はあ。

 大きなため息をついて男は立ち止まった。


「もうここまで来たのか」


 自然と声が出た。

 目の前にあるのは夢とも目標とも呼べるもの。あと一歩、たった一歩踏み出せばたどり着ける。

 ここから見るとただ茶色の少し湿った土がのぞいた道が続いているだけ。しかし男にとっては全くの別世界だった。

 それは出発した時には果てしなく遠くにあったもの。見えもしなかったし、たどり着けるなんて考えもしなかった。

 あと少しになって、なんだか感慨深い。

 少しゆっくりしよう。

 男は道端の石の上に腰を落とした。

 道の奥にはたくさんの草と花が生えていた。奥に山も見える。どこかから虫の声も聞こえてくるようだった。

 彼と同じ道を歩いているのは彼だけではない。すでに通った道にもゴールの先にもたくさんの人がいる。男より若い人も、年老いて見える人もいた。ただ男にとっての終わりがそこであるだけのこと。

 もう、立ち上がって一歩踏み出すだけで、彼は目的にたどり着ける。それは同時に彼にとっての終わりでもあった。

 目的についてしまったら、彼は目指すものがなくなる。

 着いてから考えればいいじゃないか。

 そんな簡単な話でもない。

 目的に着いた瞬間。男にとってそれは、安心とともに強い不安と恐怖を意識させるものだった。

 目的の先に男に見えるのは人影だけ。そこに道などないのだ。

 終わってしまった自分は迷うだろう。動く気力もなく、無為に時を過ごすのだろう。それがとてつもなく恐ろしい。

 思い返してみるとここまでが一瞬のようだ。山を越え、谷を越え、川を渡り、何年も何十年も歩き続けているはずなのに、まるで何もなかったかのよう。それが寂しかった。

 目的についてしまったら、私は何もかもなくしてしまうだろう。今かろうじて覚えていることも消えてしまうのだろう。

 裕福な家庭で生まれた人に、それに至るまでの苦労が分からないように。自ら努力してきたにもかかわらず、それらをすべて忘れてまるで新しい人間のようになるのだろう。

 生まれ変わり、スタート地点に立つのはよいことか。


 ふざけるな。

 男にとっては過去のほうが大切だった。どれだけ苦しくても、その記憶があることに感謝している。



 男には友人がいた。

 昔、男と同じ道を少し離れて歩んできた友だ。喜びと苦難とともに経験した友だ。共に汗を流し、励ましあい、危険に陥った時にはお互いがお互いを引っ張り上げたものだった。

 彼はすでに亡くなっていた。男にはその友人の記憶がまだ残っていた。

 友人は目的にたどり着けなかった。その分まで自分が行ってやろう。そう思った。

 そして男は必死に歩いた。だからこそたどり着くことができたのだ。彼の死がなければ成しえなかったことだ。おそらく道半ばで無様に倒れていたことだろう。

 その彼を忘れたくない。という思いとともに男には幾許かの後悔が思い起こされた。

 友人が死んでからただひたすらにまっすぐ歩き続けた彼は、寄り道などしたことはなかった。

 歩くことに夢中で、今のように道端の石に腰かけてみたこともない。

 晴れの日も、雨の日も、夏も冬も、ただひたすらに歩き続けた。

 背中に照り付ける日差しの暑さ、耳をたたく風と雨の音、その感触、流れ落ちる汗も、皮膚に触れる雪の冷たさも、男に残っているそれらの記憶はすべて友人が亡くなる前に歩いていた道のものだ。

 それ以降の記憶はない。ただ歩いたという事実しかないのだ。

 超えた山も谷も何も思い出せない。草の色や花の色もすべてが真っ黒だ。

 座ったまま、ゆっくり瞼を閉じ、耳を澄ます。

 草の間を走り抜ける風の音はいつぶりか。

 男はふと思った。

 これで意味があるのだろうか。

 何も覚えていない。ただ事実があるだけ。

 そんな、友人が死んでからの道のりは、これから自分が目的に着いてから思い返す今とまるで同じではないか。


 つまらない。

 これでは歩いてきた意味など会いに等しいではないか。きっとそんなことはないのだろう。そんなことはないはずだ。きちんと意味はある。でも、男にはそれが分からなかった。

 そして男は初めて友人を恨めしく思った。少しだけ、ほんの少しだけ。

 これまでは哀れに思ったことしかなかった。今では道半ばに倒れた彼をうらやましく思うほどだった。

 きっと彼は満足していたのだろう。充実した人生に満足して死んでいったのだろう。

 自分より何倍もいい人生ではないか。

 私も、そうなりたい。

 目的につかなくったっていい。むしろ、すべて忘れてしまうくらいなら、忘れないまますべてを満喫したほうが得ではないか。

 目的がなくったって、情報はあふれているのだ。目的だけが喜びではない。


「戻ろう」


 来た道を引き返し、成しえなかった、取り逃がしたものを拾い集めよう。終わりなんてつまらない。完成なんてもったいない。一秒ひとつたりとも無駄にしたくない。

 そう思って老人は立ち上がった。

 彼の瞳にはこれまでとは全く異なった色の光が灯っていた。

 足で体をまっすぐ支え、天に向かってまっすぐ立っていた。男は砦のようだった。

 道行く人のいくらかが彼に視線を投げかける。

 そうだ。自分なんかに集中するな。まわりを見る事こそ大事なのだ。

 男は彼らに心の中で言葉を贈る。伝わりはしない。ただこの行動は男にとってはなくてはならないものだった。彼の記憶に刻み付けられるものだった。

 そして男は踵を返した。

 目の前には鮮やかな草原が広がっている。

 道などなかったのだ。ただの錯覚だ。

 男は胸を躍らせた。

 一歩。

 足を踏み出す。土を踏みつける足の感触。


 そこで彼の寿命は尽きた。

 ふっ。ろうそくの火を吹き消すように静かに、道から男はいなくなった。






     【了】

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短編集「わたない」 譜錯-fusaku- @minus-saku825

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