第3話 初体験

 駅のホームの状態を目にした。急速に自分の表情が強張るのを感じる。

 電車待ちをする人達であちこちに列ができていた。この後、車内で押し合う乗客の姿が容易に頭へ浮かぶ。引き返したくなって改札の方をチラリと見た。

 思わず、深呼吸をした。極度の緊張で体温が上がったのだろうか。纏った香りを強く意識した。結果としては良かったのかもしれない。好ましい匂いに気分が安らぎ、抱いた恐れを遠ざけた。

 僕は並んだ人を眺めながらホームを進む。女性がいない列を見つけて素早く最後尾に付けた。左右にもいなくて大きな安心感に包まれた。

 あとは電車の車両が問題になる。こればかりは運に頼るしかない。

「やっぱり混んでるな」

「事情だけに仕方ない」

 目の前にいたスーツ姿の男性二人組が声を潜めて言った。

「これって人身事故の影響だよな」

「そうなるか。外回りだから座りたかったが」

「直帰が許されただけマシと思うしかないな」

 声だけで苦笑いを浮かべた顔が想像できる。内心では僕も同じで、そこに僅かな泣き顔が含まれた。

 電車の遅れを謝るアナウンスが入ると、三十分の遅れで電車がホームに滑り込んできた。通り過ぎる窓から乗客の多さがうかがえる。

 祈るような気持ちで開くドアを待った。実際は気にする余裕はなくて誰かに背中を押されて流れ着いた車内の隙間に収まった。

 滑らかに電車は走り出す。大きな背中や肩が僕の周りを囲んでいた。隣にいた男性の不機嫌な顔は電車の遅れによるものだろう。

 何事もなく電車は走る。あまりに何もないので香水の効果はわからない。少し不満に思っていると触られた。電車の揺れで手の甲が当たったという感じではなかった。包み込まれるような感触は掌に思えた。

 中性的な顔のせいでパンツルックの女性と間違われた? 疑問に思っていると徐々に行動が大胆になってきた。触る段階を超えて揉み始めた。それに合わせて抑えるような息遣いが耳に聞こえてくる。右耳がほんのりと温かくなり、微風のようなものを感じた。

 尻を揉みながら顔を近づけている!? どうすればいいのだろう。女性が痴漢の被害に遭って困る状況が身に染みる。僕は男性なのに焦って考えが纏まらない。

 この場から移動したいけれど、男性の壁に囲まれて身動きが取れない。

 車内に軽い振動が伝わって電車が減速を始めた。駅が近いのだろう。乗客が降りれば空間ができて振り返るチャンスが生まれる。それにしてもいつまで尻を揉むのだろう。思っていると手が前に回り込むような動きを始めた。遠ざけようと可能な限り、下半身を前に突き出した。

 股間に届く寸前で電車が停まってドアが開く。できた僅かな隙間を利用して僕は身体を回転させた。すぐに乗車する人々で身動きが取れなくなった。

 僕は痴漢と身体を密着させて向き合った。相手はセミロングで艶やかな黒髪に理知的な細いフレームの眼鏡を掛けていた。その奥に見える目は綺麗な二重で少し潤んでいるようだった。

 信じられないことに痴漢は二十代後半くらいの女性で、かなりの美人に思えた。あとスーツを着ていても迫り出した胸が際立つ。僕の顎の辺りに迫っていて僅かな振動でも当たってしまいそうになる。立場が逆転する憂き目は絶対に避けたい。

 僕は思い切って小声で訊いた。

「僕は男ですけど」

「可愛い男の子と認識しているわ」

 女性は目を細めると意図的に胸を押し付けてきた。

「……当たっています」

「それが、どうかしたの?」

「こ、困ります」

 顔の火照りを感じる。赤面する姿を見られたくなくて頭を下げようとした。が、胸に顔を埋める行為と気付き、慌てて引き上げた。

「その反応、初々しくてゾクゾクする。チェリーなら気持ちいい体験、私としてみない?」

「……確かに体験したことがありません。初めてになります。痴女のお姉さんに会ったのは」

「この私が? これでも一部上場企業は古いわね。今はプライム市場の第一秘書なのよ。でも、いいわ。その反抗的な態度も。愛らしい言葉責めで……濡れてきた」

 どこが? とは訊かない。見てみる? と返されると本当に困る。見たいけど見たくないという感情で頭の中が爆発しそうだ。

「次の駅の近くにホテルがあるわ。休憩ならいいよね?」

「良くないですけど……僕も降ります」

 断ろうとして途中で思い止まる。

 祖父は香水を作った目的を語った。失敗作とも言っていた。実は成功していたと仮定すれば、この密室に似た状況が悪い方向に作用しているのかもしれない。

 電車が停まってドアが開く。女性は僕の手を握って引っ張るように外へと向かう。そこに高校の制服を着た男子達がホームから駆け込んできた。

 繋いでいた手が滑るようにして離れた。僕は車内に取り残され、逆に女性はホームで転びそうになって振り返る。

 電車のドアが閉まった。女性は怒ったような顔で追い縋り、流れる光景の先に消えていった。

 降り掛かる災難から逃れた。喜ばしいことではあるのだけれど、どこか残念に思う気持ちもあった。

 鮨詰めの状態を脱した。僕はドア横の壁に気だるげにもたれた。パーカーのポケットの中に手を入れて円筒状の香水を指で転がす。目的の駅に着くまで、ぼんやりと過ごした。

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