第2話
ビクリと体が震える。
何事かと思えば、そっちか。
なんだ。
私に用があるんじゃなくて、やっぱりおじいちゃんの方だった。
すらりとした身長に端正な顔立ちと立ち居振る舞いから、悪ぶってはいても育ちの良さは隠しきれていない。
代々続く名家の血統を受け継ぎ、名実ともにお坊ちゃま中のお坊ちゃまである彼が、じっと見下ろす。
なんだ。
仕事でとんでもないミスを犯して、叱りつけに来たのかと思った。
なんだ。
でもよかった。
私は気合いを入れ直し、過去最大級の対外用防衛スマイルを放出する。
「えーっと。申し訳ございません。お話が全く見えないのですが……」
「俺の顔が分からないって、本気か?」
彼の後ろで、うちの部長が何事かとおろおろ慌てふためいている。
メディアへの露出もそれなりにある、経済界ではそこそこ名のあるCMOだ。
「いえ、佐山CMOのことは存じ上げておりますが、社外のことはちょっと分かりかねます」
「あっそう。土曜日の恨みは、もうすっかり忘れたっていうわけですか?」
彼はニヤリといたずらな笑みを浮かべた。
確かに会場でこの人を見かけたけど、わずかに目があったくらいだ。
それなのにわざわざオフィスまで足を運んで来るほど、私のことを以前から知っていたとは思えない。
そりゃあオークショニアたちの間で私の素性はバレてるし、おじいちゃんの作品を買い集めようとして連敗続きなのが、業界では有名だって知ってる。
それでも個人情報をもらすほど、迂闊で信用のない人たちではない。
なのにどうして……。
「不思議そうな顔をしているね。どうして分かったのかって? まぁ、そんな話しも色々としたいから、俺の名刺を渡しておくよ」
そう言うと彼は、勝手に私の机に名刺を置いた。
「今日は直接会って、本当にあの会場にいた本人かどうかを、確かめたかっただけなんだ。また後で連絡する。その時にはちゃんと、連絡に応じるように」
パチリと軽薄なウインクを残し、足早に立ち去っていく。
なんて自由な人だ。
確か私より6つは年上の32くらいだったはず。
しかし彼のそんな行動が、職場の人たちにどれだけ巨大な猜疑心と好奇心を残し、どれだけ多大な迷惑を私にかけているのか、きっと一生気づきもしなければ考えもしないタイプなのだろう。
「えー! 三上さん、どういうことなんですかぁ! 佐山CMOと知り合いだったなんて!」
「その名刺、私に下さい! いや、画像撮らせて下さい!」
彼の姿が見えなくなったとたん、あっという間に囲まれてしまった。
困った。
ようやく手に入れた平穏で穏やかな日々を失いたくない。
高校までの間は、いつだって「芸術家三上恭平の孫」としか見られなかった。
それにふさわしい人間になろうとして、なれなかった。
近所の噂話なんて、どれもこれも聞き飽きた。
大学に入ってからは、たった一人で生きていくために、とにかく勉強していい会社に入ることしか考えていなかった。
社会人になって、ようやく「私」のことを誰も知らない人たちに囲まれて、生まれ変われた気がしていたのに。
「私」は初めて「自分」になれたのに。
それを今更壊されたくない。
「いや。この間、本当たまたま偶然なんだけどさ、CMOのデート現場に遭遇しちゃって……。バレないように接したつもりだったんだけど、ヘタな言い分けしてたら、それでうちの社員だって、バレたみたいで……」
ぎゃあぎゃあと騒ぎ立てる社員たちに、しっかりと関わりのないことを表明しておく。
いつまでもいらない誤解と疑念を持たせたまま、不必要な嫉妬心ややっかみを買いたくない。
「なんですか、それ!」
「どういうこと?」
「多分、余計な事をしゃべらないようにって、口止めしに来たんだと思うよ。だからあんまり、詳しいことは話せないかも……」
「えー!」
最大限に困った表情を作って、顔面に固定しておく。
そう。
あのオークション会場でCMOを見かけた時、隣にはきれいで素敵なお嬢さまがしっかりと脇を固めていた。
嘘はついてない。
「そのデート相手のお顔に、私は全くの心当たりがないんだけど。まぁ、彼女? なんだろうね、きっと」
「どんな感じの人でした? 女優とかアイドルみたいな感じ?」
「いやいや、しっかりした上品な感じのお嬢さまだったよ」
「なんだー」
「つまんな~い」
「アイドルとかと噂になったら面白いのにねー」
複数の舌打ちと、好き勝手な妄想の渦が嵐のように吹き荒れる。
私はほっと胸をなで下ろした。
よかった。
興味の対象が自分から逸れた。
自分の理想と世間の想像から遠く離れてしまった私は、素姓をあまり人には知られたくない。
そんな好奇心に巻き込まれ噂のネタにされることには、もう充分すぎるほどうんざりしている。
部長の「おしゃべりはやめて、仕事しよ」の一言で、ようやく解散となった。
それでいつもの風景が戻ってきたはずだったのに、就業時間間際になって、本当に佐山CMOから社内メールが送られてくる。
金曜の夜に食事に誘う内容で、私はあきらめて了解の返事を機械的に打った。
この人には私が三上恭平の孫だってことも、きっとバレちゃってるんだろうな。
じゃなきゃ、こんなお誘いがあるわけない。
だったらさっさと終わらせて、彼の好奇心を満足させるだけだ。
一日おもちゃになれば、この関係も終わる。
そうして出来れば自分が三上恭平の孫であることを、社内では公にしないようお願いもしておきたい。
もうこれ以上、自分ではない誰かの付属品扱いは受けたくない。
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