第7話 密室で異性と二人っきり(1)

 響輝が狙って場を和ませたわけではないと思う。結果的には大きな争いに発展する前に各々のするべきことへ戻っていった。

 大学の講義を終えた僕は寄り道しないで自宅に帰ってきた。少し緊張しながらも、ただいま、と控え目な声で家に入る。

「おかえりなさい」

 キッチンから母の声がした。通り抜ける前に、ただいま、と中を覗き込むようにして言った。彩音の姿はなかった。

 表情が強張るのを感じながら階段を上がる。足音を忍ばせる必要はないのに妙に意識してしまう。

 廊下で足を止めた。目は斜め前に固定して数秒の待機。彩音の部屋のドアは開かない。耳を澄ましてみても何も聞こえてこなかった。

 そこで過去を振り返る。彩音が通学用に履いていたローファーは玄関にあっただろうか。母がよく使うサンダルは見た記憶がある。父が使用したと思われる靴ベラは壁に立て掛けてあった。

 彩音のローファーだけがはっきりしない。見慣れた物なので過去の記憶と微妙に混ざり合い、余計にわからなくなった。

 僕は溜息を区切りに考えることをやめた。自室に向かって歩き出すと、いきなりドアが開いた。額をぶつけそうになりながらも横に避けた。

 部屋から出てきた彩音と視線が合う。僕は笑顔を心掛けて言った。

「ただいま」

 返事はなく、無言でドアを閉められた。予想した中で最悪に近い反応だった。

 その時、部屋の中から乾いた音がした。破裂音に似ている。再び、ドアが開いた。

 彩音は僕の正面に立ち、直立不動の姿になった。

「今朝は悪ふざけがすぎました。ごめんなさい」

「そう、なんだ。僕の方こそ、ごめん」

「兄さんが謝る必要はありません。私は下に用事があるので、これで」

 声に動揺は見られない。ただ、色白があだになった。両頬には赤い手形の跡が薄っすらと残っていた。

 僕は後ろを振り返り、ごめん、と心の中で謝った。気の重さを反映した足取りで自室に入った。

 背中のリュックは机に置いて真っ先にノートパソコンを取り出した。画面を起こした状態で放置。どうにもやる気が出ない。椅子に腰かけた姿で真っ暗な画面を眺めた。

 スマホが軽やかに鳴った。アプリを開くとメッセージが届いていた。手を合わせて謝るスタンプの絵がマッチョの男性なので少し口元が緩んだ。

 僕は言葉に迷いながらも返事を送った。


『要は悪くない。だから気にしないでいいよ』

『あたしが納得できない。明日、時間はある?』


 明日は金曜日で講義は二限目だけとなっている。ランチを食べながら二人で会話を楽しむ時間は十分に確保できる。


『午後からフリーだよ』

『よかった。待ち合わせ場所は松前台まつまえだい駅の花時計前で。1時厳守でよろしく』


 自宅と大学の間くらいの駅なので遅れることはないと思う。それもあって決断は早く、了解、と入れて話を終えた。

 明日のランチ代が浮くかもしれない。ささやかな幸運が沈んだ気分を浮上させた。

 急にやる気が出てきた。僕はノートパソコンを起動させて講義の内容を見易く纏めていった。


 約束の日は午後一時に間に合うように電車を使った。何事もなく駅に着くと速やかに改札を抜けた。

 花時計の前にはすでに要の姿があった。青いデニムジャケットに黒いパンツを合わせた姿で腕を組んでいる。赤いバスケットシューズは厚みがあるようで大きく見えた。

 こちらに気付くと腕を解き、白い歯を見せて笑った。

「今日はあたしのおごりだから」

「ありがとう。なんか気を使わせて、悪いね」

「こっちが悪いんだし、気にしなくていいって。それよりその、なんだ、小ぎれいな格好だな」

 いつものパーカーではなくて薄手のスーツを着ていた。男らしい性格の要ではあっても、やはり異性なので多少の配慮は必要に思う。

「おかしいかな」

「いいんじゃないか。こうやって見ると、やっぱ男なんだな」

「それ、誉め言葉だよね」

 要は笑って歩き出す。少し遅れて横に付けた。

「そこを真っすぐ」

 歩きながら要は口で指示した。

 商店街のアーチを入って尚も歩く。目的の店はファミレスではなくて定食屋なのだろうか。

 雑貨屋とパチンコ屋を超えた先で、ここだ、と要は細長いビルを指さした。

「ここってカラオケボックスなんだけど」

「発散するなら歌だよな」

「嫌いではないけど……」

 一人カラオケは何度か試した。人目を憚らず、大きな声で歌うともやもやした気分が吹き飛んですっきりする。だけど、密室で異性と二人っきりという状況には体質もあって危機感しか覚えない。柔道と同じでレスリングにも投げ技がある。考えただけで震えがきそうだった。

「多少の音痴は気にするな。あたしだって勢いで歌うだけだし。それと今日は平日割が使える。学生割もセットで、しかもランチメニューが半額になるサービスが昨日から始まっているんだ。どうだ、すごいだろ」

「それはすごいね」

 目を輝かせた要の姿に反論の言葉が虚しく崩れる。僕は諦めて死地に向かう覚悟を決めた。

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