第2話 祖父の香水

 広い和室に通された。祖父は座椅子に腰を据えると小豆色の長机に片肘を突いた。白髪交じりのオールバックを突き出すようにして正面の僕を睨んできた。

「話してみろ」

「お時間は大丈夫でしょうか」

「何故だ?」

「仕立ての良いスーツをお召しになっているので、どこかへ外出する予定があるのかと思いまして」

 祖父の表情が苦々しいものに変わる。その直後、目頭を押さえた状態で軽く頭を左右に振った。

「その予定は無くなったから気にするな。あと堅苦しい敬語も無しだ」

「わかりました。それでは改めて僕の話をします。その前に確認したいのですが、定年前の職業は調香師ですよね」

「臭覚は衰えていない。今も現役の調香師で一流の名に相応しい、はずなのだが……」

 祖父は語尾を震わせた。目を伏せると大きな溜息を吐いた。

「そう、ですか。その一流の腕を見込んで僕に合う香水を作ってくれませんか。この体質というか。体臭による悪い効果を抑え込めるようなものができれば――」

「それは無理だ」

 一言で断られた。耳で聞いた通りであっても訊き返さずにはいられない。

「まだ試してもいないのに、どうしてわかるのですか」

「拓光、よく聞け。その無臭に近い体臭に興味を覚えた時期があった。会社にある、ありとあらゆる香料を使って試したが、模倣もほうは困難を極めてさじを投げた。要するに解明できないものに対抗する手段はない」

「……そうですか」

「それだけが理由ではないが」

 祖父は白い歯を見せた。豪快な笑みで腕を組む。

「他にどんな理由があるのですか」

「女に嫌われる香水を作っても仕方がない。俺は今でもプレイボーイを気取りたい。いや、独り身になった今だからこそ、若い女の身体を貪りたいのだ」

 孫の前で堂々と言い切った。僕は床の間の横にある大きな仏壇に目がいった。

「男は枯れたら終わりだ。下半身も現役を貫く。それでこそ日本男児というものだろう。違うか、拓光」

「わからないでもないですが。その、僕が香水を求めた理由も、彼女が欲しいからなので」

「途轍もない夢だな」

「そこまで言わなくても」

 希望で膨らんだ胸の一部が破れ、急速に萎んでいくのを感じた。僕の落胆した姿に祖父は取り繕うように笑って出ていった。

 暗に帰るように促されているのだろうか。僕はふらりと立ち上がると、ぼんやりした状態で障子を開けた。履いてきたスリッパは無視して長い廊下をトボトボと歩く。

「勝手に帰るな!」

 後ろからの怒鳴り声に足が止まる。

「そういう意味じゃないの?」

「違う。これを拓光にやろう」

 祖父は握っていた筒状のガラス容器を勢いよく差し出した。

「これって香水だよね」

「そうだ。俺が女を虜にする為に作り出した最高の逸品、だと思ったのだが失敗作だ。香りが良いだけでは話にならない。新聞の集金にきた若い女に試してみたが効果はさっぱりだ。魅了には程遠い」

 受け取った香水はスプレー式だった。香りは良いらしいので気休めくらいにはなるかもしれない。僕は本心とは言い難いまでも、ありがとう、と口にして笑った。

「女だけが人生ではない。将来を見据えてしっかり生きていくのだぞ」

「わかりました。取り敢えず、大学の勉強を頑張ります」

 いちじるしく説得力に欠ける祖父の言葉に力なく笑って答えた。


 祖父に語った言葉の通り、僕は大学に向かった。電車は使わず、キャンパスまで黙々と歩いた。

 朝食の時間は過ぎたのでブランチになるのだろう。大学内のカフェで腹ごしらえを済ませた。その後は気持ちを切り替えて三限、四限、五限と眠気に抗いながら何とかこなした。

 講義棟から出ると鮮やかな夕焼け空になっていた。白い三日月の部分だけが抜け落ちて不思議な感覚になる。少し現実から離れた状態で土手の道をのんびり帰る。悪くない選択に思えた。

 どうしてだろう。今朝の女子の言葉が蘇り、頭の中で反響した。


 逃げんな! 戻ってこい!


 危険を回避した。それは逃げたことになるのだろうか。

 パーカーのポケットに手を入れた。祖父から貰った香水の瓶を取り出しててのひらに少量を掛ける。鼻を近づけると甘くて爽やかな匂いがした。未知と言える香りに僕はすっかり惚れ込んで夢中になって嗅いだ。

 合間に目的を思い出し、急いで両方の掌を擦り合わせた。その香りを首筋や手首に移した。この行動に意味があるとは思わない。

 でも、一歩を踏み出す勇気を貰った。

「僕は逃げない」

 力強い歩き方で僕は駅へと向かった。

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