第4話「上総④」
月が浮かんでいる。
木々の合間から見える光が酷く眩しくて。
時折流れ行く雲の影が目に優しい。
ああ、また、夢だ。
下駄の音。噎せ返るような花の香り。
今日は一人だろうか?周りになんの気配もない。
社の中も暗く静かだ。
しんしんと、耳が痛くなる程の静寂に雪が舞う。
地に積もる白を溶かすのは下駄の音だ。
階段を下りながら、真っ赤な鳥居を幾つも潜る。
左右は森だろうか。苔生した岩や草花が微かに揺れていた。
1段1段、丁寧な足取りが不意に止まったのは、一番下に辿り着いたから。
視界が左右にぶれる。その時気付いた。
あれ。この場所は知っている。
どうして今まで忘れていたのだろう。
俯いた先で影法師が呼んでいる。
おいで、おいでと手招いている。
行かなければ。
あの場所まで行けば。
なにか、わかるかもしれない。
目覚まし時計は鳴らない。
今日は休日。だけどいつもと同じ時間に目が覚めた。
理由は単純。呼ばれたから。
朝の作業を終えるなり必要最低限の荷物をつめて、電話をかける。
相談にのって貰った手前、なんとなく知らせておきたくなったから。
時刻は9時ちょっと過ぎ。夏彦はもう起きているだろうか?数回のコールの後、通話が繋がる。幸い、電話口に出たのは夏彦本人だった。
「夢の場所が分かったよ。隣町だった。実在したんだ」
「え?」
「だからちょっと行ってみようと思う」
「待て。俺も一緒に…」
「今日は冬美ちゃんと約束あるんだろ?僕は大丈夫だからさ」
早る気持ちを抑えきれず、伝えるだけ伝えて受話器を置く。玄関に向う途中、リビングから母がこちらを見ていたので、会釈だけして家を飛び出した。
隣町までは歩いていける。
電車を使えば早かったが、生憎手持ちがない。
定期は逆方向だし。そこまで遠くない筈だ。
昨晩降った雪も積もらず、今はもうやんでいる。
あれは確か小さな神社だったと思う。
住宅街の小道から山に登っていく階段があるんだ。目印は沢山の朱い鳥居。
コートのポケットに両手をつっこみ、真っ直ぐに歩く。道中の景色はどこも知っているような、不思議な感覚があった。
いつ、あの場所を訪れたんだったか。
何故あの場所を知っているんだったか。
思い出せはしないけど。
***
「あった…」
記憶の通りに道を進めばすくに見つかった。
明るいとはいえそのままの景色に、夢の中の光景が思い起こされる。
手招かれたのは、この場所。神社の入り口。
だけど目ぼしいものはない。
階段を登っていけばなにかあるだろうか?
駄目で元々、折角来たのだし、参拝くらいしてもいいだろう。
小路に人の姿はない。僕は静かな中に足音を落とす。
1段1段、踏みしめるほどに懐かしさが身に沁みた。何故こんなにも懐かしいのだろう。心が震える程に。
なにも覚えていない筈なのに。
確かに僕はこの場所を知っている。
見えてきた社の傍らで咲き誇る赤が、鳥居の朱とダブって見えた。
カロン
コロン
聞き覚えのある音が耳に届く。
甘く広がる椿の香りで頭がくらくらした。
社の前に立ち止まる。
途端、背後に気配が現れた。
「やっと来たか」
それは間違いなく夢で聞いた老人の声。
振り向けば狐の面をした男が僕をみていた。
老人は、ゆっくりと面を取る。
紅い紐細工が揺れていた。
ぷつりと、音がする。頭の中で。
切れて、繋いで。全てを思い出す 。
ああ。
この人は僕の。
「じいちゃん…」
呟く側から体が変化する。本来の僕へ戻ったのを見て、じいちゃんは安心したように言った。
「どうだ?ニンゲンの世界は楽しかったろう」
問われて俯いた先では、石畳に立つ金の毛並みが見える。
「うん、そうだね」
楽しいことばかりでは、なかったけれど。僕はただそう答えた。じいちゃんは声色だけで見透かして苦笑する。
「きちんと学んできたようだな」
言葉の合間に変化を終えたじいちゃんは、9つの尻尾を翻して道を先導した。
僕は振り向き、階段を見据える。後ろ髪を引かれないといえば嘘になるけれど。
意を決して前を向く。進まなければいけないから。
「戻って来られて良かった。最近は自分が狐だということを忘れて、ヒトになりきってしまう者が多いからな」
山道で足並み揃えて歩く途中、じいちゃんが寂しそうに言った。僕と同時期に人里に降りた仲間はいなかった筈だから、僕より前に修行に出た狐のことだろう。長いこと変化したままだと、記憶が薄れていくのだ。僕がそうだったように。
「あの夢はじいちゃんが?」
「そうだ。意識だけをこちら側に引っ張ったのだよ。お前が忘れてしまわないように」
成る程。同期がいなかった為の手厚い保証というわけか。しかしじいちゃんも忙しい。猫の手も借りたい状況だからこその待遇なのかもしれない。
そうこう話すうちに辿り着いたのは僕の出発点。
上総としての。
僕はここでこのヒトに化けた。
「こやつの風貌は馴染んだようだな?」
「うん」
月日が過ぎてすっかり骨になってしまったけれど。
上総は確かにここにいる。荷物や服もそのままに。僕はその情報を借りて人里に降りた。
「お前の修行は無事に終わった。あちらに戻してやらねえと」
「このまま?」
「ははっ、死んだニンゲンは生き返ったりはせんと、学んだだろう?ニンゲンだけではない。イキモノとはそういうものだ」
「ああ…」
「なぁに。お前が成り代わった時には既に死んでおったのだ。なにも悪い事などしとらんだろう」
俯く僕をじいちゃんが励ます。頭に浮かぶのは夏彦と、冬美の顔だ。二人は僕が狐だとは知らない。上総の骨が見つかったら、どう思うのだろうか。
「またニンゲンになりたくなったら?これとは違う形に化けるの?」
「その時はその時だ。同じ形であろうと、然して問題ないものだぞ?なんたって、ヒトの寿命は短いからな」
そうか。そういうものだろうか。
例え一時でも、悲しむ人が…騙されたと苦しむ人が…僕の友人であったとしたら。
「名残惜しいか?」
じいちゃんは聞く。
この感情は妖怪に必要なものだろうか。
複雑に、曖昧に笑うとじいちゃんは上総の骨をそっと摘んだ。
「なら、一つだけ持っておくといい」
「いいの?」
「ばれやしないさ。これだけあるのだから」
有無を言わさず、じいちゃんは僕のしっぽに上総の骨の欠片を乗せる。
僕は固くて軽いそれを落とさないようにしまいこんだ。
もしも夏彦や冬美が悲しむようなことがあったとしたら。
僕は僕を許せないかもしれない。
ねえじいちゃん。僕は本当にこれでよかったのかな…?
「サヨウナラ。またな」
告げた別れは誰に届くこともなく、冬の寒さに撒かれて消えた。
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