楽園
森川めだか
楽園
楽園
9月27日
やっと孤独に戻ってきた。
宿酔で顔を洗いに下を向くと吐きそうになった。
「時がある」ということをたかが使用人のキスケがどうして自分に言ったのか謎だけどこの日記をつけることにした。
しつこい愛し面皰が口の端にできている。
キスケはまだ暗い内にやって来て昼間の内に帰る。
明日は月に一度の点検の日。
朝のストレッチをしながら少しお酒を飲んだわ。
私、お酒を飲み過ぎると体が赤くなるタチなのよ。
もうキスケは来てるかしら。私、アル中なのよ。
母からは止められてるんだけど。
ゆっくりお風呂を浴びて、朝食を摂る。キスケが配膳してくれるの。アイスコーヒーとパン一切れ。「ポエミ様」ってね。
脱衣所ではいつも父が覗きに来た事を思い出すの。だから私、急いで着替えるのよ。
お母さんはぐうたらだからまだ起きてこない。今日は私は図書館へ、キスケは野菜を買いに行くはずだわ。
お母さんったらおかしいの。肉だけは自分で選びたがるのよ。
読書は私の唯一の自由時間。それ以外は何をしてるかって、ぐうたらしてるか、小説を書いてるか。そうよ、自分で小説を書いてるのよ。
煙草だって喫うわ。私、不良なんだから。
窓を開けた外からはガタゴト音がするわ。一年の内で窓を開けていられるのって今の内だけだからキスケがいつも朝には開けておくの。夜まで開けっ放しよ。
空はいつも白く見える。それから私は長い食休みに入るわ。椅子に寝そべって家の中を睥睨してるの。
キスケは私の食べた食器を片付けてから、キッチンに消えた。また、洗濯をする時にはベランダ添いのこの部屋に戻ってくるわ。
こうやって朝の誰もいない憂鬱な時間が一番幸せ。
キスケが洗濯物を干してる。キョロキョロしちゃって、女の人でも見てるのかしら。私は煙草を吸いに行ったわ。
お母さんは私だけがユージンだから起きてきたらうるさいの。私はユージンなんか信じない。
孤独だけにしてよ、私を。他の感情なんて要らない。そう祈ってるの。
孤独は私の鳩なの。
昨日は靴買っちゃったから、次は何が欲しくなるかな。いつも何か欲しい物がないと落ち着かないの。私って変な奴。
鳥が喧嘩する音が聞こえる。こんなの初めてのことだわ。
ジンを飲んだ後の口って甘ったるくて嫌ね。靴は今日、届くはずだわ。それを履いて明日の点検に行くのよ。キスケが受け取ってくれるわ。
何でもいいから私の目を目覚めさせてよ。今日は特別、眠いわ。
これじゃあユージンらしく振る舞えないじゃないの。お母さんがようやく起きてきたわ。
私の家に使用人部屋はないんだけど、キッチンの脇にいつも丸椅子が置いてあるの。キスケは今もそこに腰かけているはずだわ。
キスケはいつも私がお母さんとの無駄話に気を悪くしないように心掛けてくれるわ。とりわけ「昔」の話になりそうだったら新聞を持ってきてくれたりね。
私はお母さんがかわいそうだからリビングにいてあげてるけど、本当はいつも私の部屋に駆け込みたいのよ。
雲が走っている。
キスケが掃除機をかけるからって各自の部屋に行ったわ。早く図書館が開かないかしら。私、掃除機のあの音がどうも好きになれないのよね。
返しに行く本はつまらなかったから、今度借りる本は面白いといいな。そんなものもキスケにやらせればいいんだけど私のプライバシーだから。
うちは有産階級だから働きに行かされずに済んだけど、それだけじゃつまらないから自分で小説なんか作ってるの。私って独立した女だわ。
図書館に行くためにキッチンを通り過ぎたらキスケが玉ねぎをすりおろしてたわ。キスケももうそろそろ野菜を買いに行く時間だ。
帰ってきたら丁度、キスケが掃除機をかけ終わる頃だった。
そうして食事も終わって、私は自分のベッドへ、ロイズの元へ帰ってきたわ。そう、ロイズ・ロイス・ロイスよ。
悪い咳が出た。痰がいっぱい詰まってるような咳だ。いつ死んだっていいのよ。私は彼に楽園を与えたのだから。
ロイズってのは私が殺した男。私、死体の横で寝てるのよ。
彼の目が、髪がここにある。白いベッドの私の横に並んで。いつも添い寝して寝てもらってるの。
私だってどのみち長生きできないよ。体がサイボーグだもん。ある日、空飛ぶ車から落ちて一度死んだのよ。
私の胸から腹、見てごらん、機械だから。明日、その点検しに行くの。壊れてないか。
