第3話 泡沫

「水族館に行かない?」


 彼氏とのデート中。夕暮れ前に勇気を出して提案した。彼は少し驚いたような表情を浮かべている。

 彼は腕時計をちらりと見て、


「いいよ。すぐ行こう」


 そう言って、水族館へ足を向けた。水族館に着いた頃には太陽も山に沈んで、柔らかく波打つ照明が水族館を照らしている。

 夜に沈んだ水族館は、揺れる水の音の方がよく聞こえるほど、ひっそりとした囁きに満ちている。周りのお客さんは若いカップルばかりで、私たちもその一組だった。


「ほら、これオオサンショウウオだって。いっぱい重なってんの」


 彼が指さしたガラスケースには、端の岩場に十匹近いオオサンショウウオが互い

にのしかかるように重なっていた。彼らは、長く太い身体に短い手足と大きな口、そして頭の方にチョコチップのようなキュートな瞳が二つある。


「ほんと、家族みたいね」


 オオサンショウウオたちは私たちの視線に目もくれず、わずかに波打つ水にさえ動じない。ただ不思議な群れを成して、お互いに体を任せている。


「こっちは独りみたい」


 彼がまた別の水槽を指して言った。その中には先ほどよりも黒く、ややグロテスクな凹凸を肌に持ったオオサンショウウオがじっとしている。一匹の体がきっちりと収まる大きさの水槽に彼は独り、ぬっとして佇んでいた。


「この子はどうして独りなの?」

「どうやら、この子は日本産の生き残りらしい」


 生き残り。彼の言葉を聞いて、私はその凹凸のある澱んだ肌の色が、歴戦の黒甲冑のように思えた。私はマスクの上から、口元にできてしまったニキビを撫でる。


「じゃあ、さっきの子たちは?」

「どこか別のところから来たみたいだ」


 彼らの大きな水槽に再び目を向ける。そこには呑気に体を預け合ったオオサンショウウオたちが、のっぺりとした茶色の肌を見せている。

 独りの彼を見た。水の音が静かに聞こえる。彼の堂々とも寂寥ともとれる佇まい。周囲のひそひそ声もぼんやりと遠ざかって、歴戦のオオサンショウウオの密かな内面に引き込まれていく。そして、私のささやかな心と同化する。


 水槽の中で、独りの彼。


「ねぇ、次行こうよ」


 彼氏に声をかけられて、私は水槽からゆっくりと目を離した。周りの囁きが耳に戻ってくる。気がつけば横縞模様のペアルックを着たカップルが、私がその場を動くのを待っていた。


「すみません」


 少し会釈をして、私は彼についていく。独りの彼の前に立ったカップルが、私たちと同じような会話をしている。でも、幸せそうな彼らにはきっと彼の気持ちなんてわからない。

 彼氏は上の階へ行こうと、指で階段を指し示した。


「上の階にペンギンがいるんだって」

「ペンギン?」

「そう。ペンギンの家族たち」


 彼のあとについて階段を登っていく。暗い青にライトアップされた水槽。その中に白い水泡を浮かべながら一匹のペンギンが滑り込んできた。


「あ、入ってきたよ」


 ペンギンは水槽の奥の方を滑らかに宙返りして、私たちの目の前を鮮やかに旋回していく。青暗いライトが波によって眩く閃く。まるで空を飛ぶようにしばらく自由に回遊して、陸地へと上がって行った。


「すごいファンサービスだ」

「とてもきれいだったわ」


 私たちは視線も合わせずに囁き合う。隣にいたカップルたちは、携帯を片手にカメラを水槽に向けている。私たちの後ろに並ぶカップルはお互いの手を絡ませたまま、私と彼の隙間から水槽を覗き込んでいた。


 水槽の隣にはペンギンたちの恋愛関係図が壁一面に描かれている。その内容は波乱と修羅場が入り乱れた数十匹のペンギンによる恋愛暦だった。振られたオスが別の番いのメスを娶り、そのメスが元のオスに戻ることはなくまた他のオスを擦り寄っている。円満なカップルはほとんどいない。オス同士で惹かれ合うものや飼育員に恋するペンギン、三股四股、近親相姦しているものさえいる。


「ペンギンたちの恋愛も大変だね」

「ほんとうに、そうね」


 ほんとうに。


 野外スペースに出ると水槽の上の部分を眺めることができた。先ほどの水槽を囲むように陸地が作られていて、彼らは各々の巣の近くに二人組で寄り添うように集まっている。まだ寒さの残る三月の夜に、互いが互いに温め合うような優しい光景がそこにはあった。


