第4話 春の蕾

 三月十六日。午後五時二十四分。ハンバーガー屋の二階席。


 窓際にある二人掛けの席に、私は一人で座っていた。緑色のトレーには、春の新作フロートが乗っている。携帯で写真を撮り、誰に見せるでもなく無難な言葉を添えてインスタに投稿した。


 春の新作フロート、チラシには『春の味』というフレーズが使われている。透明なプラスチック容器の中に、氷と薄ピンクの液体、その上には白い雲のようなアイスクリームがすっぽりと乗っていた。

 その冷えた液体を口に含む。甘くて薄い味。そしてほんのちょっぴり匂うサクラの香り。


 鞄から就活用のノートを取り出す。そこには、今日キャリアセンターで受けてきたアドバイスが殴り書きされている。自分の長所、短所、志望動機、ガクチカ……。

 またこれらの情報を整理して、エントリーシートに書き込んでいかなくてはならない。


 ため息をついて、パタンとノートを閉じた。

 窓の外に目を向ける。夕日が山際に倒れかけて、町全体に影を落としていた。忙しなく動く自動車や人々の流れ。全体的に薄暗い風景の中で、一番星のように光輝いているのはコインランドリーの看板だけだった。


 私は夕日の沈みゆく山の向こうを見て、彼氏に会いたいと思った。彼は地元に帰省していて、今は会うことが出来ない。いつもならすぐに彼の下宿に向かって、彼に色々と話を聞いてもらうのに。キャリアセンターの職員がやたら上から目線で私のことを決めつけてくることや、私の本当の長所や短所、素晴らしいところやドジなところ……。

 話したいことは泡のように湧いてきては、霞のようにぼやけていく。


「あれ、久しぶり」


 急に話しかけられて、びっくりしながら声の方を向く。そこにはスタッフの服を着た男性が立っていた。整った顔立ちと、柔和なその笑顔には見覚えがある。


「園山くん、ここでバイトしてたんだ」


 彼は大学で同じゼミにいる同期の一人。いつも笑顔で前向き、というのが彼の印象だ。

「ブラインドをおさげしましょうか」

 

 彼は接客とは思えない自然な笑顔でそう言った。


「うん。ありがとう」


 彼の手によって、薄茶色のブラインドがおろされ、窓の風景が覆い隠される。

 その時、私は急に園山くんと話をしたい欲望に襲われた。彼がそのまま私の向かいの席に座り、その温かな眼差しで私の話を聞いていて欲しい。そう思わずにはいられない感情が胸の内から湧き上がってきた。


「じゃあ、また」


 でも彼は私にそう一言告げ、仕事に戻ってしまう。そして、別の窓際の席のお客さんにも私と同じような対応をして回っていく。


 私は新作フロートに再び口をつけた。甘くて薄っぺらな味。


 窓側に目を向けても、その先の景色はブラインドに隠されたまま。わずかに透けてくる夕日の明かりが、ぼんやりと私まわりを漂っている。

がやがやと騒がしい店内の人々。前のテーブルに座っているスーツ姿の中年男性は彼の申し出を断って、微かな朱色の光を浴びながら携帯に視線を落としている。


 就活ノートをもう一度開く。そこには数々のアドバイスや自分自身のことが書き込まれている。自分が何者なのか、わからないまま。


 私の友達は、すでに何社もエントリーをして面接に行っている。最近は会えていないけれど、彼女たちには居場所が約束されているのかもしれない。そして、スーツを脱ぎ捨てた身軽な姿になって何処かへ遊びに行っているのかもしれない。


 そっとノートを閉じて鞄にしまう。園山くんが私のそばをさっと通りかかって、別のお客さんの元へトレーを運んでいた。お客さんに礼をして、振り返った彼と目が合う。彼は確かな微笑みを私に投げかけて、また仕事へ戻っていった。


 春の新作フロート。すでに氷が解け始めて、その味は水のように無味に感じた。上に乗っているアイスクリームだけが口に運ばれてくる。甘い、ミルクと砂糖の味。

でも、ほんのちょっぴり、春の味が沁みている。


 これを飲み切るまでは本を読んで過ごそう。そう思い鞄から本を取り出す。ダブッキの『インド夜想曲』。主人公が弟を探しにインドを転々とする話。あてのないような異国の旅なのに、何故か感じてしまう抱擁のような安らかさ。気がつけば、フロートの鮮やかな液体はなくなり、溶けたクリームが底に溜まっている。


 携帯を見ると、もう六時になっていた。私は席を立って、トレーを返却台へ戻す。園山くんではない誰かが、「ありがとうございました」と遠くから私へ声をかけた。控えめな会釈を返して、店を出る。


 外は肌寒い風が吹いていた。夕日は山にほとんど隠れてしまい、辺りはいよいよ夜に包まれようとしている。

 歩道をゆく人々も、車道を走る車たちも、誰も彼もが忙しなく動いている。その中でただ一つ、月のように光輝いているコインランドリーの看板。私はその何の変哲もない看板にしばらくの間、目を奪われてしまった。

あの看板ですら、自分が何者であるかを知っている。


 店の自動ドアの前に立ち尽くしてしまったことに気が付いて、慌てて早足でその場を去る。幸い、周りの人々は私のことなど見ていなかった。

 だから、私の眼尻には零れない一粒の雫が残っている。


 店のすぐそばにある神社に花見の立て札が出ていた。もうすぐ本当に春が来る。

その時、私は何者かになれているのだろうか。

 

 空を見上げると、白い月が色を持ち始めていた。太陽はすっぽりと山の影に沈み、私たちは夜の時間に覆われる。昼間よりも風が一層寒く感じた。


 一人の下宿に戻ろうとして、足を止める。

 誰もいない薄暗い部屋が恐かった。

 干したままの洗濯物が恐かった。

 微妙に散らかったままの生活感のある部屋に落ちた長い自分の髪の毛が恐かった。

 書きかけのエントリーシートが恐かった。

 窓側の道を歩く人々の無邪気な笑い声が恐かった。

 温もりのないベッドに身を任せなければいけない夜が恐かった。

 電話をすれば彼氏は飛んで戻って来てくれるだろうか。私は静かに携帯を握り込む。でも、私は携帯をそのまま鞄にしまった。


 少し進むと丁度信号が赤に変わった。

「お疲れ様」


 急に声をかけられて振り返ると、自転車に乗った私服姿の園山くんがいた。


「お疲れ様。もうバイト終わったんだ」

「そう。六時までだったから」


 二人で信号が青に変わるのを待った。信号が青になる。


「ねぇ、もしよかったらご飯でもどう?」


 彼は少しぎこちなく言った。


「いいよ」


 私はすぐに答えた。

 そして、二人で横断歩道を渡った。

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