第6話 学内でのキス
午後の講義へ間に合うように僕は家を出た。いつもの土手の道をのんびりと歩く。
川岸の近くで幼い兄妹が走り回っていた。近くには母親らしい人物がいて優しい眼差しを送っている。
僕と彩音が出会った時のことを思い出す。
母に連れられて部屋に入ってきた男性はクマのように大きかった。横に並んだ女の子は逆に小さく、
新しい家族になると母に言われて、なんとなく理解した。勧められたわけではないけれど、自分から女の子に握手を求めた。小柄ながらも強い力で握ってきて、よろしく、と対等の立場を主張した。
あの頃から比べると言葉遣いは大いに改善された。態度の大きさに変化はなく、今も続いている。それだけに今日の添い寝には驚いた。やはり香水が原因なのだろうか。効き目に個人差があるのか、遅れて効果を発揮するのか。どちらにしても香水の影響と考えていいだろう。
ジーパンのポケットに忍ばせていた円筒状の瓶を取り出す。川に向かって投げ捨てれば一気にこの状況から抜け出せる。
わかってはいても非常に悩ましい。体質で異性に嫌われる。香水で異性に過剰に好かれる。この二つの間で心が揺れ動く。双方が両極端で程の良い中間が欲しいと切実に思った。
大学の三限目と四限目は集中力を欠いた。自前のノートパソコンには断片的な書き込みが多く、自宅での解明が急がれる。頭でわかっていても実行に移す気になれない。家には彩音がいる。今後、どのように接していけばいいのだろう。
答えを模索しながら足は学内のカフェに向かった。小さいカップのデミタスコーヒーをテラス席でちびちび飲んだ。独特な苦みが口の中に広がって
「顔が暗いよ~」
妙に明るい声は見なくてもわかる。空いていた正面の席に
「その手のヤツはカフェオレしか飲まないのかと思ってたよ。何か悩み事があるなら俺が聞くけど、どうよ?」
「そういうところは鋭いよね」
「そういうところも鋭いんだよ。体質のことなら力になれないが、俺には全く影響ないんで親密な関係を希望するなら遠慮なく言ってくれよ」
響輝は片目を閉じたまま柔らかい笑みを浮かべた。
甘いマスクの不良には独特な魅力がある。何人もの女性と肉体関係を持つなど、多くの悪い噂を耳にする。でも、高校の時の腐れ縁もあって自ら友達の縁を切るつもりはなかった。
「悪い冗談はやめてよ」
「俺はどちらもいけるタチなんだけど。実際、拓光は可愛いし」
陽気な目が一瞬で真剣味を帯びた。唇を柔らかく開いて顔を寄せてくる。
魅入られたように僕は反応できない。そこに騒々しい足音が割り込んだ。横目をやるとランニングシャツを着た
「珍しいところで、なんで森山がいるんだよ」
「いたらダメなのかよ。メスゴリラはさっさと部活に戻れよ」
「うるせーよ。走り込みの最中なんだよ。強姦魔が明るい時間に出てくんな」
要は愛嬌のある垂れ目を吊り上げて拳を握る。受けて立つという風に響輝は立ち上がった。
「同意の上だから合法でーす」
「おまえが誘導してんだろ。都合のいい解釈してんじゃねーぞ」
二人は互いの嫌悪を全開にして舌戦を繰り返す。僕は中腰になって、落ち着いて、と弱々しい笑顔を振り撒くしかなかった。
「まあ、拓光がそういうなら。なんか無駄な言い争いのせいで喉が渇いた」
テーブルに置いてあったカップを豪快に
「なんだよ、これ。凄く苦いんだけど」
「今日の気分がデミタスだったから」
「それを早く言ってくれよ。喉がイガイガする」
要は自分の喉を摩るようにして言った。目にした響輝は底意地の悪い笑みとなった。
「付き合いの浅いレスリング狂のがさつなゴリラに拓光のことはわからないよね~。高校の三年間、同じクラスで付き合いの長い俺は一目でわかったよ」
「それならあたしの方が長いし、もっと古い付き合いだな」
「おいおい、見苦しいって。下手なウソはすぐにバレ――え、マジ?」
僕は口の動きだけで、違う、と何度も言った。
有利と見た要は片目を大きく見開いて笑う。
「小一から四年間くらいかな。同じクラスなんだよ。父親の仕事の都合で五年の一学期に引っ越したけど、また大学で出会えたんだよな」
同意を求めるように要がグイッとこちらに顔を突き出した。
「よく覚えているよ。お別れ会の時は本当に悲しくて。また会えるなんて思っていなかったから嬉しいよ」
「そうだよな! これが運命なんだよ。どこかの底の浅い付き合いとはわけが違うってもんだ」
形勢が一気に傾いた。要は喜びを爆発させて僕に抱き着いた。背中に回した手でパンパンと叩く。
響輝は悔しさで笑顔のまま震えていた。溜め込んだ怒りの反動が恐ろしい。僕は内心でかなり焦っていた。
「そ、そういうことだから、話はここで終わりにしよう」
「それはいいんだけど、今日の拓光はなんか違う」
「え、どこかおかしい?」
要はゆっくりと身体を離した。とても近い位置で僕の目を見つめた。視線が少し下がって今度は唇を見続ける。
「あの、大丈夫?」
「なんか、ダメかも」
要の顔が視界いっぱいに広がる。息遣いが聞こえて柔らかいものが唇に当たった。
「何してんだ、おまえは!」
響輝の怒声で要は瞬時に離れた。
「なんだろう。急にしたくなって。これもスキンシップの範疇だよな」
「そっちこそ、都合のいい解釈してんじゃねぇぞ!」
本気で怒る響輝の様子を見て、僕はようやくキスされたことを理解した。
彩音の行動の衝撃が尾を引いて、昨晩に付けた香水を洗い流すことをすっかり忘れていた。その後悔が小波から大波に変わって心に押し寄せてくる。
怒る二人を余所に僕はひどく落ち込んだ。理由は一つではなかった。
最初に気付いたのは響輝だった。
「拓光、どうした? 噛まれたのか?」
「噛んではないけど、拓光? そんなに嫌だった?」
二人は同じように心配そうな顔で訊いてきた。
「その、初めてだから……」
「それは、うん、そうか。すまない!」
要は最敬礼よりも深く頭を下げた。
響輝は苦笑いで僕の耳元で囁く。
「口直しに俺とする?」
照れたように言う響輝がおかしくて、僕は声を出して笑った。
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