色彩のあるクローン

黄間友香

第1話

 私を模したクローンは、反抗している中学生みたいにムッとして機嫌が悪そうだった。そういう時あったよなぁと思いながら、私は拳を作った。クローンの手と足はしっかりと紐で縛られ、その上からガードがつけられている。間違っても私を殴り返さないように、頑丈に身体を固定した。

「手慣れてるんだね」

 皮肉っている自分の声を聞くと、思っているよりずっと雑味があって不快だ。黙って、と目で制して、私はクローンに猿ぐつわをはめた。ムームーと声が漏れているけど、叫ばなければ問題ない。これからやることを何も知らせてはいないが、賢いクローンはすぐに黙った。

 ジムは駅から徒歩十分くらいにあり、住宅街に紛れてポツンと建っている。一階は器具などを使って運動をするフロアで、地下室には大きなダンススタジオがある。このスタジオで、不定期ではあるけれども、自分サンドバックの集まりが開かれる。このクローンを連れてきたのは初めてだった。

 ジムのインストラクターが音楽のボリュームを上げた。モチベーションを上げる選曲と言いつつ、いつも一昔前のクラブ音楽がかかっている。今日は私の他にも、十人程が自分のクローンと向かい合わせになっていた。

「はい、それでは皆さん今日も頑張って行きましょうねー。準備はいいですか? ワンツー」

 リズムに合わせて私はクローンを殴った。メキッと頬骨が折れるような音がする。当たりどころが良かった。さすがにびっくりしているのか、クローンは目を大きく見開いていた。

「ワンツー! 自分が感じてる怒り、苛立ちをしっかり開放してくださいね」

 インストラクターの声に変に力んで、当たりどころが悪かった。クローンは私の拳が近づいてきても目を開きっぱなしだったから、爪で引っ掻いてしまったらしい。じわじわと目が充血し始めた。みるみるうちに涙が溜まっていく。それでもクローンは私から目を逸らさない。身体の芯から怒りが渦巻いているのが分かった。

 自分の中にここまでの反骨精神はあるのだろうか。理不尽なことをしている自覚はあるけど、私だったら殴られても飲み込んでじっと耐えてしまうと思う。他のクローンたちだって、すぐに絶望してなんとか早く終わらないものかと祈るような顔をしていた。顔が同じだから、余計に不思議な感覚になる。このサンドバックに参加しはじめてから、私の性格は少し変わったのだろうか。

 次の動作に入るために拳を固めていると、誰かが叫んだ。

「いきなり何すんのよ! 痛い! なんで私が殴られなきゃいけないの」

 振り返るとまだ十代ぐらいのクローンが、怒りをあらわにしている。口元が緩かったのかもしれない。クローンの首元には、だらりとバンダナが垂れていた。皆が振り返る中、女の子は一瞬怯んでいた。最初は確かに、たとえクローンだとしても誰かを固定して口を塞ぐのは憚られるものだ。インストラクターが音楽を止めて、急いで女の子の方へと向かった。

「やめてよ。なんでこんなことするの。今まで仲良くしてたじゃん。華は私のこと殴るような子じゃない。私たち、ずっと一緒に頑張ってたのにいきなり何? ねぇ、華のために代わりに学校行ったし、勉強も二人でやったの忘れちゃったの? 他のクローンたちもどうしてこんなことになってるの? 私たち、同じ顔じゃん。分担して頑張ってきた仲間じゃないの?」

 みんな許されると思ってやってるの? 華という女の子のクローンは怒りが収まらないようで、蛇口を捻ったように言葉がどんどん出てきた。華本人は、口を挟むことができずにオロオロとしている。見かねたインストラクターが、背後からクローンを容赦無く殴った。

「華さん、クローンの言葉を鵜呑みにしないでくださいね。クローンはあくまで華さんの経験則から痛いと言っているだけで、実際に痛みを感じることはありませんから」

 クローンたちは、サンドバッグになる前に皆痛覚を抜き取られている。それでも怒ったり怯えたりするのは、いきなり拳が見えてきてびっくりしたとか、拘束されたことに対してが多い。インストラクターは項垂れているクローンの顔を無理やり起こした。