ロイズとはラブベンチャーで出会ったの。私が腕を首にかけて絞め殺した時、彼嬉しそうだった。
彼の目は今、楽園を見てるのよ。誰にも分からないでしょう。
こうやって隣に寝ていると私はロイズを愛撫し、彼も私を愛撫するわ。彼の体は朽ちないの。ホルマリンに漬けたから。
そうよ、誰にも分からないのよ、私の気持ちなんか・・。もう寝るわ。
そうそう、言い忘れたけどホルマリンに漬けてくれたのはキスケ。私には力仕事は無理だから。だからキスケが言い出したんだ。「時がある」って。
その聖句はまた後にするわ。
私が彼を抱きしめている間、彼も私を抱きしめている。こんな夜だから。一緒に糸くずみたいになって落ちていこう。
9月28日
ベッドから落ちる夢を見て目を覚ました。
えーと、ちょっと待ってね。私、パソコンをやる時は眼鏡をかけるのよ。
天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。
生るるに時があり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、
殺すに時があり、いやすに時があり、こわすに時があり、建てるに時があり、
泣くに時があり、笑うに時があり、悲しむに時があり、踊るに時があり、
石を投げるに時があり、石を集めるに時があり、抱くに時があり、抱くことをやめるに時があり、
捜すに時があり、失うに時があり、保つに時があり、捨てるに時があり、
裂くに時があり、縫うに時があり、黙るに時があり、語るに時があり、
愛するに時があり、憎むに時があり、戦うに時があり、和らぐに時がある。
・・つまり待てということよ。コヘレトの言葉だわ。
今、長い間、放っておいた小説書いてた。いつかここにも公開するかも知れないわ。上手くできたら。いいのよ、どうせ行き場のない小説なんだから。日記ってどう書いていいか分からないからこうするより仕方ないの。
ゴキちゃんがいたわ。古い家だから。キスケにきつく言っとかないと。
インディンってのは私のペンネームなの。なるべくいじきたない名前を選んだつもり。
夜の騒ぎ声が聞こえる。風が話してるんだわ。おばさま達の声で。
私が今もしプロテスタントに入信したら、突如として告解してみんな逮捕されるでしょうね。罪のはけ口になっていたから。みんな悪い奴なのよ。
真面目臭さに疲れ切った時にお酒を飲むの。この世界は私が思ってるより真面目臭くないんだから。お母さんは私の部屋がお酒臭いことに気付いてるはずだわ。
パンがなければ勉強すればいいのに。
昨日届いた靴は、どうやら足に合うみたいね。
サイボーグになったら、色々なものが見えるようになったわ。この世にとどまるものが全て見える。幽霊や何かがね。
幽霊は滅多なことじゃなきゃ出てこないわ。今日は点検の日だからキスケがパンを二切れ出してくれたわ。朝早く出なきゃ。
私の胸から腹にかけてはシルバーなのよ。とどのつまり、私の女は機械になったのよ。私、処女なのに。
どうして同じ世界にこんなに違う人間が生まれてくるのだろう。母を見てるとそう思う。
早く私一人だけの家が欲しい。サイボーグだから無理よね。今度いつ死ぬか分からないんだもの。キスケも我慢してるのかしら。
私が帰る頃にはキスケがもうお昼を用意してくれてるわ。モーニングショック、彼女の朝の無駄話はそれね。
この小っちゃな心臓守るために全部サイボーグにしたんだから。ベランダの一画ではクローバーを栽培してるの。
長く待ったけど薬が一つ減ったわ。この頃のひどい立ちくらみも肝臓が何か悪いのかも。明日から目が黄色いか確かめてみるわ。父がそれで死んだから。
読書もどうせ誰かの作りものの世界だろうと気の乗らぬ時がある。私は早く煙草を吸って、寝てしまいたいと思う。
ロイズはまるで白い蝋になっていくようよ。孤独だけになるのは難しいわね。
「どこで泣いてる」声がしたの。思わず姿を探したわ。「ごめんなさい。根にもったの?」私の膝頭の果て。
9月29日
この頃、小説に自信を失いかけてるのよ。
驚かないでね。昨日、声がしたのもとどまるものの内なの。
小説なんか書いて何になるのかしら。もうこの歳だし。あーあ。
目は黄色くない。乙女の目をしてる。
生きがいがないのよ、つまり私には。ロイズも私のコレクションかしら?
