第4話 香水を妹に使うと
電車が駅に停まる度に数人の女性が乗り込んできた。僕は歩き易くなった車内を移動して難を逃れた。
ようやく目的の駅に着いた。ホームに降りると速足で改札を抜けた。
女性の姿がポツポツと目に付く。その中には背中が丸まった老婆がいた。車内での出来事が影響を及ぼし、おぞましい想像をして思わず身体が震えた。
僕は家まで走って帰った。音を立てずに門扉を開ける。ドアもそっと開き、ただいまの一言を呑み込んで二階へ急ぐ。
廊下の奥の部屋に目をやる。行く手を阻むように中程のドアが開いた。出てきた彩音の横顔を見た瞬間、僕は斜め前のトイレへ駆け込んだ。
ドアを閉めていても足音が聞こえてくる。僕の正面近くで音が消えた。
「誰ですか?」
「……僕だけど」
興味を失ったみたいで階段を下りる音がした。それでも用心に越したことはない。ドアを半開きにして廊下の様子を窺う。
瞬間、僕は飛び出して奥の自室に飛び込んだ。背負っていたリュックは適当に床へ下した。
すぐに洋服ダンスへ向かう。下着を含めた着替えを取り出し、一抱えにして部屋を出た。速足でトイレ横のドアを開けた。
中はかなり狭い。目ぼしいものは洗濯機とタオルを収めた棚だけだった。
洗濯機の蓋の上に着替えを置くと手早く全裸になった。折れ曲がるドアを開けて浴室に入る。
そこに浴槽はなく、壁に掛けてあったシャワーで済ませる。頭から湯を掛けて全身の汗を流す。終わると足元にあるポンプ式のボディーソープを使う。掌を道具に見立てて全身を泡で包む。
耳や首筋は丁寧に洗う。腋の下は何度も掌で擦った。最後は勢いよくシャワーで洗い落とした。
すっきりした状態で自室に戻った僕は椅子に座る。手に握っていた円筒状の香水を見つめた。
祖父の言葉を信じれば失敗作で、香水自体に女性を魅了する力はない。そうなると電車で出会った女性は痴女なのだろうか。プライム市場の企業で第一秘書を務めていると言っていた。多くの人目に触れるところで、あのような行為を自ら進んでやるとは考え辛い。
いくら香水を見つめていても答えは出なかった。
その時、ドアの閉まる音がした。彩音が部屋に戻ってきたようだ。
「……彩音も女性だよな」
香水の力を試してみたいという思いが急激に強まる。しかも身近な女性なので今からでも実行可能だ。
椅子から腰を浮かして、また座り直す。右足が貧乏揺すりを始めた。
車内で会った女性が頭の中で煽るように豊満な身体をくねらせる。白いシャツの上から胸を揉み、スカートの中に手を忍ばせた。
妹さんと、こういう関係になりたいの?
耳に息が掛かったような気がして咄嗟に押さえた。幻聴にさえ、ひどく怯える自分がいた。
その時、ドアがノックされた。
「はい?」
「兄さん、今日は早い夕飯になるそうですよ」
「わかった」
ドア越しの会話には慣れていた。特に問題は起こらず、足音が遠ざかってゆく。
僕は瞬間的に立ち上がり、走ってドアを開けた。その勢いに反応して彩音は少し離れたところで振り返った。おかっぱ頭の前髪が少し乱れてさりげなく指で整える。
「びっくりしたのですが」
「あ、いや、なんて言うか、わざわざ教えてくれてありがとう」
彩音は観察するような目で見てきた。自ら近づいて無言の圧を加えてくる。
「その、それだけではなくて、この香水の匂いを彩音に訊いてみたくて」
「兄さんに香水の趣味があるとは思いませんでした。急に色気づいたことで私の警戒レベルが引き上げられてレベルスリーになりました」
「そんな単位、初めて聞いたんだけど」
「教えていませんから」
切れ長の目が瞬きしないで僕を見つめる。美人の凄味を改めて実感した。
「今日、祖父のところに寄って香水を貰ったんだよ。ほら、調香師だから」
「そうですか。わかりました。どのような用事で祖父の家に行ったのかは問い詰めませんが信じてあげます」
そういうと掌を差し出した。僕は何となく生命線の短さが気になった。美人薄命という言葉もあるので。
「早くしてください。兄の権限を使って妹を拘束する行為はパワハラですよね。兄さんの体質に関係なく苛立ってきました」
「わ、わかったから。僕も決心がついたし」
「ただの香水ではないのですか? 私に何かしたら柔道で鍛えた三角絞めで落としますよ」
利き足を後方にずらして構えを見せる。僕は腰が引けた状態で掌を突き出した。
「ちょ、ちょっと待って。純粋に感想が訊きたいだけなんだから」
「だったら早くしてください」
再度、出された掌に僕は少量の香水を吹き掛けた。
「どうかな」
彩音は湿った掌を眺めてゆっくりと鼻に近づける。その姿で何度か呼吸を繰り返した。
「……甘ったるくはなくて、透明感のある甘さと言えますね。単純でいて奥深い香りだと思います」
「良い香りだよね」
「端的に言えばそうなりますね」
彩音は落ち着いた様子で答えた。表面上は何の異常も見られない。
「それ以外に、何かない? 身体が熱いとか、興奮した感じになるみたいな」
「全くありませんが。これは何の実験ですか? 兄さんがその気なら私もここで大外刈りの実験をしますよ。もちろん兄さんが被験者です」
彩音の目が僕の襟首に固定された。
「ほ、本当に何もないから。僕を信じて欲しい。でも、良かったよ。やっぱり、良い香りなんだよね」
「そうですね。私は下に行きます」
「感想をありがとう」
目礼した彩音はすたすたと歩いて階段を下りていった。
僕は手の中の香水を見つめた。同時に痴女は都市伝説や創作の類いではないことを実感した。
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