 華のクローンは、ジャバジャバと泣いていた。クローンにつられたのか、華も涙を浮かべている。

「でも、こんなことするのはさすがに可哀想っていうか」

 急に自分の痛みや殴ったことを思い出したとでもいうように弱気になっていた。殴って擦りむいたところを隠すように手をさすっている。細い手首には、定規のメモリのように切り傷があった。インストラクターは大袈裟に肩を竦めてため息をついた。

「蜜波さん、ちょっと打ってもらってもいいですか」

 急に話を振られて驚いた。私が返事をする前にインストラクターが手拍子を促す。音楽は止まっているのに、手拍子は最初から揃っていた。

「今日すごく頑張ってるでしょ、蜜波さん。お手本お願いしていいですか?」

 インストラクターは私のクローンの腕を掴んで、私に一歩分近づけた。

「私に当たってもいいです。思いっきりパンチしてください。はい、ワンツー」

 クローンを殴る。殴った音が生々しい。自分の顔が歪んで、つぶれた吹き出物の膿が拳につく。顔、私の顔がどんどん汚く叩きのめされていく。もう一度殴る。インストラクターの手に拳のボコっとした関節が当たって、手が痺れた。手拍子は鳴り止まない。良いあたりです! もっと! もっと行きましょう! 私は言われるままに、クローンを殴った。フォームが良いとは決して言えないし、だんだん腕がだるくなってくる。もう良いやと思ったところで、他の参加者から盛大な拍手をもらった。女の子とクローンは、そっくりな顔で固まっている。

「華さん! これがサンドバッグですよ! 今回華さんはなぜここに来たのですか? どうして自分のことを殴りたいと思ったのですか? クローンが、華さんの人生を軽々しくも奪ったからですよね。華さんが大事にしていたお友だちとの仲を壊したのは、クローンですよね?」

 インストラクターの言葉はありきたりで白々しい。でもインストラクターの煽りで、急に華の顔から何かが抜けた。クローンにも思い当たる節があるらしく、あれは違うの華、と苦しそうに訴えている。この熱気、手をただ真っ直ぐに出せば人のことを平気で殴れてしまう状況で、泣き落としで手を引くと考えるなんて、浅はかなクローンだ。黙れ、とクローンと同じ声で叫んだ華は、お腹に一発入れた。つぶれた蛙の呻き声みたいな、ひどく苦しそうな声がスタジオに響いた。若い子には、私の無様な姿なんかよりもよっぽど、こういう言葉が効果的なのかもしれない。


 インストラクターは、満足そうにスピーカーのところへ戻って行った。華のクローンの口はあえて塞がれず、代わりに音楽のボリュームが上がった。

「さて、皆さんラストスパートです。行きますよ、ワンツー!」

 最後に足を出してボディに入れる。脇腹のあたりを強く打った。

「ここからはフリースタイルです! 身体全体を、しっかり使ってくださいね」

 三回型を済ませたら皆好き勝手に自分クローンのことをボコボコにする、というのがこのジムのやり方だった。素人の力なんてたかが知れているし、自分と同じ体格の人間を倒すのはかなり大変なことだ。実際はフリースタイルなんて聞こえのいいものではなく、各々体を叩いたり蹴りあげたり、馬乗りになって髪を引っ張ったりして、なんとかして日頃の鬱憤を晴らそうと躍起になるだけ。

 私は、自分の頬を張り倒した。運動をするためにジムに来ている訳ではないから、全身を使ってパンチやキックでなくても構わない。私は殴られても冷ややかな視線を向けてくるこのクローンのことが嫌いだ。恨みに点火さえできてしまえば、自然と手が出てくるようになった。もう一発食らわせる。

 今回のクローンは、猿ぐつわをしていなくても悲鳴一つ上げなかったのではと思う。珍しかった。私のクローンはいつも私の気弱な要素が入っていて、殴ってくる私に怯え切って、ムームーと悲鳴を上げてばっかりだったから。

 普段はそこまでの気持ちを載せることはなくビンタだけで止めてしまうが、今日は拳を握って一打二打と腹に重ねた。クローンの贅肉が揺れる。その中身に大事なものは何も入っていないはずだと思って、もう一発。クローンの顔が歪んでいるのを見て、自然と笑みが浮かんだ。

