わたしの隣はいつも空席

凪司工房

1

 ふと気づくとバスの車内で自分の隣の席だけ人が座っていない。そういう偶然の時間が訪れることがある。

 わたしは誰もがその「空席の時間」について体験するものだと思っていたけれど、流石に満員になったバスの車内で誰も隣に座ってこない、なんてことはあり得ないと二週間ぶりに電話した母親に笑われてしまった。

 今まで当たり前だと思っていたことが、自分にとってだけの当たり前で、それはおかしいよと言われるとやはり気になるもので、わたしはぼんやりと、まだ眠気の残る頭で考えながら大学の門を潜る。


 ――何だろう。


 キャンパスに入ったところで、いつもと違う雰囲気を感じ取った。

 人が沢山集まり、騒然としているのだ。

 わたしは最初、新入生たちへの時期外れなオリエンテーションでもやっているのだろうか、と考えたのだけれど、下ろしたての桜色のロングスカートの裾をスニーカーで蹴り上げるようにして、オレンジ色のキャンパスを歩いていくと、視線の先に複数の警官が立ち、その前に学生の人垣が生まれ、隙間から微かに黄色いテープが張られているのが分かった。規制線と呼ばれているものだ。

 集まっている大学生たちはひそひそと小声で何があったのかについて好き勝手言っている。その声が混ざり合い、わたしの耳から精神の隣の方を揺さぶるような感覚が訪れた。


「あ……」


 また例のアレだ。

 人に酔ったのだろう。ふっと目の前が暗くなり、わたしはゆっくりと屈み込む。

 おそらくは偏頭痛だろうけれど、最近どうも頻度が高い。あまり気にしないでおこうと思いつつも、わたしはバッグから頭痛薬を出し、それを飲み込んだ。

 一分ほど地面を見ているとすぐに呼吸が楽になり、わたしは顔を上げて立ち上がると、講堂に急いだ。スマートフォンを取り出し、時刻を確認する。もう一限の開始時刻まで十分もなかった。


 うちの大学の講堂は二百五十人ほどが収容できる大きな階段教室になっている。既に開始から五分ほど過ぎてしまっていたが、今日はまだ一割ほどしか埋まっていない。

 みんな外で野次馬に紛れているのだろうか。

 初老の先生は諦めた様子で眼鏡を拭くと、


「それでは始めましょうか」


 と、経済学概論の授業を開始した。


「えぇー、アダム・スミス、カール・マルクス、ケインズなどを上げて彼らの考えをまず学ぶべきだと仰られる先生方もいますが、人間の歴史と同じように学問にも栄枯盛衰えいこせいすいがあります」


 慌てて入ってきた生徒たちはそんな話などそっちのけで、何があったのかについてあれこれと話しながら席に就き、そのまま教科書もノートも鞄から出すことなくスマートフォンを操作しながら、


「それで何の事件なのさ」


 彼女たちの話題を続ける。

 そんな様子を一瞥しつつも、先生は今朝見た新聞記事から近所に本社がある剣城コーポレーションが破産申請をした話を持ち出し、何とか生徒たちに興味を持ってもらおうとしていたが、誰一人としてそれを面白いと感じる生徒はいないようだった。

 わたしはちらり、と自分の右隣を見る。そこには誰の姿もない。

 けれどそんなわたしのことをちらりと見て、二つ後ろの席に座っている顔だけは見たことのある女子二人が、こそこそとこんな言葉をぼやいたのが分かった。


 ――まるでいつも隣に幽霊が座っているみたい。



 午前中の授業が終わっても、生徒たちの間では今朝の話題が続いていた。

 わたしも何があったのかは気になっていたけれど、大きな事件ならそのうちにニュースになるだろうし、そうでなくてもある程度情報がまとまれば誰かから話が入ってくるだろう。

 学内の食堂は珍しく満席で、わたしは五分ほど待った後、ようやく四人掛けになっているテーブル席の一つが空いたので、そこにプレートを持って向かう。選んだのはサンドイッチとスープ、サラダのセットで、ただあまり食欲がないから半分の量でも良さそうだ。

 わたしが座ったのとほぼ入れ替わりに、右側の席に座っていた男子が立ち上がり、行ってしまった。


 ――また空席だ。


 わたしは偶然偶然と呪文のように唱えながらオニオンスープに口をつける。

 対面に座った二人組の女子は、今朝の話題を楽しそうに話している。話の内容から、どうも誰かがナイフで刺されたらしい、ということは分かった。

 そういえばつい先週だったか。近くの公園でも同じようにナイフによる傷害事件があった。警官が注意して下さいとビラを配っていたことを思い出す。

 その二人も、わたしがトマトと卵のサンドイッチを一つ食べ終える前に、席を立って行ってしまった。他のテーブル席は埋まっているのに、新しくわたしの席にやってくる人はいない。

 こういう状況に遭遇する度に、わたしには本当に幽霊でも憑いているのかも知れない、なんて考えてしまう。それともわたしが知らないだけで、多くの人から勝手に嫌われているのだろうか。


 小さい頃からわたしは、人が苦手だった。

 知らない人に囲まれるとすぐに泣いてしまったし、そもそも人が多い場所に行くだけで吐いてしまったそうだ。

 だから、もし孤独に愛された人生だというのなら、わたしにはその方が良いのだと思っている。そこに寂しいとか、悲しいとか、そういった感情はなく、ただ自分はあの人たちのようにはなれないのだなあ、という、妙に達観した視線を大口を開けて笑っている女子の集団に向けるだけだ。

 結局サンドイッチは一つ食べ残してしまい、ごめんなさいと謝りながらプレートを返した。

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