第3章 第1話
オークションに負けた土曜の夜は思いきり泣いて、日曜日の一日をかけて目の腫れを引かせ、月曜には何事もなかったように会社へ出勤する。
満員電車に揺られ、社畜とまではいないが、ちゃんと仕事はする。
だっておじいちゃんの作品を自分の手で取り戻すためには、お金が必要だから。
7つの時に母が亡くなって、その3年後に有名画家だったおじいちゃんが死んだ。
病気がちで体の弱かった父は、生活費と私の将来の学費のためにと、おじいちゃんの作品を次々と売り飛ばした。
美術には全く興味がなく、祖父との折り合いも悪かった父が、作品の価値をどれだけ理解し、どう判断していたのかは、今となってはもう分からない。
そうやって作品を売り払うことで、この家と土地を残すことが出来たらしい。
相続税だとかなんとかっていうことは、大人になってから知った。
そんな父も闘病生活の末、私の高校入学を見届けた直後に、この世を去った。
「おはようございます!」
始業時間の20分前には、オフィスに入るようにしている。
早くもなければ遅くもない時間だ。
自社ビルを所有する有名商社に入れたのは、高校、大学と真面目に過ごしてきたおかげ。
人生には安定が一番。
足元のおぼつかない不安定なアーティストなんて、もってのほかだ。
私は堅実に生きる。
そしてお金を貯めて、少しでもいいからおじいちゃんの作品を取り戻す。
広々としたオフィスにはずらりとデスクが並び、それぞれの塊で部署が分かれていた。
有名商社勤務といっても、はっきり言って私の仕事は雑用係。
非常勤の契約社員で入社というのが正しい採用で、一年ごとの契約更新を続けたところで、この会社に正社員採用実績は……ない!
「データ整理終わりました。印刷しますか?」
「あ、印刷はいいよ。クラウドに共有しといて。こっちの伝票整理と入力遅れてるみたいだから、手伝ってもらえる?」
「はい。分かりました」
正社員である中年男性から、大きさも書式も全く整っていない紙の束をドサリと渡される。
これ、本当はアンタがやらなきゃいけなかった仕事じゃない?
なんて、そんなことを思いながらも、何一つ表情を変えることなく、全てを事務的に受け取った。
目標は無期雇用転換。
正社員になれなくて結構。
安定安心で末永く。
もし解雇を言い渡されたって、ここで付けた有名企業の社名という肩書きは、次の転職にもきっと役に立つはずだから。
午後からもひたすら細かい数字の入力と、書類の書式統一、フォントの修正作業を延々続けている。
やってもやっても減らないどころか、さらに追加されていく紙の束とお願いメールにうんざりしていた。
ペーパーレス社会って、どこの国の話?
だから最初っからデータ収集をデジタル入力しておけば……。
あぁ、デジタル社会って、別次元の異世界を指す言葉だった。
私はきっと、冒険と夢のファンタジーな世界から、この現実に異世界転生してきた不幸なヒロインなんだ。
いつかきっと元の世界に戻れるって信じてる。
その時には出来れば魔法使いか、お城の伯爵令嬢か何かに……なんて、いつものように妄想で現実逃避しながら働いていたら、急にフロアがざわつき始めた。
何事かと顔を上げる。
シックな色合いのキリッとしまった黒のスーツ。
皆同じような格好をしているのに、どうしてこんなに格差が出来るんだろうと思う。
身長とスタイルのせい?
きっちりとセットした髪で、堂々とオフィスに侵入してきたのは、うちのCMOだ。
新しい案件を次々と取り付け、新規事業開拓に成功しているマーケットの分析官であり、新進気鋭の若き経営戦略家。
彼は周囲のどよめきが聞こえていないのか、迷うことなくオフィスを突き進む。
何しに来た?
と思う間もなく、彼は資料の山に埋もれた私のすぐ真横に立ち止まると、真っ黒いストレートな前髪をかき上げた。
「あなたですか。先日泣きながら三上恭平氏の作品を、俺と競り合っていたのは」
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