 何かが弾けるような音がして、ジェルが飛び散った。大きな音にびっくりして、私は思わずしゃがみ込む。真後ろでクローンが破裂した。遮るものがなくてジェルが全身にかかる。べったりとピンク色のジェルに全身包まれたクローンは、さすがにびっくりしたのか唖然としていた。私はその顔の真ん中にパンチを食らわす。ぬめり気で手が滑った。クローンは鼻血を出さない。終了のブザーが鳴った。私はベトベトの手で、なんとかクローンの紐を解いた。クローンの中で、ふつふつと感情が煮えたっているのが分かった。


「今日って村田さんだっけ?」

 ジムに一緒に通っているゆかりは、髪についたジェルを丁寧に拭っていた。大学時代の友だちで、まだ付き合いがあるのはゆかりだけだ。髪を手櫛で梳いて、ポニーテールにしていく。

「号泣だったよね、終わった時。あれ絶対クローンがなんかやらかしたんだよ。普段そこまで激しくないもん。馬鹿力ってこれかーって感じしたよね。あそこまで怒らせるのに一体何やらかしたんだろう」

 クローンを破壊したのは村田さんという主婦で、最近はジムでよく見かける人だった。余程恨みがあって今回参加したのか、村田さんはクローンのことを何度も床に叩きつけて、顔をずっと踏みつけていたらしい。顔が破裂した後も、村田さんはクローンを踏みつけたまま泣きながら罵っていた。

 ゆかりが薄い笑みを浮かべている。そして、旦那と浮気したのだろうかとか、自分よりも優秀すぎてストレスがたまったのだろうかとか、逆に自分の嫌なところが色濃く出てしまって、克己心のためにやったのだろうかとかいろいろな憶測をあげていた。

「克己心って言葉のチョイス間違ってるでしょ。克己心あったらこんな所来ないよ」

「まあね。自分の内側に溜めておくよりも、発散しちゃった方が楽で良いなって思っちゃうもん。悲しいことから開放されてさ、そりゃあ村田さんも泣いちゃうよね」

 ジェルが飛び散った後すぐに掃除ロボットがやってきた。床を綺麗に掃除し始めた時、参加者たちからは自然と拍手が起きた。村田さんが力一杯踏みつけたクローンに対する気持ちを開放するのには勇気がいったはずだ。自分を踏みつけるという抵抗、嫌悪感に抗って、きちんと自分の意思を通せるのは、クローンが増え続ける世界で大切なことだ。連帯感から、私も拍手を送った。

 あの時、ゆかりだけは拍手していなかった。スポーツウェアから私服に着替えながら、まだ村田さんについて引っかかっているらしい。ゆかりは、優しい。自分サンドバッグにはあまり向いていない。

 私はあんなに力いっぱいはいけないなぁ。クローンとはいえ一応自分だしなぁ。ゆかりのクローンは多少のひっかき傷はあっても、大した傷はついていなかった。叩かれたのにニコニコとしているのは、ゆかりのクローンぐらいだった。

「あの華ちゃんって女の子も、結構ガッツリやってなかった? 途中で正してもらってたけど、あの後クローンのことどうしたんだろうね。可哀想ですーとかって言ってたのに急にスイッチ入ってたし」

「あー確かにね。よっぽど学校でクローンがやらかしたんじゃない?」

 ゆかりと私が子どもの頃は、一部の人しかクローンを使っていなかった。三十代になってなんとかクローンとの距離感を掴めて来ているところなのに、十代でクローンと双子のように仲良くできるとは考えにくい。

「若い子が苦しんでるのを見るとさ、正直十代の時にクローンなんていなくて良かったって思うよね」

 まだ未発達な心と身体でクローンを作るとなると、クローンがどんな風に行動するのか予測がつきにくい。クローンが人を助けるどころか弊害になることもあるとよくニュースになっている。

 人を痛めつけるのにも技術がいる。ゆかりには技術がないのかも知れない。今日は余分に殴ったのもあって、打身が酷い。顔の目立つ箇所をファンデーションとコンシーラーで隠すと、クローンが痛っと声をあげた。