何か欲しい物がないと落ち着かないわ。どうでもいっかって思っちゃうの、もう小説なんか。
出来たわ。さっき出来た小説。
かわいそうな耳で聞け
インディン
神よ
許して下さい
私は人を憎みました
キリストのみ名によって
アーメン
今日、私は発見した。人を憎んでいたという、どうしようもない、真実。
神よ、どうか私を祈れる人にして下さい。
旅に出ればシンバル幼児旅に出る
詩です。
(汝の若き日に汝の
私はそのことに気付いてから母でさえも憎んでいたのよ。おかしいでしょう?
母のお喋りがたまらなかったのです。あなたにはお分かりになるわね?
自分の憎しみさえなければ。
私は人々の間でどこに行ったんだろう。そんな事ばかり考えていました。
泥にまみれて父親の死体が発見された時、私は見てしまったのよ。
あなたがいちごの輪切りの白いセーターを着て沼の方に走っていくのを。ショートケーキみたいだった。
あなたが私の父を殺したのは私たち家族が欠陥住宅に越してきたから?
私の憎しみをもし何かに言い換えるなら、言(ことば)です。
(はじめに言ありき)
ある日、目覚めると死体がなかった。あなたが私の父をなぜ殺したのかは分からないままで構いません。どこに置いたのかも・・。
私の家族の中で最も愚かな者のために祈らないと、と父のために祈ることも考えたのよ?
あなたと一緒の夢を見てたことを証明できたら。
「若い方が巻き戻さないでええんよ」昨日、会った人の言葉です。
この手紙は愛のひとり言だと思って下さい。
海の波音は子供のはしゃぎ声のようだ。異常な青空の下に。
黙ってる人、イエス、私はあなたに伝えたいことがあります。
神を憎んではない!
それはきっとあなたも同じことでしょう。
もし父の事切れる前に時を戻せれば、全ての試練ももう憎むはずもないはず。
私が私の身の内に憎しみを発見したのが9月5日、この手紙を書いているのが25日。二十日も経かったのよ。
23日に割った卵が二黄卵だった。
そんな時にお母さんは宝くじでも買ったら? って言ったわ。
黒いスカーフを持ってるからきっと見つけてね。
原罪とはみにくいアヒルのことよ。
恋は人を蘇らせるのね、おお、リック!
私に似ている人。
私は神を憎んでない。
これに尽きるわ。どう? うまくできたかしら。
私には何か、虐げられた者の美しさが必要だと思うのよ、小説には。闇が濃くなっていくみたいに。
お酒がなくなりそうよ。
それが自然な美しさなんじゃない?
欲しい物があったら幸せかしら?
子猫が目を開く時ってどんな感じかしら。
お酒がなくなったこの試練もきっと神さまのお考えの一つよ。
銃弾のように鳥が飛び交い、空がどこまでも広がっているのなら雲だってどこまでも続いているのかしら。
鳥が私に何か言ってるわ。私はロイズのことを考えていたのよ。彼のお鼻、ピノッキオみたいに曲がっちゃってもうすぐで滴りそうなの。
僕は英雄だ! って彼、言ってたっけ。
空に一線が引いてある。緑色の雲。
昼食後、お母さんはキスケと何か話してたわ。おかげで、食休み中話し相手にならないで済んだけど。
私はお母さんのユージンにならねばならない。彼女の最後のユージンに。
彼女が寂しいなら寂しさを、喜びなら喜びを分かち合えるユージンに。そうなれるのは私だけなのだから。
「どこで泣いてる」それは、彼女の隣で泣きなさいという意味だったのだ。心からのユージンに。
もし神を憎んでいないのなら。そうすべきだったのだ。
彼女は今、私を必要としているのだから。素面でよかった。何事にも「時がある」のだ。
彼もきっとそう言うだろう。死にたがっていたロイズも。
私もユージンが欲しかったのだから。
痩せた風が辺りを吹き散らかした。
9月30日
何でこんなに寝たんだろう。
キスケが私の部屋のドアをノックしたわ。
キスケの話を聞いてみると、使用人をもう一人雇いたいというの。お母さんにはもう了承を得てるって。昨日、話してたのはこれだったのね。
