第6.5話 「おにーちゃんが」(鴨川環の回想)


 人は、呆気なく死ぬものだ。

 中3の春、通り魔に刺されて父さんと母さんが死んだあの日から、俺はそのことを知っていた。


『うわぁぁああぁああああッ、助けてくれぇえっぇええッ!』

 

 薄暗い部屋に響く人の悲鳴。

 ぽすん。棍棒一振りで、中肉中背の青年男性の脳漿が炸裂して弾け飛んだ。壁に叩きつけられた肉塊がずるずると滑り落ちてく。

 

 彼の名前は田中太郎。なんてことないモブキャラAだ。

 駆け出しの【無限の塔・探索者】だった。最高到達階層は1階。生存日数は0日1時間12分。職業はただのサラリーマン。それ以上の情報はない。

 

 彼が生き残れなかった理由。

 ただ――弱かったから。俺は痛いほど知っている。弱いとは、罪悪だ。無力は他に代えがたい、滑稽な罪だ。


 薄暗い湿っぽい部屋の中。

 薄明かりを放つスマートフォンを凝視しながら、ノートに殴り書いていく。

 

 医者の声が脳内で反芻していた。

「――妹さんは、もって後一年でしょう」

 

「いやだ……」ぽたぽたと、ノートに涙が滴り落ちる。涙でペンのインクが滲んで、じわりと染みが広がっていく。情けない、犬の鳴き声みたいな嗚咽が喉奥から漏れ出た。「やだ……いやだ……」

  

「――大丈夫だって。おにーちゃんがいるからさ。病気が治ったら、いっぱい遊びに行こうな」

 

「俺は……」ガリガリガリガリ。ノートの上をペンが滑る。切り替わるスマホの画面が、新たな敗北者にスポットライトを当てていた。『いだぃ、いだぃぃだいいだぃいだぃッ!』もがき苦しむ男を凝視しながら、とにかくペンをノートに擦り付ける。

 

「おにーちゃんが……」

 

 ――【無限の塔】の頂上まで登った者は、なんでも願いが叶うという。


「おにーちゃんが、助けてやるからな……」

 

 薄暗い部屋、月明かり差し込む深夜2時。

 饐えた臭いのするノートいっぱいに、ぐしゃぐしゃと不協和音を掻き鳴らすように、ぐるぐると文字が踊っていた。


『ゴブリン:浅緑の肌。棍棒が特徴。格闘技経験者であれば余裕? 運動経験者△ 中年男性✕ 動きは鈍い。棍棒を振り回す後に一瞬のスキ。特に大ぶりの攻撃は威力:大だがスキ多め。仲間を呼ぶ習性? しかし連携はない。勝てる。俺なら勝てる相手だ。行動パターンは単純。個体差あり。足技に弱い。足の速さは人より遅いが、体力面では大幅に向こうが格上。さらに執念深い性格を考慮すれば戦ったほうが吉』

『スライム:――――――』『スケルトン:――――――』『コボルト:――――――』『毒蜘蛛:――――――』『ウルフ:――――――』『オーク:――――――』『ミノタウロス:――――――』『殺人林檎:――――――』『一つ目:――――――』『ゴースト:――――――』『角兎:――――――』『オーガ:――――――』『ブラッドスティーラー:――――――』『ヘルハウンド:――――――』『固有魔物について:――――――』『ネームドについて:――――――』『ボス対策:――――――』『ステータスアップ条件について:――――――』『PKのメリット、デメリット:――――――』

 

 

 月下、月明かりを背に浴びて。病室で妹が、縋るように笑う。

 

「ねぇ、お兄ちゃん」と。「約束だよ?」


 そよ風、9月の夏明けの爽やかな風に、彼女の黒い髪がなびいた。


「退院したら、一緒に遊園地、行ってくれる……?」

 

 不安げにこちらを伺う彼女をみて、俺は力強く頷く。


「ああ。約束だ」

 

 ――そのために。

 まだ、準備が必要だ。まだ行けない。……生きなければ。生きて、攻略しなければ。そのために。 


 俺はまだ、【無限の塔】へは、行けない。

 いつか、生きて完全にその頂へ、達するために。その準備を、完全なものとするために。

 

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