「わざわざこんなことしてさ、傷を隠して連れて帰って楽しいの?」

 クローンの左目は充血したままだった。もしかするとあんまり見えてないかもしれない。一方的に暴行を加えられた姿は、お世辞にも綺麗とはいえない。

「楽しいとか楽しくないとか、そういう話じゃないから」

 冷たくしすぎたかな、と思いつつ、隠せない大きな傷はガーゼを貼り付けた。クローンが黙っているのは、私がいつも怒ると何も言わなくなるのにそっくりだった。


 インストラクターが私たちのことをジムの入り口で待ち構えていた。今日の二つのアクシデントについて謝りながらも、二人はすっかり回復したとニコニコしている。

「華さんは今回お試しでいらしてたんですけど、あの後入会してくれたんですよ。あのクローンの持っていた傲慢さって自分にもある部分だってことが、実際に打ってみて身に染みたって言ってました。村田さんも少しお話したら、大分落ち着いてました。やっぱりお顔の破裂ってなるとしんどいですから……ダメージも大きいですけど、気持ちを自分に向けてしまう前に、この会があってよかったと笑ってましたよ」

 自分サンドバックは、本来自殺防止の取り組みのために始めたものだと聞いている。自分を追い詰めてしまうよりは、暴力がクローンに向いた方が良いという考えで始まった。村田さんを追い詰めていた何かを取り除けたのなら、クローンをサンドバッグにする意義もあるのだろう。

「よかったです。着替えてる時に二人で大丈夫かなって話してたので」

 ゆかりはニコニコとするだけで、それ以上は訊かなかった。ゆかりの憶測を聞いたせいで、私の方が気になってしまう。インストラクターはうんうんと大袈裟に頷いた。

「ゆかりさんと蜜波さんは今日って通り抜き取りはせずに帰りますか?」

 自分サンドバックで使うクローンは出来損ないや、使い切ったクローンばかりだ。クローンの処理をする前に殴ってやろうと思っているだけだから、大概の人は終わると中身のジェルを抜いてしまう。

 私は断った。自分で中身を取り出したくて、いつもクローンの中身のジェルを抜き取る時は一度家に連れて帰ってから処理する。ゆかりは一度ではほとんど傷がつかないから、クローンを二、三度サンドバッグに使ってから抜き取りを依頼することが多い。うーんと少し考えるそぶりを見せたゆかりは、抜き取りをお願いしますと言って、クローンを引き寄せた。このクローンは今回が初めてのはずだ。

「ゆーちゃん、私抜き取られちゃうの?」

 ゆかりのクローンは不安そうな顔をしている。言葉尻に自分は他のクローンとは違うだろうという甘さが覗いていて、幼いとすら思う。彼女はほとんど傷はついていないけど、膝のあたりに大きな痣ができていた。ゆかりは笑顔を崩さなかった。

「大丈夫、一瞬で終わるよ。こういうことは、プロにお任せした方がいいからね」

「私はなくなっちゃうってこと? やだよ、まだゆーちゃんといたい」

 んー? と間延びした答えのまま、ゆかりはインストラクターにクローンを引き渡した。インストラクターは慣れた手つきでゆかりのクローンを縛ると、近くにいたスタッフに渡す。そしてサインだけお願いしますとゆかりに同意書の画面を見せた。

「抜き取りした後は、こちら処分してしまっていいですか?」

「はい、勿論です。よろしくお願いします」

「わかりました。ではお預かりいたします。次回自分サンドバック会を開催する時に、またご連絡差し上げますね。お疲れ様でした」

 スタッフに連れていかれるクローンは何度も悲しそうにゆかりの方を振り返っているのに、当の本人は見向きもしなかった。嫌って手放す訳ではないにしても、手放すこと自体には大して感慨が湧かないのかもしれない。


 ジムを出ると、ゆかりのもう一人のクローンが待っていた。ジムの前にあるベンチで、ドーナツを食べている。横には箱が置いてあって、まだ半分ほど残っていた。運動後のランチに絶対ついてくるこのクローンは、サンドバックのクローンとはまた別で、体重二百キロはあるだろうという巨漢だった。ゆかりが大きく手を振ると、クローンはニコニコしながら腰をあげた。

「ゆーちゃん、すごい待ったよ。早くご飯食べたい」

 舌足らずなクローンに、ゆかりはとろけそうなほど甘い笑みを浮かべた。クローンは冬なのにTシャツ一枚で、そのTシャツも柄が伸びきっている。ゆかりはどちらかというと細身だし、服装にも気を遣っている。二人が並んでいると同じ遺伝の人物とは思えなかった。