私も「いいわ」と言ったわ。
出てきたのはむさくるしい娘。
ムサボウシって名前の家出少女らしいわ。どうせキスケが拾ってきて困ってたんでしょう。
青色だったのか緑色だったのか分からない服を着て、私をおずおずと見て頭を下げたわ。臭いもしたわ。
「浴室を使わせなさい」と私は命じながら、そのムサボウシに嫉妬していたわ。
どこに力が入っているというのでもない、自然な美しさを彼女はしていたわ。私は顔もただでは済まなかったから羨ましかった。
きっと自分の顔なんて意識もできないで暮らしてきたんでしょうね。
二人が出て行った後、私は煙草を吸ったわ。昨日、あんなに気分が良くなかったら私は許さなかったでしょう。
昨日、あの後、私は鳩のように悲泣したの。何十年ぶりかに泣いたわ。サイボーグになった自分を責めてばかりいないで、って思ったら私がいたたまれなくなったの。誕生日が近いせいもあるんでしょう。
そんなだから今日は複雑な気分。泣いたからこんなに寝たのかしら。
今、パソコンに向かってるんだけど私が小説を送った田舎の新聞の賞が過去最多の応募数だったんだって。私、何でこんなツいてないんだろ。
小説なんか書いても何の役にも立たないのかも。
この家に男がいなくて助かったわね。男の人がいたらムサボウシは嫌だって言ったと思うわ。あんな生娘、私と同じ処女に決まってるわ。
家出娘だから素性は分からないけど。
私は膝丈のスカートを穿いていたわ。私がサイボーグってこと知ってるんでしょうね。キスケのことだから抜かりなく説明してくれたと思うけど。
そうだ、その手があったわ。私はそっとベッドの方を振り向いた。
このロイズを秘かに二人に姥棄山に運ばせればいい。あの娘、怖気づいてもうこんな家嫌だって言うかも知れないわね。
一挙両得よ。
私は思い直したから、今日はお酒を買ってこないつもり。いつまで続くか見物ね。
次、欲しい物が決まったわ。真っ白なバッグ! バッグを買ったばかりだけど、夏用に必要ね。バッグの次はバッグが欲しくなるの、その次はバッグ、バッグよ・・。
神を憎むことがないなら私は空飛ぶ車のあの事故も恨まない。誰か私を狙って撃ち落としたんじゃないかしら・・。
鼻の辺りが黄色くなってるのよ。ロイズの死体。
水の音がしてる。ムサボウシが体を洗ってるのね。
私は軽く眩暈がしたから少し横になったわ。きっと業腹だったせいね。もうすぐお別れよ、ロイズ。ご機嫌よう。
何でも入るポケットがあればなあ・・。キスケに煙草を買いに行かせなきゃ。
アイスコーヒーとパンの時間にもムサボウシは出てこなかった。何してんのかしら。そうだわ、あの娘に煙草を買いに行かせよう。
そつなく買ってきたわ。ムサボウシは少し汗ばんでいたわね。走ってきたのかしら。
「ポエミさん・・」
「何よ」
「ポエミさんって、親孝行な方ですね」
私がユージンになろうとしてるのが分かったのかしら。今日はいつになく母と話したつもりよ。
クローゼットの整理をすることまで喋ったわ。クローゼットを見るとそれほど使ってないバッグがいっぱい出てきたわ。あの真っ白なバッグは買わないかも。本当に欲しい物が出てくるまで。
「あなたも覚えておいた方がいいわ。時があるって」
「時って?」
「キスケが言ってたのよ」
ムサボウシは頭を下げて去っていったわ。性格もいいようね、あの子。何で家出なんてしたのかしら。
私は良い隣人になるよう努めなければ。
「アレ、明日二人で足かけ山に運んで来て」私は昼食後に、キスケにそっと言ったわ。キスケは世界の終わりみたいな顔してたけどどうだったかしら。
今日は私は少しのことで腹を立てなかったわ。
思ってみたらこのロイズもムサボウシのようなものかもね。誰も探しに来ないもん。
私なんかと付き合ってること誰か知ってんのかしら? あわれなロイズ。
彼は死のうとして死んだんじゃないの。生きようとして死んだんだから。死にたがっていたイエスとは違うの。
