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午後からの授業は、全て休講になっていた。
中央棟の入口の前には掲示板に貼られた休講のお知らせをスマートフォンで撮影して友人に送る生徒が群がっていて、わたしはそれを確認すると、すぐに建物から出る。サークルに入っていないわたしにとって、大学に長時間いる意味はあまりない。授業が終わればさっさと駅に向かうのが常だった。
キャンパスを出たところでバスに乗り込むと、そのまま文庫本を開いて空いた席に座る。車内の席は八割ほど埋まっていて、停車したバス停で、また新しく人が乗り込んでくる。
少し混み始めたな、と感じたけれど、相変わらずわたしの右隣には誰も座らない。流石に不自然だ。その不自然さに何人かの乗客の視線を感じた。
結局わたしは次のバス停が来る前に、自分から席を立った。
空いた二つの席には次のバス停で慌てて乗り込んできた女子大生が気にすることなく腰を下ろした。二人は構わずに携帯を見ながらこそこそと話しているが、何人かの視線は後ろの座席の前のポールに
わたしが開けた席に、彼は座らなかった。それなのに、彼はその小さなサングラスの視線をずっとわたしに向けている、ように思える。
――何なんだろう。
口元をマスクで
交差点の信号が変わると、バスは駅前のターミナルに入っていく。この頃には流石に車内も混み合っていて、わたしはつり革を掴んで立ちながら、その初老のコートの男性がまだ乗っているのを何度か確認した。
バスが止まり、乗客が下りる。その波に任せて、わたしもステップを下りた。
少し駅の入口の方へと歩き出す。
スーツ姿の人波がずらずらと同じ方向に歩いていく。わたしもその一員になったかのように歩いていくけれど、何度か自分の背後にあの老人がいるのかどうかと振り返ってみる。
――何でもなかったのだろう。
駅に用事がなかったのか、彼の姿は見つからなかった。
改札を抜け、ホームに向かった。その時に一度振り返ったのだけれど、わたしの視界はスーツの人群れの中に、あの老人の黒い帽子を捉えていた。
――いる。
わたしは滑り込んできた電車に慌てて乗り込む。
車内は混み合っていたが運良く二人分の席が空いていて、わたしは不意の心労を落ち着けるようにその席に腰を下ろした。
「すみません」
だがそう言ってわたしの右隣に座ったのは、あの老紳士だった。思わずわたしは席を立とうとしたが電車は動き出し、立ち上がる機会を失った。
その老紳士はわたしが座り直したのを見て、にこりと笑みを浮かべる。それから「はじめまして」と挨拶をしてきた。
つまり彼は明らかにわたしに用がある。
その彼に何と返したものか、それともすぐに悲鳴でも上げてこの場を立ち去ろうかなどと
「幽霊席のお話をご存知ですかな?」
「え、ええ……」
「ある女性の右側の席に何故か誰も座らない、それがいつしか“幽霊が座っているんじゃないか”と言われるようになった、そんな都市伝説のようなものですが」
「知っています」
おそらくわたしのことだと知った上で訊いているのだろう。
老人は表情一つ変えず続ける。
「けれど幽霊など、実在するのでしょうか」
その口ぶりは明らかに存在を信じてなんかいなかった。彼はそのままわたしの返事を待たずに続けた。
「
「ひょっとして新聞記者か何かなんですか?」
でなければわたしの名前をわざわざ知っていると
「もし私が記者であるなら些か年を取りすぎている、とは思われませんか」
「そうかも知れません。けれどわたしが知らない世界なら常識が通用しない、ということもありえますから」
彼は微笑し、「確かに」と
「ともかく記者やライターといった類の人種ではありません。まずはこちらをどうぞ」
彼が差し出したのは住所などの余分な情報が全く書かれていない簡素な名刺だった。そこには『
「代表取締役……そんな方がどうしてわたしに?」
剣城コーポレーションといえば服飾品を中心に業績を上げている地元の大企業だ。
「最近の若い方はあまり新聞などは読まれませんか」
あ……。
その言葉で今朝の講義で先生が言っていたことを思い出した。
「既に新聞各紙で発表されていますが、多くの腕利きの職人たちが皆定年を迎え、残っていた者も中国や東南アジアといった国々に出て行ってしまい、剣城のブランド力の礎となっていた宝飾、服飾業界ではもうその力を発揮することが叶いません」
彼はそこで一旦息をついてから、続きの言葉を口にした。
「そしてこれが一番の問題なのですが、私たちには跡継ぎがいないのです」
「別に血縁に
跡継ぎ、という言葉に、彼がわたしに何かとんでもないことを打ち明けるのではないだろうか、などと妙な想像をしてしまった。けれど
「まずはそのことについて、お話しなければならないようですね。我々が何故あなた様のお隣に誰も座らせないようにしていたのか、ということについて」
それは意外過ぎる告白だった。
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