第5話 プルサティア・カヌア
長い間、アールグレイのティーバッグをつけていたマグカップには、赤黒い液体がほとんど冷めた状態で残っている。
「しぶい……」
一口飲むと、深い渋みのある酸味が口内を覆った。デスクの上にカップを置く。デスクには、積まれた書類と自己啓発本、軟膏薬、爪切り、昨日使ったヘアブラシ、今年の始めに買った日記帳、一か月ぐらい中身を入れてない水筒。「断捨離のコツ!」と大々的に描かれた本は恐らく一ページも開かれないままこの中に埋もれている。
大学近くにあるアパートの二階、その一室に私は住んでいる。部屋は暗く、カチカチとなる時計の音がやけに鼓膜を震わせる。時刻は午前十一時を指していた。
カーテン越しに聞こえてくる雨の音。ここ数日は雨続きだ。テレビをつけると長い梅雨前線が日本列島を覆っていた。
無機質なキャスターの声を聴きながら、何気なくトイレに向かう。便座に腰掛けて、ぼーっとしながら壁にできた黒カビの数を数えている。
唸るような水音を後に、私は部屋の明かりをつけ、デスクの前に座った。散乱したものを適当に端に押しのける。埋もれていたパソコンを見つけ、起動した。
ウヴン……。静かにパソコンは唸り、青白い光を放ち始める。すぐさま就活サイトへログイン。そこにはまだ開いていないお祈りメールが数件たまっている。画面をスクロールしながら、渋いアールグレイを口に含んだ。
携帯に着信。彼氏からだ。
『今日、会えそう?』
『会いたい』
それだけ返信して、私はパソコンを閉じた。急いで外出の準備をして、彼の家へ向かう。
雨の中を私は赤い傘を差して歩く。通り抜けていく自動車、スーツ姿の女性、雨具を着て走っていく自転車、青い長靴を履いて走り去っていく子供たち……。
彼に会うのも久しぶりだ。しばらくは私も就活で、他人と関わることが難しかった。まだ就活は続いてはいるけれど、もうそのモチベーションも底を尽きかけている。
彼氏の家に着く。緑色の階段が特徴的なマンションの一階の角部屋。
「雨の中、悪いね」
玄関から顔を出した彼は、少し肩の濡れた私を見てそう言った。
「お邪魔します」
私は彼の香りのする部屋に足を踏み入れる。彼の机の上にもパソコンと書類が置かれていた。カーテンレールにはくたびれたスーツが掛けてある。
「はい、お茶」
「ありがとう」
床に敷かれた座布団に腰掛けると、麦茶の入ったグラスを差し出された。私はそれを自然と受け取る。口に含むと水出し茶の淡い味がした。彼は先ほどまでそうしていたかのように、机に向かいパソコンを触り始める。
「少し手伝って欲しいことがあって」
彼はパソコンの画面を私に見せた。そこには電子申請用の画面が表示されていて、彼の個人情報がだらだらと綴られている。
本名の欄を見て、彼の苗字を初めて漢字で見たような気がした。いつも下の名前で呼んでいるからか、彼の苗字は私の持っている印象とはかけ離れた文字のように見える。
「ここなんだけど……」
彼が指さした項目は「他人からの印象・イメージ・言われたこと」というものだった。私も何度か願書を提出するときに書いたことがある。私もこの空欄を埋めることに苦労した記憶があった。
他者から見られている、自分像。
「俺って、どんな感じかな?」
私は彼の顔を見てから、再び画面に向き直る。想像する彼のイメージ。私に優しいこと、私を好きでいてくれること、私に関わっていてくれること、私より先に寝てしまわないこと、私より勉強も運動もできること、私の苦手な白菜の芯を食べてくれること……。
そこで一旦、思考を区切る。
「え、と、頼りがいがある?」
『頼りがいがある』と彼は真面目に空欄に書き込んでいく。「他には?」と聞かれ、私は答えを並べていく。
「優しい、というか気づかいができる」
「あと、文武両道、とか」
「好き嫌いがない」
「一緒にいて、楽しい? とか?」
しばらくして、彼の空欄は謎の文字列で埋まってしまった。そこにある文字列を読んでみても彼がどんな人なのか、私にはわからない。私は、彼を知っているのに。
「これで提出できるよ。ありがとう」
彼は一仕事終えた顔をして、『送信』をクリックする。そして、私にキスをした。そのまま吸い込まれるように私たちは白いマットの上に身を任す。
私は彼に蹂躙される。意識は朦朧として、下腹部には鈍い痺れが残り、全身に力が入らない。頭は彼が行為中に囁いた甘い言葉で埋め尽くされている。
ベッドにうずくまるように横になる私の隣で、彼はジッポライターで煙草に火をつけた。火をつけた一瞬、彼の横顔が揺れ動くように照らされる。また一仕事を終えたような気だるい表情をしていた彼は、スーツの掛けてある部屋でためらいもなく煙を吐いた。
彼が隣にいるはずなのに、私の心も肌も冷めきっていた。
「シャワー借りるね」
「うん」
足腰に力が入るようになって、私はベッドから降りた。彼はぼんやりとしたまま煙草を吸っている。その先端の鈍く光る赤黄色の火種が、やがて色褪せては暗闇に落ちていった。
シャワーを浴びながら、私はぼんやりと浴槽の赤カビを見つめている。彼は本当に私を好きでいてくれるのだろうか。これまで何度も自問自答した問いが頭の中を駆け巡る。そして、私は本当に彼のことを愛しているのだろうか。
私は静かに空っぽの浴槽に座り込み、微かな嗚咽と共に胃酸を排水口に向かって吐き出した。
「じゃあ、帰るね」
「うん。ありがとう。助かったよ」