私だけが彼を愛したわ。ラブベンチャーで出会う人はみんな寂しい人。誰も彼を愛しなかったわ。
私がお母さんのユージンになったら私は孤独になれるのかも。そうよ、灰色のメロディーだけになれるのよ。
そうすればまたロイズと一つになれるかも。
10月1日
朝早く二人がロイズを運び出して行ったわ。キスケが頭の方を、ムサボウシが脚を掴んで。
ムサボウシは私に顔を見せないようにしてたけど、私を怖がってたと思う。
それでもムサボウシは美しかった。柔らかい顔を触りたいくらい。
そろそろ酒が欲しいわ。
古いははしごを捨て合い/風が吹いてる。姥棄山に言い伝えられてる詩よ。
何でも、この詩を唱和しながら歩かないと自分も帰れなくなるんだって。今ごろ、二人はそうしてるかしら。ムサボウシの涙でクシャクシャになった顔を見えるようよ。
鏡で自分の顔をじっと見ている夢を見て起きたわ。夢って恐いわね。あんなに凝視することないのに。
欲しい物がなくなっちゃったから朝することがないの。13日にお母さんと買い物に行く約束を昨日の内にしたの。それもユージンの内、あと、何か買ってくるつもりよ。多分、バッグね。
私は地下室に下りていったわ。ブラフの姿を見るためにね。ブラフっていうのは地下室に閉じ込められてるおかしな女のこと。私の先祖が捕まえたらしいの。
無数のコードで体が繋がれて気を失っているみたい。ほとんど半裸よ。
先祖の話ではこの女は未来人だと言うの。タイムリープを起こすのよ。私の先祖はそれで遊びみたいなことをしていたらしいの。私はタイムリープはまだしたことないけど。
ブラフが目を覚ましたわ。腕をブラリと下げてまるでイエスみたい。
「
私はピシッとブラフの頬を打ったわ。ブラフはぶら下げられたままで薄く笑ってた。
「頭が痛い・・、スピードクイーン持ってない?・・」
「スピードクイーンって何?」
私は知ってるわ。この未来女はその薬をヤッてるのよ。ブラフの奇怪な姿に心打たれたのを気取られたらいけない。
私は胸を押さえて何度もブラフを打ったわ。
「あっ」後ろの階段で声を上げたのはキスケ。戻ってきたんだわ。この娘の世話をしているのもキスケなの。
「ポエミ様、いけません」キスケは私の体を触ったわ。
キスケが見てると、ブラフが目を見開いて歯を食いしばった。コードが揺れる。
私はそれ以上見せられずに上に上げられたけど、「どうやらあなたが気に入ったらしい」ってキスケが苦しそうに言ったわ。
「ねえ、あの女、シノワでしょ?」シノワっていうのは中国人のことよ。
「さあ、知りません」キスケはまだ苦しそうに汗を拭いて首を振った。
「ただ、昔からギフドと呼ばれていたようです」
「へえ」私はそれだけで自分の部屋に帰ったわ。少しは気持ちがスッとした。
「それはそうと、ロイズのことちゃんとしたでしょうね」って聞き忘れてた。
願いと望みとは大きな差がある。私の先祖が言い残したのか、分からないけど、彼女のことのそうよ。
ブラフの部屋、地下室にはマホガニーの机とか椅子とかが置かれてる。誰かが書斎にしていたらしいの。あんな薄暗い部屋。おめでたい話じゃない。
ブラフは禿げなの。無毛人種なのよ細い目をしてクールビューティーね。
「ブラフが逃げた」
「どうして?」
煙草を吸っているところを急き立てられて、照明が落ちた地下室に行くとブラフはもういなかったわ。
コードがブラブラ天井から垂れ下がっていたわ。主人もなしに。
「あなたが逃がしたんです」キスケは意味の分からないことを言ったわ。まるで敗北者のように膝を折って。
「あなたの手落ちなんだからちゃんとなさい。あれでもうちの財産なんだから」
キスケはフラフラと立ち上がって階段を上った。
お母さんには秘密にしとかなきゃ。初めからあんな女には無関心だから大丈夫ね。
煙草はシナモンの香り。
おお、リック。私はあなたを愛しているのよ。
おお、リック。リック。今何しているの?