 私の視線は自然と彼を見る。彼の視線はペンギンたちの方を向いて離れない。彼の少し骨ばった手。私はまだその手の温もりを感じたことがない。

 横縞のペアルックを着ていたカップルが手を繋いで私たちの後ろを通り過ぎる。

お揃いも、したことないね。そう思って彼を見る。彼は腕時計に目を落としている。


「次、行こうか」


 彼はそう言うだけ。私の方も向かずに、少し前を歩いてしまう。私の冷たい手は、今も太腿の辺りの空気を掴んでいる。


 最上階へ着くと穏やかな笑顔をした男女がぞろぞろと流れてきた。最上階の野外で行われていたイルカショーは、少し前に終わってしまったらしい。


「もう少し早めに来れたら良かったね」

「ううん。大丈夫」


 明るい照明の中で、水槽の中のチンアナゴたちが私たちを見つめている。グッズコーナーにはオオサンショウウオのぬいぐるみから、お菓子、文房具、キーホルダーなどが並んでいた。


 私はキーホルダーのコーナーを見つめていた。その中にピンクとブルーの番になっているイルカのキーホルダーが目に入る。手に触れて、これが私たちの携帯についていることを想像する。


 私はそっと手のうちに隠すように持って、レジへ向かった。彼はオオサンショウウオのぬいぐるみタワーを眺めている。


「ありがとうございました」


 白い梱包に包まれた二匹のイルカたちが、初めてのお揃いだね、と私の頭の中で囁いた。そして、私たちはすんなりと水族館を出てしまった。


「楽しかったね」


 なんて二人で笑顔を作って、駅に向かった。その途中、


「あのさ、実はホテル予約してあって……」

「え?」


 彼は照れた表情で、私の目を今日初めて見た。そして、初めて手を握られる。彼の冷たい手の平が私の手の平に吸い付いた。ゆっくりと身体は彼の元に引き寄せられて、私たちはホテルのある路地へ入って行く。


「すみません。少し遅れてしまいまして……」


 彼がホテルへのチェックインを済ませる間、私はロビーのソファに座っている。私は何故こんな所にいるんだろうと思う。ここは私のいる場所じゃない、と思ってしまう。


「鍵、貰ってきたよ」


 彼と一緒にエレベーターに乗り、廊下を渡り、部屋に入る。丁寧に整えられた、清潔感のある一室。彼に背を優しく押され、私は部屋のベッドに腰掛けた。これからどうなるのか、わかっているけれど、私は混乱していた。


 気がつけば、私はシャワーを浴びている。水の音がする。温かい、肌を撫でる水滴。口元にあるニキビに触れる。この痒みを、私は消してしまいたい。

身体を拭き、添えられていた服を着る。マスクをしたいと思いながら、付けずにいた。部屋に戻ると彼がベッドに腰掛けて待っている。


 私が彼の隣に座ると、彼は私の背に手を当てて、ゆったりと身体をベッドに倒した。彼は私の上に覆いかぶさるように四つん這いになり、濡れた肌を露出させている。首元から香る煙草の匂い。


 静かにゴムをつける音がした。

 彼は私に身を任せるように重なった。私の身体は思ったよりも簡単に彼を受け入る。それとは反対に、私の胸と下腹部は痛みを伴って、全身に振動が響く。

 

 のっぺりしたオオサンショウウオの群れが頭をよぎる。彼の身体はぴったりと私に重なって、私は彼の顔を見ることができない。私は少しわざとらしく声を出した。彼の動きが変わる。


 のっぺりとしたオオサンショウウオたちと、独りの彼が一緒に居られない理由がわかった気がした。肌が吸い付いて離れていく音、暗闇に漏れる微かな吐息、度々肌をこする髪の毛のこそばゆい感触。


 私の中にある、このどうしようもない、冷めた温もり。

 彼は少し起き上がり、私の手を押しつけるように握った。彼の手の平が熱い。そして、彼はまた動き出す。彼と繋がっていられること。それが嬉しいのか、悲しいのか。私には分からない。


 彼への愛情が泡のように湧いては消えていく。


 引く手あまたのメスペンギンのことを思い出す。あの恋愛相関図のどこかに私はいる。私は今後、彼以外の誰かと繋がるのだろうか。彼は他の誰かと繋がるのだろうか。


 彼が私を抱きしめる。私はほぼ無意識のうちに彼の背に手を回した。

 彼は私の中で初めてを迎え、私は静かな痙攣を下腹部に感じた。力尽きたように彼は私と密着する。これでもう、二度と離れないようにしたい。このまま、ずっとのっぺりとしたオオサンショウウオのままで。ぬるくてぼやけたシアワセだけで。


 それでも私は、口元のニキビを潰せずにいる。


 そのまま彼は隣で静かに眠りに入った。この白いベッドの上で、私たちはもう永遠に離れないかのように隣り合っている。そして、白い梱包の中のイルカたちも、別れることはないかのように、私の鞄の中で静かに寝息を立てていた。

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