1-2

 境界線のすぐ手前にある廃ビルの一室から、シグレは窓の外を見下ろしていた。

 視線の先には、例の少年が通行人に紛れて立っている。

 そこは既に北陸区だ。

 敵方もすぐ侵入者の存在に気づくだろう。

 報告では、少年は京都方面から東海区に侵入したとされている。

 同じ一味である可能性も十分に考えられるが、いずれにしても東海区には今すぐ北陸区を叩く戦力は無かった。

 負傷者を一人送りつけたところで、大した影響は無いだろうという判断である。

「さて、高みの見物といくか」

 シグレはそう言って、左手のひらを上に向ける。

 そこに、どこからともなく拳銃のマガジンが現れた。

 造作もなくリロードを終えた頃、ちょうど窓の外に動きがあった。

 球体のような黒いフルフェイスヘルメットを被った男が、向かいのビルの屋上に立っている。

「あれは……シエンか」

 シグレがその名を呟く。

「悪しき略奪者よ! 偉大なる神々の御力、今こそ返還してもらうぞ!」

 芝居掛かった大声が、辺り一帯に響き渡った。

「声でけえし頭わるそ」

 シグレは呆れつつも、窓際の壁に背を向けて臨戦態勢を取っている。

 少年も足を止めて声の主を見ていた。

 その直後のことである。

「群生の実行権限を行使する!」

 シエンの高らかな声と共に、背後から黒い煙のようなものが上がった。

 煙は瞬く間に上空に広がっていき、辺りに薄暗い影を落とした。

 否、それは煙ではない。

 スズメバチの大群である。

 走り出す少年。

 その背後からおびただしい数の蜂が襲いかかる。

 少年は腕でそれを振り払おうとするが、群れの勢いは増すばかりだ。

「これが神の怒りだ!」

 遥か頭上からはシエンの声。

 少年は飲食店の窓ガラスを突き破って中に逃げ込む。

 だが蜂の大群もそれに続いて店内に流れ込んでくる。

 絶叫する客に構うことなく、蜂は少年のみを執拗に追い続けていた。

 少年は調理場にあった鍋を持ち上げて熱湯をぶち撒けるが、群れを全滅させるには到底至らない。

 それどころか、新たな蜂が押し寄せるように店内へと入ってくる。

 やむを得ず、少年は再び外へと逃げた。


「頑張るなあ、少年A」

 シグレは少年が逃げ続ける様子を見下ろしている。

「さてどう動くか。今からライフルを持ち出したんじゃ探知されるリスクが大きすぎるし、そもそも本人を倒した後に蜂がこっちに向かってこない保証も無いぞ。防護服と火炎放射器も用意するか…………」

 熟考しているうちに、シグレは少年を見失っていた。

「ん、どこ行った。また立て籠もりか?」

 そうではなかった。

 少年が現れたのは、ビルの屋上。

 シエンがいる隣の建物だが、高さはやや低い。

 飛び移ることは明らかに不可能な距離だった。

「まだ抗うか、略奪者よ!」

 シエンの怒号が響き渡る。

 少年の周囲にはスズメバチの群れ。

 もはや絶体絶命に思えた。

 直後、シエンはヘルメットの奥で目を見開く。

 少年は、地に伏せていた。

 両手を突き、片膝を突き、顔をシエンに向けるその姿勢は、まるで許しを請うているようだった。

「よろしい! 死を以て償え!」

 シエンの声と共に、蜂が一斉に少年へと襲いかかる。

 その時、少年は初めて口を開いた。

「引力の実行権限を行使する」

 少年が持つのは引力のコード。

 それは文字通り、万物の引力を司る力である。

 地球の重力から解き放たれた少年は、己を見下ろす一人の敵に向かって高速落下した。

 その勢いはまるで、大砲から射出された砲弾だった。

 恐るべき威力の飛び蹴りを腹部に受けたシエンは、叫び声と共にビルから落ちていく。

 それを見下ろす少年も、既に限界に近い様子だった。

 後頭部に拳銃を突きつけられるまで、彼女の存在に気づけなかったのだから。

「少しでもおかしな真似したらゼロ距離でぶち込むからな」

 銃口を少年に押し付けながらシグレは言った。

「お前をこのまま東海区に連行する。その前に名前くらいは聞いておこうか」

「…………ムラクモだ」

 抑揚のない声で、少年は言った。

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