ブラフはもうこの街を出てるわ。私がブラフならそうするもの。
雲が扇形に広がっている。この雲の下のどこかにブラフがいるんだわ。そんなことを、私は朝食の時間に思った。まだ母は起きてこない。
キスケもムサボウシも探しに出てないらしいの。だって、朝食の時間にいたから。私たちはロイズの話をしなかったわ。一言も。
私が食休みをしている間にキスケが洗濯物を干してる、今日はやけに多いわね。今日もキスケは野菜を買いに行くはずよ。お酒買ってきてって頼みたいとこよ。ムサボウシにやり方を教えてるわ。
多い時はこうするんだとか言ってるのかしら。ムサボウシも洗濯は初めてじゃなさそうね。多い理由が分かったわ。お母さんが夏のパジャマを出したせいなの。私の誕生日を境に空気が一変するらしいの。かく言う私も今日から冬の下着よ。お母さんが起きてきたわ。ベランダから急いでムサボウシがコーヒーを淹れに来る。
お母さんは世界の世相を嘆いているわ。この頃、朝はいつもそうなの。難しい時代になったわね。
プラスチックを口にはめ込んだみたいに吐き気がするわ。煙草の吸い過ぎかしら。狂犬病にかかった犬みたい。お酒の代わりに、炭酸水買ってきてってキスケに頼んだわ。
そういえば丸椅子はどうしたんだろうか、と気になりキッチンを覗いてみるとその隣に古びた角椅子が置いてある。二人とももういない。
雲がまるで波頭のようだ。
私の部屋にはいつも自分用のとは違うコーヒーが置いてあるの。イエス様のコーヒーよ。ロイズがいなくなると何だかガランとしちゃったわ。
今日のお昼は売っている惣菜パンだった。手を抜く理由でもあったのかしら? 美味しかったけど。
リック! リック!
私は不思議な夢を見たの。気が付いたら眠っていた。
子供の頃よく通るアベニューがあったわ。そこで、私と兄が母にぶら下がって話を聞いてるの。
母は、「お母さんね、こう思うことにしてるのよ。並木の続きが空、って」と言っていたわ。今よりずっと背が高くて素敵な時。
私はそれを後ろから見ていた。大人になった私は雲みたいに木の間に隠れてた。
それが夢だったのか、遠い昔の出来事だったのか、思い出したのか、分からないけど、気が付いたらロイズのいないベッドに寝ていた。読書をしてたのに。今感じた風の冷たささえ残ってるのに。
急に深く吸ったせいかしら。とても気分が悪い。まるで何年も吸ってなかったみたい。それにとても疲れてるの・・。
宇宙というものがどうして存在すると考えるのだろう。
10月2日
夢から覚めたら私はまた雲のようにさまよっていた。
私は家の外に出ていた。広い庭園があって・・。それは夢の中のようにもうお母さんがいなくなった後だって分かってるの。そういう設定なのよ。もうお母さんが死んでしまった後だって。
春かしら? 庭の緑を見てもそうだわ。
私はちょっと遠くまで出かけるの。そう、出かけたことのないとこまで。それは前からお母さんが「あっちは行き止まりだから」って言っていたとこよ。工事が途中で終わって、道路の下のトンネルはその先は行き止まりなはずだったの。
飛行機雲がグイグイと伸びていく。作りつけたような空。
風がぼんやり。
私はその道路の下のトンネルまで行って、そこを潜るの。そこには・・。
庭があった。チョウセンツツジや色とりどりの花、花壇、雑草としか思えないもの、じょうろなどが置かれてたわ。それを見た時、私はお母さんが秘かに手入れしていた自分だけの庭だとなぜか分かったわ。まるでこれを見せるための夢みたいに。
ずっと孤独だったのだ。私はお母さんをそう思ったわ。
戻った私は、年老いたキスケに会ったわ。芝刈り機を手に持ってた。
「ポエミ様、またタイムリープしていらっしゃったのですか、お母さまは・・」
それ以上、聞かなくても分かってた。私はその、夢から覚めた。
「キスケ」
「あ、ポエミさま、今日は一時間多く寝ていらっしゃったのですね。まだ寝てらしたから・・」
「何か起こす理由でもあったの?」
「いえ・・」
「おかしな夢を見たの」
「夢?」
「タイムリープする夢よ。ブラフのこと教えてちょうだい」
キスケの話では時を繰り返すことだって言うの。キスケも詳しいことは知らないみたいだったわ。
例えば昨日を別の自分で繰り返したり、未来もそうね、そんな感じなの。
私がタイムリープした事を話したらキスケはひどく驚いてたわ。要するに、あのシノワが逃げたからそれが止められなくなったのだろうと言ってた。
