第5話 新しい寝技

 キッチンの三方にある窓が開いていた。夜気を含んだ風は少し冷たい。僕の体質のせいとわかっているので文句は言えない。

 隣にいる彩音をチラリと見る。内心の不満が顔中に表れていた。持ったスプーンでルーの部分をつついていた。

 正面にいる両親は、にこやかで不満は微塵も見られない。父はスプーン一杯に盛ったカレーを美味しそうに食べている。いつもの威厳を湛えた顔が台無しで腕白小僧わんぱくこぞうとなっていた。

「今晩はどうしてカレーなのですか。スパイスの香りで食べなくても辛さの程度がわかります」

 苦々しい彩音の言葉に母が答えた。

勝光まさみつさんの希望で今日はカレーになりました」

絹恵きぬえさんの言う通りだ。久しぶりに食べるカレーは美味いぞ。スパイシーな辛さが病み付きになる。このコンソメスープは箸休めに最高だ。それにちゃんとお前達用の対策は立ててある。その小瓶のココナッツミルクは甘いので辛さを抑えてくれるはずだ」

「いい加減、私を子供扱いするのはやめてください。そのようなものを掛けなくても食べられます」

 彩音はカレーを睨んで横腹に当たる部分にスプーンを突き刺した。それを一口で食べた。何回か噛んだあと、動きが止まった。白くて艶やかな横顔がほんのりと赤く染まる。

「……そこそこ辛いですが問題ないです」

 彩音の声が震えていた。いつまでも傍観者ではいられない。僕もスプーンでカレーをすくい、恐る恐る口に入れた。

 噛む前から辛さで視界が滲む。スパイスの分量を間違えているのではと疑いたくなる。母の方に非難めいた目をやると、笑顔で受け止められた。

「勝光さん好みの辛さになっているよね」

「たぶん、そうだと思うけど、汗が吹き出しそうだよ」

 隣にいた彩音が殺意を込めた視線を向けてきた。

「それくらい我慢してください。毛穴を針で潰して汗を止めてもいいですよ」

「僕が夕飯を食べると拷問を受けないといけないの?」

「今のはなかなかウィットに富んでいていいぞ。仲の良い兄妹を眺めて食べるカレーは格別だな」

 彩音の怒りの矛先は父に向いた。筋肉質な身体は精神にも及んでいるようで平然とコンソメスープのカップを持ち、喉を鳴らして飲んだ。

 このような会話もあるだけマシなのだろうか。僕はテーブルにハンドタオルを置いてカレーを食べ進める。滲む汗は手早く拭き取った。

 彩音は何も言わないが時に怖い顔でこちらを見てきた。仕方がないのでココナッツミルクの力も借りた。


 試練の夕飯が終わった。空になった自分の食器をシンクに入れて小走りでキッチンを後にした。洗面台と向き合って歯を磨き、急いで二階の自室に戻った。

 寝るのは早いがとにかく横になりたかった。部屋の明かりを消してベッドに寝転がる。試しに瞼を閉じてみた。

 やはり眠気は訪れなかった。今日の出来事を振り返る気にはなれない。いくら考えても答えに行き着きそうな気がしなかった。

 眠ったという感覚はなかったのに時間は過ぎて、いつの間にか日付が変わっていた。今日の大学の講義は午後なので焦る必要はないものの、何かにかされているように感じる。

「……眠れない」

 ついに二時を超えた。嫌な汗が全身から滲み出す。ハンカチで適当に拭いた。

 ベッドの端に座り、項垂れた状態で過ごす。眠気は家出をしたのか、全くやって来ない。踏ん切りを付けて立ち上がる。

 机の上に置いていた円筒状の香水を手に取った。掌に少量を吹き掛けて首筋と胸の辺りに塗り付けた。

 ベッドに戻ると掛け布団を顎に触れるくらいに引き上げた。良い香りが僕の全身を包む。目を閉じた状態で匂いを楽しんでいると意識が遠くなってきた。


 朝を迎えたのだろう。意識がゆっくりと浮上する。今日はホトトギスは鳴いていなかった。代わりに雀が落ち着きのない声で輪唱りんしょうするように鳴いていた。

 ようやく自分に起こっていた異変に気付く。仰向けに寝ている状態で左腕が重い。というより、意思に反して動かない。

 視線を左腕の辺りに向けると掛け布団が不自然に盛り上がっていた。生唾を呑んで右手で掛け布団を勢いよく剥ぎ取った。

 左腕に自身の腕を巻き付けた彩音が制服姿で現われた。僕の視線を受けて横目を向けた。

「兄さん、目が覚めましたか?」

「こんな状態なら誰でも目が覚めるよ。それよりどうして、ここに?」

「昨晩、母さんに頼まれたので起こしにきました」

「前に寝過ごしたからね。でも、今日の大学の講義は午後だから大丈夫だよ」

 にっこり笑って答えた。いや、それだけではない。

 起こしにきて、どうして一緒のベッドで寝ているのだろう。いつもの日常を思い出す必要もないくらいに掛け離れている。子供の時であっても一緒に寝た記憶はないのだから。

「どうして、起こしにきた彩音が一緒に寝ているのかな」

「新しい寝技を試しています」

「本当に?」

「本当ですよ。添い寝締めと言います」

 それらしい技名を出してきた。恥ずかしそうに目を伏せているので嘘だとわかるけれど。

「あの、僕は警戒レベルスリーなんだよね? こんなことしていいのかな」

「今日はこういうことをしたい気分なのです。兄さん、柔らかいですよね」

「え、どういう――」

 左腕に全神経が集まる。小ぶりながらも柔らかい膨らみが確かに当たっていた。

「汗が、出そうなんだけど」

「いいですよ。全て私が受け止めてあげます」

「これも、その、気分?」

「そうですが、母さんの邪魔が入りそうです」

 彩音は何事もなかったようにベッドから下りた。平然と歩いてドアを開ける。

「母さん、今日は起こさなくていいみたいです。大学の講義は午後からなので」

「それなら先に言ってよ」

 母は怒ったような調子で階段を下りていく。

「それでは兄さん、私は学校に行ってきます」

「いってらっしゃい」

 去り際、彩音は振り返って笑みを浮かべた。

「兄さん、今の法律では連れ子同士で結婚することができるのですよ」

「え、そうなの? 考えたこともないんだけど」

「頭の片隅に入れておいてください」

 天使の微笑みに何も言葉を返せなかった。


 部屋には甘い香りが漂っていた。

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