「もー片手にドーナツを持ってるのに、何言ってるのよぉ」

 そう言いながらも、ゆかりは両手を大きく広げてクローンに抱きついた。口にチョコがついているのを綺麗に拭ってやる。蜜波もランチ行くよねと誘われて、頷いた。私のクローンはギョッとして私の方を見る。私はそれを目で制して、ゆかりのクローンだよと囁いた。ゆかりとのランチにクローンがいた方がいいだろうというのも、私がジムで抜き取りをしない理由の一つだ。

 ゆかりはクローンを食べさせるために、近場でやっているレストランへ連れて行く。住宅地にポツンとあるイタリアンレストランは、わざわざ駅まで出なくても良いこともあるのか、近所の人たちでいつも賑わっていた。普段よりもジムを出るのが遅くてちょうどお昼の忙しい時に来てしまった。少し待たなければいけないと聞くとクローンは不満げだった。すでに行き道でドーナツはほとんどなくなっていて、食べるものが手元にない。私がカバンに入っていたエナジーバーを渡すと、チョコレートでコーティングされたものだけ選りすぐって、ようやく大人しくなった。

 レストラン奥のテーブル席へ案内された時、クローンはウェイトレスに支えられて、椅子を壊しそうになりながら席に座った。それがごく当たり前になっているのか、まるでクローンの方が本物のゆかりみたいな振る舞いをしているのに、ゆかりはただ微笑んでいるだけで何も言わない。

 ゆかりが食べ物をオーダーする時、まるで音読みたいだった。全部くださいで事足りるのに、一つ一つ名前を読み上げていくのも律儀な彼女らしい。

「あなたはご飯なに頼む?」

 私のクローンは背中を丸めて俯いていた。何か大事なものを抱え込んでいるように、張り詰めている。クローンは顔を上げないまま答えた。

「ご飯いらない。口切れちゃってるから、食べてもどうせ美味しくないし」

 今までのクローンは、上部だけでも謝意を伝えたり、実際に何か頼んだりしてくれたのに、このクローンは私の思ったことと正反対の動きをする。

「テーブルに座ってるのに何も頼まないのはレストランにも失礼じゃん」

「そのクローンがたくさん頼んでるじゃない」

「何頼むって聞いてるの。頼む頼まないは聞いてないでしょ」

 蜜波、と困った顔のゆかりに嗜められて、唇を噛んだ。このクローンに弾けたように怒ってしまうことが今までにも何度かあった。ウェイターが困惑している。クローンは私の言葉には反応しないでテーブルの脚をカンカンと蹴っていた。顔貌は同じでも、このクローンは思った通りに動いてくれない。レストランは賑やかで、苛立った私の声は特に注目を集めることはなかった。

「じゃあ半分こする? 私もそんなにお腹空いてないから。ランチセットが美味しそうだと思うんだよね。ここのレストランはなんでも美味しいし、食べ始めたら食べれると思うよ。貴方が何か食べたいものあれば、そっち頼んでもいいし」

 わざと明るい声で誘ってみても、クローンはなんの反応もしなかった。サンドバックになっていた時、もっとしっかり殴っていれば良かったという考えが頭をかすめる。私の拳はただの暴力でしかなかった。もっと、私に従ってくれるようなやり方で、痛めつければまた今の回答も変わったかもしれない。帰ったらすぐ抜き取りをしようと、私は心の中で誓った。

 結局、食べなければこちらで食べるから良いよ、とゆかりが申し出てくれたので、ありがたくパスタセットを二つ頼んだ。


 ゆかりのクローンのお腹が、大きな音を立てる。ウェイターがテーブルの近くを通り過ぎるといつも目で追って、恨めしそうに見ていた。ようやく一皿目の前菜がきた時は、お皿がテーブルに置かれる前に手を伸ばして食べ始めた。私たちのテーブルにウェイター四人が代わる代わるやってきて、大量に頼んだ料理を置いていく。テーブルに全ての料理が置ききれなくて、わざわざ予備のテーブルもくっつけてもらった。私のクローンはランチセットが来ると、素直にフォークを持った。左手を太腿の下に置いたまま、ズルズルとパスタを啜っている。行儀が悪いと嗜めようかと思ったけど、変に感情的になってしまいそうで止めた。

 ゆかりは水を飲んでいるだけで、ご飯に手をつけていなかった。横からクローンがどんどんお皿を奪っていく。食べないのか尋ねると、ダイエット中だからこのままでいいの、と話題を切り上げた。