どうしようかしら。もう雲みたいになるの嫌よ。あんな未来を見るのも・・。
とにかく、最悪の下は続かないんだから。私はそう考えるようにしたわ。
夜、寝る前、何か変な事考えたわ。宇宙がどうのって、あれもこの世にとどまるものの内かしらね。時々あるのよ、自分の中に入ってくること。
ひどい肩の凝り。顔もむくんでるわ。
お母さんは夢の中でも苦しんでる。
壁に蝶が止まっている。街のライトが変わり続けていく。
今日はストレッチが終わったら母がもう起きてたわ。たまにあるのよ。朝食も一緒だった。トンネルの話はしなかったわ、一切。行こうとも思わなかった。
朝食は昨日と同じ惣菜パンの残りだった。キャラメリゼされたナッツ。青空のフィルム。
図書館の帰り、酒を買ってきた。これでしつこい肩の凝りも取れるわ。
パソコンをしていて後ろの気配に気づくと、いたのよ、幽霊が。ブラフが、私の部屋のドアの所に凭れて、じっと私を見ていた。すぐ消えてしまったけど。やっととどまるものを見たわ。
一日が永遠のように長い。酒を買ってきた初日は自棄になって飲むものよ。アル中ってそうなの。
カーテンから差し込む光が床に枕のような形を作ってたわ。
10月3日
今日が何月何日なのか分からないわ。後になってこの日記を書いてるの。
私がブラフになっていたのよ、夢の中で。いや、夢が覚めたらかな。
ブラフは古臭いゲートルを履いた男と薄暗い部屋の中で一緒だったわ。妙に顔の大きい、頭の悪そうな男。
私、黄色いパーカーを着ているの。半裸の体にそれしか羽織ってないのよ。
男が壁に凭れて座っている私ににじり寄って来たわ。
落ち着くためにお酒を一口飲んだわ。
「こんなに長く住んでるのに何でヤらせてくれないんだ?」
「頭が痛いのよ」
「頼む、ヤらせてくれ」
「うるさい、」私は短く叫んだ。「あんたみたいな化け物」ブラフは、いや、私は男を足で蹴った。
男は逆上して私の首を絞めたわ。ゴリゴリと首の骨の音がした。
「ギフド・・ギ、フ、ド・・」あぎとうように自然に口の中から出たわ。
それで夢は終わり。首をこすり私は今、これを書いてるわけ。怖かった。
空は夜になると黒なずんでいた。あそこはどこかしら。
「実は・・」キスケが重い口を開いたわ。
「ブラフの死体が発見されまして、私とムサボウシとで片付けました」
「いつのことよ、それ」
「一昨日のことです」
「それでもうタイムリープすることはないのね」
キスケは肯いた。「申し訳ありません」
「何で黙ってたの」
「取り乱されると思いまして。首の骨が折れてました」
「だってしたのよ、今日も」
キスケは慌てていたわ。私たちにはもうどうすることもできないの。きっとあの未来女がこの世に残したとどまるものなのよ。何で私ばっかり。
今度タイムリープしたら死後の世界に行くんじゃないかしら。私の目の裏にあの、お母さんのトンネルの行き止まりの庭が映った。
鉛を枕にしていたみたいだ。顔をよく洗った。これで愛し面皰も消えるはずよ。口の端の。
時計が欠け始めた頃、いわし雲が見えたわ。まるで漂流する羽のよう、光の波ね。前にロイズが言っていたことを思い出した。僕はこの世界の主人公になった気がすることがあるって。
この世界にある全ては私のために用意されたのだ。こんなによくできた世界を作ってくれたのは神様。そう言ってたわ。
この世界に私一人しかいないのじゃないかという奇跡。私も読書中にそんな気分に陥る時がある。
ベランダのクローバーが大きくなってる。これは誰の趣味で植えたのかしら。豆のように伸びている。
やっぱりお酒を飲んで横になるのが一番ね。
私が私の体を休ませてあげられる時ってそんな時だけ。
10月4日
何か上機嫌で起きた。
私は地下室にいた、ああ、やっぱりだって思った。
「頭が痛い・・、スピードクイーン持ってない?・・」ブラフは吊り下げられたままで薄ら笑いを浮かべてたっけ。
「何で助けてくれるの」
「あなたが私の来世だからよ」私はブラフの体からコードを引き抜いた。
自分でも何でこんな気持ちになったのか分からない。「楽園」を見てしまったからだろうか。
「もうすぐキスケが来るわ。うんと遠くに逃げるのよ。黄色いパーカーだけは着ちゃだめ」服を持ってきたらよかった。
ブラフのコードが次々にちぎれ、私は暗闇にじっと身を潜めていた。
間もなくキスケが来て、慌てて階段を引き返して行ったわ。
そうして私は落ち着いて階段を上ってベッドにいるわけ。こうして日記を書いて。もうタイムリープに悩まされることもないわ。
