第3話

 待ち合わせに指定されたのは、会社からほど近いイタリアン。

添付された店のHPを開いて確認する。

ん? 

看板とか出てないし、これ一見普通のただの壁みたいじゃない? 

これが店の入り口? 

てか、HPなのに、どこを見ても料理の値段が載ってない。

金曜の夜の約束だから、仕事終わりということになる。

お店の格に合わせたお洒落をしていかなければならないんだけど、一度帰宅すれば予約の時間に間に合わない。

変にドレスアップして会社に行けば、絶対周囲からなにか言われるの、分かってるのに……。

服だけはどうしようもないから、黒のスタンダードなキャミワンピースに、白のインナーを合わせて行こう。

それくらいなら会社に行っても注目を浴びることはないだろう。

普段よりちょっと背伸びはしてるけど、特段気合いが感じられるわけでもない、当たり障りのない及第ラインだ。

メイクとアクセサリーは、駅のトイレで何とかするとして……。


 そんなことをあれこれ考えているうちに、急に疲労感に襲われ、大きなため息をつく。

断れるものなら断りたい。

こんなこと面倒なだけ。

だけど、断れないものならば、さっさと終わらせてしまえばいい。


 迎えた金曜は朝から憂鬱で、いつも以上に目立たぬよう、そつなく仕事を片付ける。

オフィスを出なければいけない時間が来て、細心の注意を払い、さりげなく抜け出すことに成功した。

予定通りお店の最寄り駅トイレでメイクを直し、ゴールドの緩やかなスパイラルバーのピアスをさす。

ネックレスはいつもの鞄に入れるには邪魔になりそうだったから、やめた。


 スマホの地図を頼りに、すっかり日の暮れた通りを進む。

落ち着いた雰囲気の街中に、その店を見つけた。

HPに載っていたのと同じ白い壁の前に、ネットには載っていなかったオーケストラの指揮者の譜面台みたいなものが置かれている。

その脇には、ピッタリとした黒服の男性が立っていた。


「いらっしゃいませ。ご予約の三上さまですか?」


 黒髪のオールバックの男性が、これ以上ないくらい爽やかな笑顔を浮かべる。


「あ、私が予約したんじゃないんですけど……」

「佐山さまとご一緒ですね。お待ちしておりました。お入りください」


 心臓をバクバクさせながら、照明を落としたレストランの、靴が沈み込むほどふかふかの赤茶けたカーペットを進む。

店に入った瞬間、私は佐山CMOに身バレしたことを、はっきりと確信した。

完全個室のレストランは、どう考えたって全部で5部屋くらいしかない。

通された個室からはガラス張りの向こうに、ライトアップされた庭が見える。

都会の真ん中にあるのに、ここの周囲には高層ビルの建ち並んでいるはずなのに、窓からは庭の木々と空しか見えないって、どういうこと? 

しかも、もしかしてこの個室から庭に下りていける系? 

部屋の配置と垣根の様子から、隣のお部屋からも絶対見えない仕組みだよね。


 席に着いたとたん、細長いシャンパングラスに水が注がれる。

この水もきっと、タダの水ではないはずだ。

きっと一口300円くらいするに違いない。

本当にこんなところに座ってて大丈夫なの? 

もし佐山CMOがこなかったら、私はどうなるの? 

人生で経験したことのない高級店に、いつでも逃げ出せるようビクビクしながら座っていたら、ようやくノックの音が聞こえた。


「佐山颯斗です。よかった。来てくれてた」


 深い紺色のスラックスと白Tの上に、軽やかなライトブルーのジャケットを羽織っているその姿は、清爽感ハンパない。

私は約束の時間より少し早めに来ていた。

彼の到着だって、5分は早い。

佐山CMOの到着に、私は勢いよく立ち上がった。


「先日はお見苦しいところをお見せして、大変申し訳ございませんでした」


 深々と頭を下げる。

一度も染めたことのない私の髪が、肩からさらさらと流れ落ちた。

指先までぴっしり伸ばした手を体の前で合わせ、腰の角度は90度に固定する。


「あぁ! いや、そういうつもりじゃなかったんだけどな。まぁ座ってよ」


 困惑した様子を見せた彼は、それでもにっこり微笑んで席に着く。

私はビジネスマナーに則り、上司である彼が席についてから、さっと素早く腰を下ろした。


「三上恭平のお孫さんが、まさかうちの社にいるとは思わなかったものでね」

「そのことですが……」

「内緒にしとけって? 分かったよ」


 絵に描いたようなイケメンだ。

白い肌と繊細に伸びた高い鼻。

整った眉と目は、立体造形されたフィギュアみたいだ。

出されたおしぼりで手を拭くと、彼は爽快な笑みを私に投げつける。


「で、なぜあのカップを欲しがったのです?」


 佐山CMOが席についたとたん、すぐに前菜が運ばれてきた。

彼は私にアレルギーとお酒の可否を確認してから、何かのワインを頼む。


「祖父との、思い出の品だったので」


 オークションで競り落とし、ちゃんとお金を出して買ったのはこの人だ。

私が何か口出しできる立場にはない。


「大切にしていただけると、祖父も喜ぶと思います」

「あぁ、それなんだけどね。実は失くしなくしちゃったんだ」

「は?」


 失くした? おじいちゃんのカップを? こんな短期間で?

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