「蜜波は、もう一人クローン置いとこうとかって思わないの?」

 私が頼んだペンネアラビアータは、ペンネが思っていたよりも柔らかかった。俯いたままのクローンをちらりと見る。私に似た、小賢しくてよくいじけて軽率で、何にも秀でていない中途半端な人物がさらに増える。そう思うだけで、自分の価値が二倍三倍と落ちるような気がした。

「今はいいかな。自分がもう一人だけいるぐらいでギリギリ」

 こういう時、なるべく不自然にならないようにとこちらが配慮しなければいけないのがすごく嫌いだ。自己肯定感が低いということを理解してもらうのは難しくて、ゆかりに対してもなんとなく誤魔化してしまう。

「うそー、私もう一人ぐらい増やそうかなって思ってるよ。増やしてさ、自分で戦隊モノでも作ろうかなって」

 もう一人はキープにしたいとゆかりは言った。今は家事をするゆかり、男性のゆかりと、食べるゆかりがいる。

「今やってる分業制にプラスアルファがいると、いざというときにいいかなって。ほら、今日みたいにちょうど一人いなくなっても、抜けがなくなるっていうか」

 ニコニコと笑うゆかりは、クローンが何人いてもそれなりに愛せるのだろうと思う。さっき手放したクローンだって、打たれたにも関わらずゆかりのことを信頼しきっていた。私はパスタを頬張りながら、誤魔化すように笑った。

「うちは狭いからそんなに人がたくさんいても困るよ。それに、私は仕事に行ってもらえてる時点でかなり満足。これ以上自分でやることなくなったら、暇になりすぎちゃう」

「何言ってんの。蜜波の家、一軒家でしょ」

「変に旦那がいた時と違う風にしちゃうとさ、なんか戻ってきた時に変な空気になりそうだし。出来るだけ現状維持したいんだよね」

 夫は、三年前になんの前触れもなく消息を絶ってそのままになっている。私ではなく、クローンを連れて出て行った。夫になすりつけていることはたくさんあるけど、この言い訳が一番使い勝手がいい。欲がないなぁと笑うゆかりは、それ以上は何も追求しなかった。クローンが邪魔をしてきたというのもある。

「ゆーちゃん、ちゃんと食べてよ。私だけがたくさん食べてるのもなんだか気が引けちゃう」

 遠慮している人間とは思えない勢いで、巨漢のクローンはお皿を綺麗にしていった。ゆかりのクローンは太りすぎで顎と首が繋がっている。その間にサンドイッチのパン屑が落ちてしまった。食べる手を全く止めないクローンに変わって、ゆかりがそれをそっと取り除いてあげる。

「介護みたいだね」

 思わずこぼれた言葉に、しまったとゆかりの顔色を伺う。

「自分の? よしてよ悪趣味じゃない。そこまでひどくもないのよ。いつもご飯の時は一緒だし、慣れてるから」

 ゆかりが、感情を丁寧に折りたたんで私に柔らかく返してくれたことに、申し訳ないと思いながら気づかないふりをする。私は余計なことついでに、ゆかりの前にサラダを置いた。

「クローンが食べても、ゆかりが食べてるってことじゃないんだからね。当たり前だけど」

 ちゃんと食べてと促すと、ゆかりは苦笑しながらようやくフォークを持った。

「食べたいものを全部食べてくれるし、なんか大食いしてる人の前だと、あんまり食べる気しないんだよね。私は全然食べずにいられるから、視覚ダイエット的な」

 確かに大学の時、ゆかりはストレスで食べてしまうと言って、よく悩んでいた。実際、今よりも一回りか二回りぐらい身体も大きかった気がする。クローンが食べても、食べ物は燃料にもならず、ただ処理されていく。カロリー計算と代謝を考えて、勝手に姿形が変わっていくらしい。

 あっという間に予備のテーブルの食事まで食べ終えて、最後の一皿に手を付けようとしているクローンのために、食べ終わったお皿を脇に寄せてやる。ゆかりはランチセットのサラダを少しずつ口に入れているだけで、ほとんど何も食べていなかった。

「この子、食べてたら幸せって本当に単純構造だからさ、やっぱり他の子よりも可愛く見えるんだよね。絶対に抜き取りさせたくないもん。このまますくすく育ってさ、私の分までしっかり食べて欲しい」