服を着終わった私は、床に置いた荷物を取り、玄関へ向かう。靴を履き、扉を開ける前に私は振り返って彼に聞いた。
「ねぇ、私ってどんなイメージ?」
「え、あー、一緒にいて楽、かな」
私は笑顔のまま玄関を閉めた。
帰りもまだ雨が降っていた。来たときよりも薄暗い道を進んでいく。向かいから走ってくる二つ目のライトを照らす車の中に、仲の良さそうな男女が乗っているのが見えた。彼らは本当に愛し合っているのだろうか。自分のことのように、その答えは見つからない。車のバックウインドウ越しの彼らの後頭部を見つめる。すぐに彼らは見えなくなってしまったけれど、助手席の女性が運転席の男性に顔を向けて笑ったのが見えた。
ふと視線を正面に戻すと、そこにはもう一人の彼氏が傘を差して立っている。
「やぁ」
彼は如何にも自然そうに挨拶した。私は赤い傘を折りたたんで、彼の大きな黒い傘に包まれる。傘の下で、私たちは手を握る。彼の手は温かく、柔らかく、大きかった。冷たい雨に右肩が少し晒されているのに、不思議と心も肌も温かい。
私は家へ向かいながら彼に話をした。さっきまで会っていた彼氏のイメージについて。ただ思考を区切った後だけの部分を。明確に、詳細に。
彼は何も言わずに、ただその言葉の羅列を聞いていた。
私の家に着くと、私は彼を家の中へ招いた。散らかった部屋を見て、彼はまた何も言わなかった。そして、微かに「大丈夫だよ」と伝えるような天使の笑みをする。それだけで、私は大丈夫だと思えた。
「ちょっと手伝ってほしいことがあるの」
私はパソコンの画面を見せる。そこには「周囲の人からどんな人だと言われますか」という質問の空欄。彼は私の隣で机に手を置き、私のことを述べていく。
空欄が彼の言葉で次々と埋まっていく。そこにある文字が私を表しているものだと、私には信じられないけれど、でも彼の言葉そのものは信用することができてしまう。
彼は私よりも私を知っている。そして、埋まった空欄に書き込まれた文字は、私を形成している一部なのだと、不思議と実感することができた。
「ありがとう。助かったわ。ちょっと休憩しない?」
私は言い、自然な形で彼をベッドへ誘導する。彼はベッドに腰掛けるところまでは従順だった。けれど、私が彼と一緒に寝ようとしたとき、彼はやんわりとそれを拒否した。
「君は、少し欲張りすぎるね」
彼は一歩引いた紳士のように微笑んだ。私はにんまり笑った。そこから彼がアールグレイを入れて、夜のドラマを見ながら紅茶と賞味期限の切れたスナック菓子を楽しんだ。
「じゃあ、そろそろお暇するよ」
「今日はありがとう」
またね、とお互いに言い合って、彼は玄関を閉めていった。
独り部屋に戻ってパソコンに向かった。まだ提出していない願書を開く。彼の言葉で埋め尽くされた「周囲からどんな人だと言われますか」の欄をデリートして、『一緒にいて楽、欲張り』と書き込んだ。
私はそのまま『送信』をクリックする。
外はまだ雨が降り続いている。ベランダに繋がる窓を少し開けると、涼しげな雨の匂いがした。ベランダには数年間の間、取り込み忘れたタオルが濁った色で雨に濡れている。
ゆっくりと窓を閉める。部屋の中にあった彼の匂いは薄れて、部屋も雨色の香りが漂っていた。誰もいない、と直感的に感じる。
来年になれば、ここも誰か別の人の部屋になる。
そして、私は、誰のものになる?
私は何になる?
ここに私は、いない。そんな気がした。
何故か目元が潤んでしまう。何もないのに、何も起きていないのに。
夜遅くにごめん、と母親に電話をかける。要領を得ない内容をただただ垂れ流すように話した。今まであったことを全て、今の状態も、何もかも。母親は心配するような気配は感じさせず、「うん」「はいはい」と相槌を打っている。
最後に母親は、『あんたの人生だし、好きに生きたらいいよ』と言って電話を切った。
「好きに生きるって何よ?」
私が問いかけても、電話は既に事切れている。
スーツを着て、面接に行く。可愛げのない面接官の相手をして、帰りの電車に揺られている。電車を降りて改札を抜けようとすると、キャリーカートを持ったおばあちゃんが私を呼び留めた。
「ちょっと、大阪へ行きたいんやけど、どこに行ったらええかな」
周りの人々が改札を抜けていく中、私とおばあちゃんだけが止まったままだった。
「こっちですよ」
私は何故かおばあちゃんの先を歩き、駅のホームまで案内している。駅で初めてエレベーターを使った。
「次の電車がきたら乗って下さい。大阪まで行きますよ」
「ありがとね。これあげる」
おばあちゃんはしわくちゃの顔をさらにしわくちゃにして、飴玉を私の手の平に置いた。私はその時、驚いて手の平の飴玉を凝視する。思いがけない報酬だった。
私は飴玉を口の中で転がしながら、おばあちゃんが電車に乗るまで見守った。
「あんたは、優しい子だね」
電車が来て、おばあちゃんはそう言った。おばあちゃんが最後、少しこちらを振り向いて、小さく会釈する。プルルルルと音がして、電車が走り去っていく。
その瞬間、私は独りになる。でも、口の中に残る飴玉が鮮明に甘い。
私が、確かにこの場にいたことを証明するかのように。
私が、何者であるかなど、どうでもいいことかのように。
彼女たち、あるいは彼女の可憐な日常 チャガマ @tyagama-444
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