第3話「上総③」
黒に滲む橙色。揺れて、増えて、また増えて。
ああ。これはあの夢だ。
ここ暫く見なかったのに。
視界を埋める橙は十個程。ボンボリを持つ妖怪達の顔が下から照らされて酷く不気味だ。
かくいう僕の手元でも橙が光っている。それらが板張りの古い部屋に円を描いていた。
なにかの会議だろうか。空気が重い。なにより酒の匂いも花の香りもしない。
いつもと違う。嫌な感じだ。
ぴしりと、家が軋むような音が口火を切る。
あいつらがやったんだと。蛙顔の男が言った。許せないと。
祓われかけたという仲間は助からなかったらしい。相当酷い目に合わされたようだ。
怒りに震える彼に天狗が賛同する。
攫ってしまえ。連れてきて同じ目に合わせたらいい。
同意が連なった。
これは復讐だ。
しかし何人かは気まずそうに顔を反らしている。
僕だけど、僕ではない声の主が、シワだらけの手を伸ばして、激高する彼等を宥めた。
威厳のある、どこか懐かしい響きに数人がたじろぐ。それでも怒りは収まらなかった。
そんなことをしては連鎖になる。なにも解決しない。分かっている。それでもどうしても許せない。収まらない。悪いのはあちらだ。俺たちではない。
断片的に、それでもはっきり聞こえてくる口論は淡々と、しかし感情を持って。
外に出た蛙顔の男が、鳥居の下に歩み寄る。
全員が障子を潜った先には、既に何者かが捕らえられていた。
蛙男の部下なのか、黒い影が人間の男を縛り付けている。居合わせた全員でそれを囲んだ。
困ったように顔を見合わせる者、蛙に同調して嫌悪を顕にする者。意思に反して見渡す視線が色んなものを映し出した。
最後に固定された視界の中で、赤い鳥居が長い階段の下まで続いているのが見えた。
暴れるまま、地に押し付けられている人間は知らない顔だ。殴られたのか、眉を横切る古い傷跡がある。
彼は怯えるでもなく、挑発的に叫んだ。なんのまねだと。ここはパーティ会場かと。
だけどそれもすぐに収まった。瞬きをする間に何があったのか、僕には分からなかった。
明らかに時間が経過しているのに。ここでなにかが行われた筈なのに。
「全く…困ったことになった」
独り言が鳥居に向けられる。他の妖怪たちも解散するようだ。
「早く……なさい…」
それが誰に向けられた言葉なのか、きちんと聞き取ることができなかった僕にはわかる筈もなく。
目を覚ますと同時に時計のベルが鳴った。
力なくそれを止め、夢の余韻に浸る。
あれは本当に夢なのだろうか。
最初からあったはずの違和感が急激に大きくなる。
誰かの記憶を見ているのか。それとも意識だけ別のところに飛んでしまっているのか。
分からないけれど…今は支度をしなければ。
いつものルーティンをこなして僕は家を出る。
いってきますと口にして、テレビの音が漏れる廊下に背を向けた。
学校に着くと、ニュースの話題でもちきりだった。
「行方不明者増えすぎ」
「そもそも関係あるの?」
「ただの家出とか」
「でも、最初のはもう一週間前だろ?流石に見つかっても良くない?」
「そんな簡単に解決したら警察なんていらないでしょ」
「そもそも事件かどうかも怪しいのに」
「神隠しだとでもいうのか?」
「まさか」
「いやいや、あながち間違ってもないかもしんないじゃん?」
クラスメイトは盛り上がる。席で聞き耳を立てていた僕も、朝食がてら見たそれと、夢を結びつけてポツリと呟いた。
「そうなんだよな」
「上総?」
「夏彦…」
登校してきた夏彦がタイミングよく聞きつけて呼びかけてくる。彼が席につくのを待って、そっと打ち明けた。
「やっぱり、あれは現実なのかもしれない」
顔色が悪かったのか。俯く僕を覗き込み、夏彦は心配そうに問い返す。
「大丈夫か?」
「神隠し」
「うん?」
「あれ、妖怪のせいかも」
「ほお。根拠は?」
そうだとしたら恐ろしい。僕が語る今日の夢の内容を、夏彦は最後まで笑わずに聞いてくれた。それだけで、話せただけで少し心が軽くなる。若干の安心と感謝で息をつく間、夏彦は話を咀嚼して人差し指を流した。
「そうなると、そいつらの集会場所もこの近くってことにならないか?」
「え?」
「だって、神隠しにあってるのは…」
「隣町の…」
言われてみればそうだ。どうして気づかなかったのだろう。
「長距離移動が苦にならない妖怪でなければの話だけどな」
「長距離…?つまり、遠くに住んでる妖怪じゃ無理ってことか」
「そう。できるとすれば、空間移動とか?」
「はは、一気に現実から遠のくな」
「そんな漫画があったよな。小学生の時に流行った」
「そうだっけ?」
「知らないか?こうしてさ…お前の学校では流行らなかったのか」
「そうかもしれない。よくわかんないや」
笑って答えはしたけれど、胸騒ぎが収まることはない。
どうしてだろう。
なぜこんなにも気になってしまうのだろう。
隣町…明日は休みだし、行ってみようか。
行ってどうするつもりなのかは、僕にもわからないけど。
**
放課後。もう外は薄暗い。
今日はなんやかんや忙しくて、結局朝の会話以降考える暇も話す隙もなく。
だけどどうやら夏彦も話があるようで、現在靴箱付近で彼を待っているところだ。
だそうだそうと思ってそのままにしている手袋が恋しい。ついでに探せばマフラーも出てきたりしないかな…クローゼットをひっくり返してみないと分からないけれど。
生徒の姿も疎らになってきた頃、慌ただしい足音と謝罪の声が聞こえてくる。
「悪い。冬美をまくのに手間取った」
「なにもまかなくても」
「いや、あいつには聞かれたくない話だから」
困った顔の僕に、夏彦は言いわけして苦笑した。
「おかげで明日、買い物に付き合う羽目になった」
「はは。冬美ちゃん、まだ学校に?」
「そう。今日は仲良い友達と帰ることにするって。部活の用事終わるの待って帰るとか言ってたかな」
靴を履きかえ、昇降口を出る。寒さで身がすくんだ。今夜は雪らしい。
「聞かれたくないって…例の?」
「そう解決した」
暫く歩いた辺りで問うと、夏彦はすぐに頷いて答えた。
「あの人の親御さんがな、昨日菓子折り持って来てくれたんだ」
「そうか。よかったね。女の人は来れなかったの?」
「ちょっと精神的に参っちゃったみたいで、まだ入院中だけど回復に向かってるって」
「そっか。やっぱ夏彦は正しかったんだな」
「だけど男は逃げたよ」
「え?」
「行方不明なんだと」
さらっと出てきた単語に顔が強張る。歩調をゆるめた僕を夏彦が振り向いた。
「……それって」
「ん?いや、例の事件とは関係ないだろう」
「どんな人?」
声が低くなる。対して夏彦の声は軽い。
「あの男か?そうだな…ガタイが良くて……」
「眉の上にキズがある」
僕が呟くと、夏彦の動きがぴたりと止まった。僕もまた、確信を得て足を止める。
「……上総?」
「ごめん夏彦」
不安気な彼に曖昧に微笑んで。
「なんでもないよ」
僕はなんとなく、全てを誤魔化した。
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