 食欲を処理してくれる人材として、ゆかりのクローンは存在している。けれど、ゆかりの眼差しを見れば、それ以上の心の繋がりを感じる。さっき抜き取ったクローンとはまた別の、子どもに向けるような優しさで、ゆかりはこのクローンを生かしていた。クローンが食べすぎて亡くなりでもしたら、ゆかりは人目も憚らずに泣くのだろう。

 ゆかりはなんてことないように言っているけど、クローンは足下もおぼつかないようで、ゆかりが手を引いてやらなければまともに階段も降りられない。自分の生活を圧迫しているにもかかわらず、ゆかりはいつも率先してクローンの世話をしていた。

「私たちのクローンの使い方見たらさ、きっと最初にクローン作った人は泣いちゃうだろうね。不満を処理するために自分はクローンを作ったんじゃない! とか言ってさ」

 あんまりにも理想とかけ離れすぎて、膝から崩れ落ちるよ絶対。乾いた笑いが漏れた。

 私のクローンは、食べ終わると丁寧に口を拭っていた。


 家に帰ると夫のクローンが待っていた。蜜波、おかえりと出迎えてくれる。蜜波とはっきり発音するのはクローンのくせだった。ニコニコと笑っている視線の先は、私ではなく隣にいるクローンだ。私は急に、家では存在感がなくなる。私のクローンも少しだけ笑った。彼女は、夫のクローンの前では素直に感情を出した。夫本人は蜜波の発音が甘くて、いつもミーハと聞こえた。夫のクローンは夫の細やかな部分や穏やかな優しさを強く受け継いでいるようで、本人と暮らしていた時よりも、かなり安定した家庭を築けていると思う。本人がいた時からクローンの方が優秀で、元々飾りものに近かった。夫のクローンは、怪我に気がついた途端に慌てた。

「痛そう。手当てした方がいいよね。今救急箱持ってくる」

「いい、いい。この子すぐ処理しちゃうから」

 夫のクローンの方が、クローンの代わりに傷ついたような顔をしていた。夫のクローンが反論する前に、クローンの腕を強く掴んで、二階へと上がる。

 寝室のカーテンは閉めたままで、電気をつけた。ジェルが飛び散ってもいいように吸水シートを床中に敷いて、大きなバケツを三つ用意する。タンスの一番下の引き出しには、今まで私が抜き取ってきたクローンたちがジップロックに入れられてぎっしりと詰まっている。一緒に入れている箱から、剃刀を取った。

「こっち来て」

 私はドアに寄りかかっているクローンを手招きした。クローンは今になってまぶたが腫れてきて、半目ぐらいしか開いていない。

「やだっていったらどうするの? もし私が貴方の持ってる剃刀奪って、貴方に突き立てて死んじゃったら?」

「そしたら、あんたが本物として生きれば良いだけの話だよ」

 クローンは思いっきり顔をしかめたのがおかしくて、ちょっとだけ笑ってしまった。そうだよね、嫌だよねと心の中で語りかける。もっと生きやすい人間のクローンだったらいくらでも長生きしたいと思うかもしれないけど、私みたいにジメジメとした人間として生き延びて、何が楽しいというのか。

 再度手招きをするとクローンは大人しく私のところへやってきて、手首を突き出す。抜き取れるなら別にどこに穴を開けても構わないけど、私はいつも左手の手首を切るようにしている。刃が鈍ってきたのか、全然切れない。何度か剃刀を当ててようやく手首に傷を作ると、黄色いジェルがゆっくりと出てきた。腕を返してバケツの中に落ちるようにする。

「明日から貴方が職場に行くの?」

 ぽとぽと絶え間なくジェルが落ちてくるのを、二人でぼんやり見つめていると、なんだが儀式めいていた。

「うん、次のクローン来るまでの繋ぎでね。しばらく外で仕事とかもしてないし、久しぶりにしばらくは会社出てもいいかなって思ってる」

「そう。引き継ぎの資料はちゃんと作ってあるから、貴方が行っても大丈夫だと思う」

 クローンは今一緒に仕事をしている人たちの名前と、その人たちのくせを教えてくれた。私のクローンは、私よりもほんの少しだけ優秀だった。私がすごく頑張ったら、もしかしたらなれたかもしれない程度に。会社は、しばらく行っていない間に随分と人が入れ替わっていた。