今日、原稿用紙を買ってこようと思うの。小説を書かなくっちゃ。
私の見た「楽園」、お母さんの庭がどこかにあるか本当にあるか分からない。確かめてみるのが怖いの。
私は過去を変えたいと思わない。未来もそうね。もしも神を愛しているのならそれをまるごと受け入れないと。何事にも「時がある」のよ。
それに、ブラフは代替宇宙だと思っていたわ。ブラフになった時に感じたの。タイムリープって過去に帰ることじゃないのよ。ミラクルワールド、いや違う、パラレルワールド。それに行くことだったの。
過去を変えることができなくてもパラレルワールドに行くことができれば、それがブラフの持っていた、なぜ持っていたのかは知らないけど、そういう能力だったの。
ブラフは無事に逃げたかしら。ゲートルの男に捕まってなければいいけど。
原稿用紙は誰にも秘密で買ってこようと思うの。夢は誰かに話すと叶わないから。
今日は朝食を抜いて、アイスコーヒーだけにした。
この日、朝食の時に来たのはムサボウシだった。
10月7日
しばらく日記をサボってた。小説に取り組んでたの。
見通しがついたところだからぼちぼち、この日記も再開していくわ。あれからタイムリープは起きてない。
今日は私の誕生日なの。キスケもムサボウシも私も変わりないわ。お母さんは変わったわ。
夢は忘れた頃に叶うものなのね。お母さんは地域の講習に出かけるようにするって。話し相手を探してるのかしら。いい兆候よ。
10月8日
相変わらずアル中だけど、私は元気よ。
10月9日
愛し面皰は終わったけど、今度は違う所に面皰ができちゃったわ。
頬のとこ。
10月13日
15日にお母さんがおじいちゃんおばあちゃんの所に行くことになったわ。今、施設にいるの。
その日に私は真っ白なバッグを秘密で買ってくることにしたわ。
今日は、つまんないけど、お散歩。
15日にはキスケがメンチカツを作ってくれるって。今日はどこへ行くのかしら。トンネルの向こうまで連れて行ってくれるといいけど。ムサボウシもよくやってくれてるわ。
10月15日
どこかからジングルベルが聞こえてくるわ。ほら、そりの鈴の音も。
その一画だけがクリスマスになっている街があるのよ。私は、今日、一人で行くの。
キスケもムサボウシも、もちろん、お母さんもいなくなった後でね。
・・私は罪を犯すところだった。・・ホワイトクリスマスは見れなかったけど、いいわ。真っ白いバッグは持てなかったけど。
こうなればお母さんのお喋りも五十歩百歩ね。
お母さんたらおばあちゃんに会う時はいつもセンシティヴになるの。手を触れちゃいけない部分なのよ。
いい小説を書くには心を揺さぶらないとって思ったけど違うのよね。
今頃出かけてたら私はロシアの子猫のように震えていたでしょう。
宗教の原理って約束なのよね。
いつだってリックに顔を向けられる私でいたいの。リックはどう思ってるか知らないけど。
私はただ単にあの街で誕生日ケーキのろうそくがいっぱいドサドサとゴミ箱に入れられていくところを想像したの。
作物を刈り取るのにも「時がある」ということよ。
もうすぐナイロンジャケットは革ジャンに変わる。
青色がまだらになって、お皿でできた太陽。
でしょうね、って話。
全ての出来事は部屋の中であった。
わきがと加齢臭の中であの列車を待ってたことを思い出すわ。
これからもお母さんとは無理しない程度の付き合いでいくわ。
私にとってもお母さんにとってもキスケにとってもムサボウシにとってもこの家が安住の地になったらいいわね。あなたにも無関係な話ではないのよ。
あなたの代替宇宙だったらそうなったかも知れないってこと。
神さまは誰でもそうなる可能性があった未来を用意してるわ。私は何も悪い事してないのにこうなったんだから。
じゃあ皆さん、ご機嫌よう。
キスケが陰で私を「サツジンマン」と呼んでいることは知ってるわ。
「行ってきますも言えないのか」耳のどこかに引っかかってる気がするわ。
子供の頃は小さな事で喜んでいた気がする。
遠い昔のことを思い出す。
何事にも「時がある」のよ。
「お母さんね、こう思うことにしてるのよ。並木の続きが空、って」
並木に空が続いている。
ユージン ミトン・スリーブ・ポエミ・ロゼ
楽園 森川めだか @morikawamedaka
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