感じ取り、冬美は覚悟を決めた。夏彦が階段に足をかけたら止めようと。

 その意気込みが強すぎたのか、兄が不意に振り向いた。

「冬美…?」

 気付かれて、バツが悪い冬美の元に夏彦がやってくる。追求されて、学校から着いてきたことを話すと、兄は呆れたようにため息をついた。

 膨れる妹の手を引き、夏彦は来た道を引き返す。冬美も黙って従った。

「……警察は、なんて?」

「死後2年は経過してるように見える…だけど事件性はない。これ以上は調べないって」

「警察も暇じゃないから?」

「そう。遺族も望んでいないから」

「私は望んでいるのに」

 呟きが暗い道に落ちる。夏彦は返事をしなかった。

「あれは本当に上総先輩なのかな…?」

 冬美は喰いかかる。振り向かない兄に。

「兄さん…なにか、知ってるでしょ?」

 声が震えた。住宅街を抜け、小さな商店街に差し掛かる。電柱の側で立ち止まり、冬美は俯く先に涙を落とした。

「上総先輩、言ったもの…また遊びに来てくれるって」

 夕陽が沈む。辺りが闇に染まった。

「ケーキ…楽しみにしてるねって…」

 約束。やくそく。それは冬美にとって大切なものだった。

「あの人が約束を破るわけがない…」

 優しい優しい先輩。頼りになる先輩。

「あの人は、お父さんとは違うもん…そうでしょう?ねえ…お兄ちゃん…」

 仕事ばかりで何度も裏切られた冬美にとって、父をかばう母も同罪に見えていた。だから両親にはなにも話したくない。だから、せめて兄だけにはわかってほしかった。

「あの鳥居の場所にはなにがあるの?」

 嘘をついてほしくなかった。

 冬美の必死の問いを、夏彦は黙って聞いている。短いため息が間をつなぐのと同時、電灯が二人を照らした。

「あいつは神隠しだと思っていた」

 夏彦が答える。

「神隠し?」

「事件があっただろう?」

 ニュースで散々騒いでいる…冬美がよくわからないまま頷くと、夏彦は結論を言った。

「だから上総は確かめに行った」


 前日の電話のこと。

 上総が見た夢のこと。

 全てを聞いた冬美は、最早なにを信じていいのか分からなくなっていた。

 夏彦が、上総が嘘を付いているとは思っていない。ただ、あまりにも現実味がなさ過ぎて、頭の中で処理がしきれなかったのだろう。



「神社に行って…それで、いなくなった」

 1週間が経った今日。約束通り美濃辺に会いに来た冬美は、聞かれるままに全てを話していた。

「だから上総先輩も神隠しにあったのだと、お兄さんはそう思ったのね」

 最初に来た時と同様、手帳にメモを綴りながら彼女は言う。

「だけど死体が出た。同じ場所で…しかも、死後2年の状態で」

 美濃辺はペンを置くと、傍らに置いていた封筒から書類を取り出した。中身は上総の身辺調査の結果だ。

 上総の小学校時代の性格。2年前にも一度行方不明になっていること。上総と母親の仲。父親の単身赴任と母親の浮気。上総の母の様子がおかしくなったのも2年程前だと、近所の人が話したそうだ。

「もし上総先輩が2年前に亡くなっていたとしたら」

 美濃辺の出した仮定に、冬美は目を見開く。その大きな瞳を真っ直ぐに覗き込み、美濃辺は問いかけた。

「あなた達が知ってる先輩は、一体誰だったのかな…?」

 そんなこと。知らない。そんなはずはない。そうだったとしても、分かるはずがない。

「幽霊…?化け物…?」

 なにかが壊れる音がした。ガラガラと、音を立てて。美濃辺はやはり人懐っこく笑うと、冬美の隣に移動した。

「それでもあなたは…」

「上総先輩に……会いたい」

 震える冬美の手を握り、俯く彼女の頭を撫でる。

「会えるよ。簡単だよ…わたしが教えてあげる」

 甘い言葉に、冬美は顔を上げた。そんなはずがないと分かっていながら、縋りつかずにはいられなくて。

 美濃辺は、不安そうな冬美に錠剤の束を手渡した。

「これを飲んで。少しずつよ?毎日、少しずつ」

 一つを手に出し、水と共に冬美に手渡す。美濃辺の自然な動きを目で追いながら、冬美は薬を受け取った。

「大丈夫。怖くない。ただ、先輩に会えるだけ」

 美濃辺は冬美の背中を擦り、促す。いまここで、決断するように。

「本当に…」

「本当よ。心配しなくてもいい。言う通りにしたら…」

「先輩に、会える…?」

 美濃辺が頷くのを待って、冬美は薬を口に入れた。

「そうよ…いい子ね…」

 最後にもう一度頭を撫で、残りの錠剤を鞄に入れさせ、丁重に見送る。

 美濃辺は深く頭を下げて去った冬美が地上に降りたのを、三階の窓から笑顔で見下ろした。

 ぷっと笑いが溢れ、次第に高笑いが響く。

「恋する乙女って、なんであんなにチョロいのかしら」

 笑い涙を払いながら、美濃辺はソファに身を投げた。天井は夕陽で赤く染まっている。

「このまま放っておいても勝手に逝ってくれそうだけど…念には念をいれなくちゃね…」

 白衣のポケットから取り出した人形のお腹に、冬美から採取したを押し込んで。

「呪いなんて本当にきくのかしら?ま、いいか。そのほうが妖怪の仕業らしいし」

 高く掲げると、真っ白なウサギも赤く染まった。これから憎しみで染め上げる真っ白なウサギが。

 美濃辺は囁く。

「ねえ…。大事な人を奪われた悲しみを共有しましょう…」

 うっとりと。真っ赤に染まりながら。

「あなたが殴った男はわたしの大事な人なのよ。分かるでしょう?だから一緒に地獄に落ちるの。だってもうこんな世界に、用はないもの」


 宣言通り、美濃辺は呪いを完遂した。

 薬のせいか、呪いのせいかは分からない。

 しかし彼女の思惑通り、夏彦の妹の冬美は、数日後には大学病院に入院したという。

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