「痛い?」

 クローンを抜き取る時に癖でいつも訊いてしまう。今更、とクローンは笑った。

「すでに痛覚がなくなってるから平気。さっき殴られた時の方がびっくりした。話には聞いてたけど、本当に殴るような頭おかしい人がいるんだなって。これは、そうでもないな」

 脇腹をナイフが掠めたような、嫌な感覚があった。意味ありげな視線を無視して、バケツに落ちていくジェルに集中する。腕がペタッとし始めると、私は首を押した。喉を潰されているのに、クローンはまだ喋った。

「貴方、最近は私にずっと怖い顔しか向けなかったね。最初は違った気がするけど、どこで嫌われたのかがよくわかんなかったな」

 途切れ途切れにクローンが喋るのを聞いて眉を潜めた。そこまでの努力をしてまで、言うほどのことではない気がする。ねえ、あんたさ。私は首から手を離して、咳き込んでいるクローンのお腹を押した。

「夫と寝たのによくそんなこと言うよね」

「は? 寝てないよ。だっていないじゃん」

「馬鹿。クローンの方だよ」

 手で押すだけでは物足りなくて、腕を掴んでお腹を踏みつける。左腕から勢いよくジェルが床に飛び散った。次のクローンはまた新しいジェルを購入しないと作れそうにない。クローンは悲鳴をあげたけど、私は無視した。さっき痛くないっていって言っていたばかりだ。

「ねぇ、子どもが欲しくなったの? タイミングもとっくに逃して、本物もいないくせに欲しくなっちゃったの?」

 クローンがもう返事をできない時に、私はそう訊いた。のっぺりとしたクローンの顔が鮮明に頭に浮かぶ。二人が時々夫の部屋で一緒にいるのを見かけた。私のクローンがうつ伏せになり、その上に夫のクローンが覆いかぶさる。クローンたちは二人とも無表情で、洗濯機のように時々震えた。快楽に溺れる自分の嬌声が聞こえてきたら、それはそれで気色悪い。でもこんなに無表情でつまらなさそうにしているのなら、なぜ行為に及んだのかと疑いたくなるような不思議な光景だった。それでも選ばれたのは、私ではなくクローンだった。

 ペラペラになった首や腕は、ストッキングに似ている。指先や耳先にジェルが残らないよう歯磨き粉の最後らへんのように、慎重にかき集める。全て抜き取ったクローンは、ハンガーに吊るして日陰干しにした。抜け殻になった自分の腰を、洗濯バサミで固定する。


 作業が終わってリビングに下りると、夫のクローンが紅茶を淹れて待っていた。クローンはそういう心遣いが折に触れて身体を満たしていく。もしこれが本物の夫とであれば、とっくに冷めていたかもしれない。クローンからのやさしさは、夫を去ってからますます自分の心の動力になっていた。

 もう抜き取ったの? 早いねと、少し驚いている。掃除は後でやるからと、ぞんざいに返した。椅子に座ると、どっと疲れが襲ってくる。

「あのクローンは、まだ作って半年ぐらいでしょ」

「そうだけど怪我してたし、あんまりそのままほっとくのも可哀想でしょ」

「でもさ、少しペース早くない?」

「良いじゃない別に。クローンなんだから」

 なんか疲れちゃった、と言えば、たまには二人でゆっくりしてもいいよね、と夫のクローンはすぐ取り繕って肯定する。本人を探さなくてもいいように、調節の効いた都合の良い男をわざと残したのではないかと疑いたくなる。

 もしかすると私は何人かの子どもを殺しているのかもしれない。クローンたちが作った子どもを、押し潰し蹴り飛ばしている。どの程度の確率でクローンが妊娠するのかは怖くて調べられていない。

「ねぇ、今日は一緒に寝てもいいかな。久しぶりに、どう?」

 私は夫のクローンと寝たことなんてなかった。前の夫とも最後はほとんど顔を合わせていない。どう頑張っても自然に誘うことなんてできそうになかった。夫のクローンは少し驚いた後、困った顔で笑った。

「ごめん、今日はちょっと。来週からの仕事が立て込んでるんだよね」

 また今度ね、とやんわり断られる。癇癪に任せて夫のクローンのことを抜き取れないのがとても歯痒い。失踪した夫は、一体今どこにいて、何をしているのか。こういう時ばかり気にしてしまう。

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