第2話「上総②」


 甘い。

 昨日のとは違う。

 確かに酒だけど、あの花の匂いと同じ甘さがある。

 果実にも似た、溶けてしまいそうな、柔らかい味。

 ああ、これは好きだな。もっと飲んでいたい。

 だけど頭がくらくらする。もしかして昨日から飲みっぱなしなのか?

 眼の前には確かに空のとっくりが幾つも転がっていたが、昨日とは別の場所のようだ。

 大きな池の畔。水面に浮かぶ月を艶やかな鯉が散らす。耳に飛び込むのは水の音。

 そして低く囁くような声。怒ったような声。

 昨日は周囲の声なんて聞こえなかったけれど、今日は聞こえるんだな。だけど酷く断片的だ。どうしてだろう。

 僕の意思とは関係なく、視界が動く。振り向いたのか。池の代わりに二匹の妖怪が見えた。

 大きな笠を被った男と、昨日の蛙顔の男だ。怒っているのは蛙の方で、笠の男がそれを宥めているように感じる。なにをそんなに怒っているのか。

 耳を澄ます。

 祓われかけた?友達が?なんとか保護はできたけど怪我がひどいと……そうか。妖怪も大変なんだな。

 甘さが喉を通る。その瞬間だけは一切の音が止んだ。余韻に浸る。だけど唐突に。

 バリン。

 目の前で盃が割れた。

 蛙男が地面に叩きつけたのか。驚いた。

 その背中が森の向こうに消えていく。怒るのは仕方がない。だけどどうするつもりなんだろう。

 視界が歪む。黒く渦巻いて。



 ジリリ…バン



 けたたましい音をすぐに止める。ああ、もう少し寝ていたい。けれどもこのまま眠ってしまえば遅刻は確実…僕はなんとか誘惑を押しのけて体を起こした。

 朝食の最中、母がつけたニュースが不穏な事件を告げる。この地域で行方不明者が出たとのこと。全国ニュースでなく地方ニュースではあったが、なんとなくひっかかる。

 とはいえ見知らぬ人の話だ。深く考えず、食パンの角をゆっくり味わって、ミルクを飲み干す。


 そうして僕は今日も学校に到着した。

 教室は暖房のおかげで温かく、冷えた体に心地よい。次第にぼやけてくる頭。まるで別の世界に飛んでいくように。

「いなくなったのって、隣町の?」

「えーなにそれ。忽然とってやつ?」

「神隠しだって」

「いやいや、ただの事件っしょ?誘拐とか。ま、それも怖いけど」

 聞こえてきた噂話も、温かさに紛れてどこか他人事のように思えた。小さな町だから、ニュースに取り上げられたとなれば話に上らない筈もない。

「神隠し…か」

「そんな話になってるみたいだな」

 呟きを拾った夏彦が、前の席にカバンを置いた。

 僕は上の空に返答する。

「妖怪って実在するのかな?」

「今日も見たのか?」

「そうなんだ」

「へえ。実在したとして、今の話に関係はないだろ?」

「うーん…どうかな…」

「随分不穏な前置きだな」

 声を落とした夏彦は、続きを待つように口をつぐむ。だけどなんとなくの理由を説明できるはずもない僕は、困って首をかいた。

 夏彦は肩の力を抜いて悪戯に笑う。

「話したくないなら無理には聞かない」

「ありがとう。今は止めとく」

「そいや参考書、どうだった?」

「ああ、そうそう。分かりやすかったよ。前のは答えが見辛くてさ」

「ならよかった。じゃ、今度駄菓子でも奢ってくれよ」

「駄菓子?」

 問い返すと、夏彦は訝しげに眉を顰めた。

「知らないのか?子供の頃食べただろ?それとも親が許してくれなかったか?添加物がうんたらって…」

「いや、どうだったかな…忘れちゃったよ」

「変なやつだな。記憶力良さそうなのに」

 夏彦の言葉尻がチャイムにかき消される。どこか懐かしく、身近で強制力のある音に。

「今日も放課後暇か?」

「そうだね。特に用事はないよ」

「なら、どこか寄っていくか」

 談笑の後、すぐに先生がやって来て噂話も終息した。





 **





 放課後。

 HRが終わるなり放送で呼び出された夏彦に声をかける。

「また呼び出し?」

「いやあ、参ったな」

「なにしでかしたんだ」

「まあ、色々と」

 誤魔化されまいとジト目で眺める僕に、夏彦は困ったように苦笑した。

「後でちゃんと話すよ。冬美には内緒な?」


 そう言って去った彼が指導室から戻ったのが30分後。


 僕らは駅前のファストフード店に移動して腰を落ち着けた。今日は水曜日。授業も早く終わった為、まだ空も明るい。

 おやつ代わりにポテトをかじりながら、夏彦は淡々と説明してくれた。

 休日、繁華街の路地裏で殴られそうになっている女の人を助けたそうで。その時に相手の男を殴ってしまったと。

 しかし、その相手がまずかった。

 なんでも議員絡みの人物で、学校に圧をかけてきているのだとか。先生も面倒くさがって味方をしてくれないらしい。

「まあでも、夏彦が怪我しなくてよかったよ」

「だから怒られてるんだが」

 ため息混じりの夏彦の口調からして、恐らくやりすぎてしまったのだろう。コーンスープに息を吹きかけながら、僕も苦笑する。

「難しいね」

「まあ、加減を間違えた俺も悪い」

「でもその女の人にとっては良かったと思うよ」

「そうだといいんだがな」

「そうに決まってるよ。お礼とか言われたんじゃないの?」

「いや…怯えちゃって声も出せない感じだったし…」

 あれ以来会っていないから、どうしているか分からない。夏彦は小さくそう言った。一応警察に保護されてはいるらしいが…そもそもの経緯もよく知らないのだとか。にも関わらず首を突っ込んでしまうところが、なんとも彼らしい。

「俺が謝れば丸く収まるって。教頭に言われたよ」

「……謝るの?」

「まあ、殴ったことは謝るしかないだろうな」

「でも、そうしなかったら女の人か、君が殴られていたかもしれない」

「そうだな」

「夏彦は悪くないと思う」

 真剣な顔で呟くと、夏彦は笑って言った。

「ありがとな」

 複雑なその表情が脳裏に焼き付く。


 そのあとのことは聞いていない。

 ただ、翌日から夏彦が放課後に呼び出されることはなくなった。

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