まんなかの灯
あさぎそーご
神隠し編
第1話「上総①」
真っ暗闇に灯りが灯る。
ぼやけた橙が周りを俄に染め上げた。
カロンと綺麗な音が響く。石畳の上を歩いているらしい。
空は見えない。頻りに起こるざわめきは木の葉の揺れる音だろう。
暫くすると朱が見えた。闇の中でも美しく浮かぶ朱だ。
その前で足を止める。下駄の音が止まった。
朱の正体は椿の花。ゆっくりと近付いてくる。顔を寄せたのだ。噎せ返るような匂い。頭がくらくらする。
花から離れると、橙が複数に増えていた。振り向いて、手を翻す。知り合いらしい。あちらも手を振り返していた。
また下駄の音がして、近場の岩に腰掛ける。着物の裾と下駄が見えた。はみ出た足と指先には随分とシワが多い。
手には徳利。正面から盃が差し出される。持っているものを傾けて液体を注いだ。酒だろうか。
盃を煽ったのは口の割けた大男で、既に酔っ払ったような顔色をしている。笑うと多少は可愛いげがあるものの、長い犬歯が鋭く光った。
あと二人、蛙顔の男と猫のような女もいる。どちらも酒を飲んでいた。
会話は聞こえない。ただ楽しそうな雰囲気だけは伝わってくる。情報交換でもしているのか、単なる世間話か。椿の花を肴に酒盛りに興じる4つの影が、橙の光を放つボンボリの下で揺れていた。
何度目になるか。話の合間に笑いながら酒を煽る。焼けるような熱さが喉元を通り過ぎた。鼻に抜けた酒臭さが胃の中までついてくる。
月が浮かんでいた。
夜空にも。盃の中の酒にも。
ジリリリリリリリリリリ!
夢心地に割り込んだ騒音で目が覚める。驚いて起き上がると、目覚まし時計がのたうち回っていた。旧型だから。自立も困難なのだ。
時計を救出し、定位置に戻す。おかげでなんとか目は覚めた。
学校に行かなければ。
いつものように
顔を洗って。
朝食を食べて。
歯磨きをして。
ワイシャツを着てネクタイをしめ。
ブレザーとコートを着て。
家を出て。
バスに乗り。
電車に乗り。
坂道を登って。
二時間後には学校に到着だ。
しかしどうにも眠い。
窓際にある自分の席で外を眺めていると、後ろからぽんと頭を叩かれる。
「おはよう、上総。どうした?ぼんやりして」
前の席に鞄を置いて、夏彦が言った。彼は穏やかに肩を竦め、横向きに着席する。
僕はその様子を、夏彦に言われたようにぼんやりと見据えてから、また窓の外に視線を移した。
「最近、妙な夢を見るんだ」
「妙な夢?」
「そ。変なのがいっぱい出てくる。妖怪っていうのかな?そんなんと話してたり」
「ほー。それはまた、楽しそうな夢じゃないか。羨ましいくらいだ」
「それが、毎日でさ。なんか妙にリアルで、おかげで寝た気がしない」
「ああ、それで最近欠伸ばっかりしているのか」
からかう風でもなく夏彦は笑う。こいつはこんな話でも、真面目に聞いてくれるのだから有り難い。
「それで、どんな妖怪がいるんだ?折角だから詳しく聞かせてくれよ」
言われるがまま、僕は話した。
口の裂けた大男のこととか。蛙男や猫女、花の匂いや酒の味だとかを。夏彦は始業のチャイムが鳴るまで、僕の話を愉しげに聞いてくれた。そうして感心したように言うんだ。
「随分詳しく覚えているんだな」
それは確かに他愛のない相槌だった。だけど僕にはそれだけでは済まなかった。
本当に、どうしてここまではっきりと思い出せるのだろう。飲んだことのない酒の味まで、事細かに。
**
近頃めっきり日が短くなった。
焼け始めた空に終業のチャイムが響く。窓際の席に座る僕は大きく伸びをして、独特な空の色をぼんやりと眺めた。薄青と淡桃の不思議な共存。これが混ざって夜になっていくわけか。
柄にもなくセンチメンタルにふける僕に、夏彦が声をかけてくる。
「悪い上総、ちょっと呼び出しくらってさ」
「分かった。じゃあ、昇降口で待ってるよ」
掃除の邪魔にならないよう、多少寒いかもしれないけれど、僕は下で夏彦を待つことにした。
3階から降りて自販機でココアを買い、手を温めながら昇降口の隅を陣取る。数分経って人も疎らになってきた頃、眼の前に女子生徒が立った。
「冬美ちゃん、今日は部活ないの?」
「はい。先輩は兄さんと待ち合わせですか?」
「そうだよ。なんか担任に呼び出されたとかで」
冬美は夏彦の妹だ。
一学年下の一年生。
俯き気味に笑う癖のある、夏彦と違って柔らかい印象の子だ。
今日も寒いね、だとか。ついココア飲みたくなるねだとか。とりとめのない会話にあからさまな嫌味が交じる。
「見て…また」
「くすくす」
「媚び売ってんじゃねえよ」
下駄箱の影から聞こえてきた声に、冬美は身を強張らせた。三人組だろうか。笑い声が連なる。
「冬美ちゃんもなにか飲む?おつり、邪魔なんだ」
「えっと…」
ポケットから持て余していた小銭を出して自販機に向かう。返事を待たずに適当なものを購入して手渡すと、冬美は困ったように笑った。
夏彦にも時々話は聞いているが、こんなことが日常茶飯事らしい。
勿論味方がいないわけではない。同じクラスに友達もいると言っていたし、僕や夏彦だっている。冬を越せばクラス替えもある。冬美自身、そう言って笑っていた。だからといっていい気はしない。
なにかの拍子にころっと解決したらいいのだが…
そんな事を考えていると、冬美が控えめに礼を述べて缶を開ける。ホットミルクティー。嫌いではなかった筈だ。
「あの、先輩…今日も家に寄るんですか…?」
「いや、今日は本屋に行く約束してるんだ。参考書選ぶの手伝ってほしくて」
「そうなんですか…兄さん、本好きですからね」
「ほんと。僕は苦手だから助かるよ」
短い間。互いの短い笑い声。周囲の喧騒。ここだけ切り取れば、なんと穏やかな日常だろうか。
曖昧に微笑む僕の顔を、冬美は意を決したように覗き込み、小首を傾げる。
「また、遊びに来てください。お菓子、作りますから」
「ありがとう。楽しみにしてる」
即答に、彼女は顔を赤くした。慌てて両手で口元を覆い、息を吐く。寒くなってきましたねと、呟きながら。
そろそろ手袋でも出さなきゃな、と言いかけたところで空気が変わる。ハッとして俯く冬美と、振り向く僕と。
「あー、悪い。お邪魔だったか?」
自販機の影からニヤニヤ顔を覗かせた彼を、二人の膨れっ面が迎えた。
「兄さん…」
「遅いよ夏彦」
「すまん。ちょっと色々あってな」
夏彦は顔の前に手を立てて謝ると、じゃあ行こうかと昇降口を出る。僕等は顔を見合わせ小さく肩を竦めた後、前を行く彼に続いた。
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