拓光君はいつも匂いに振り回される

黒羽カラス

第1話 タチの悪い体質

 ウグイスの鳴き声が聞こえる。三月の頃に比べると、かなり上手くなった。二か月の練習期間は伊達ではない。

 僕は心安らかな状態で瞼を開けた。部屋全体がほんのり明るい。視線を下げた先のカーテンは朝陽を受けて光って見えた。

 枕元のスマホで時間を確かめる。午前八時二分と表示された。高校の時なら朝食抜きで家を飛び出している時間になる。でも、今は違う。大学は自分の生活リズムに合わせて時間割を作ることができた。朝が弱い僕としては本当に助かる。

 ゆったりした気分で上体を起こす。両腕を水平にして力いっぱい伸びをした。

「ん?」

 机に目が引き寄せられた。通学用の黒いリュックが置いてある。いつもなら出掛ける直前に出して必要な物を入れるので少し気になった。

「ま、まさか!?」

 慌ててベッドを下りた。机に駆け寄ってリュックを開くと必修科目の教科書が入っていた。

 突然の雷に打たれた。衝撃と共に『一限目』という言葉が頭の中に閃く。

「今日だよ!」

 部屋着を脱ぎ捨て通学用の私服に着替えた。最後にパーカーを羽織り、リュックを背負って部屋から飛び出す。そのままの勢いで階段を駆け下り、キッチンを無視して突っ切った。

「朝ごはんは?」

「食べてる時間がない!」

 後ろの母の声へ怒鳴るように返した。緩んでいたスニーカーの靴紐をきつく締め直す。

「なんで起こしてくれないんだよ」

「なんでって。拓光たくみ、頼んでないでしょ。どうせなら隣の部屋の彩音あやねに言えば?」

「無理だよ。二人が、部屋に入ると不機嫌に……もう、いいよ! いってきます!」

「向こうでちゃんと食べなさいよ。朝ごはんはとても大事で――」

 続きそうな小言はドアの音で断ち切った。


 いつもなら運動を兼ねて土手の道を小走りでキャンパスに向かう。認めたくはないけれど、僕は細身の上に身長も低い。顔が中性的で高校の時には告白をされた。相手が男子なので思い出してはいけない黒歴史になっていた。

 それとは別に風通しの良いところが気に入っている。このわけのわからない体質でも問題にならない。さすがに今はその選択だけはないが。

 全力の走りで最寄りの駅へ急ぐ。定期はないので券売機で切符を買い、改札を抜けた。電車の発車を告げる音楽が流れ始める。

 二番ホームに電車が停まっていた。ドアが閉まる寸前、息を切らして駆け込んだ。

 車内の目が、一瞬、僕に集まってドキッとした。数秒くらいで済み、大きな溜息が漏れた。

 僕はドア横に立ち、取り出したハンカチで顔や首を拭いた。腋の下までは無理なので泣く泣く諦めた。

 軽い振動で電車が動き出す。まだハンカチはポケットに入れられない。汗が出ている感覚がなくても顔や首に押し当てた。

 その行動が功を奏したのだろうか。車内に不満の声は上がらなかった。この状態を三十分、維持できれば大学のある駅へ無事に着く。再び全力で走れば九時の開始に間に合わなくても、二十分以上の遅刻に課せられる欠席扱いにはならないはず。

 心の中で言い聞かせている間に身体が冷えてきた。ハンカチをポケットに収め、それとなく乗客に目を向けた。

 混雑のピークを越えているのもあって、背や腰の曲がった人物が多く見られた。中にはスーツを着た中年くらいのサラリーマンがいた。重役出勤だろうか。

 少し離れた座席には茶髪の女子がいた。黄色いリボンのセーラー服で地元の高校とわかる。やや短めのスカートながら脚を組み、大きな欠伸を隠そうとしない。実に堂々とした遅刻に思えた。

 目を窓に移す。流れる光景をのんびりと見て過ごす。そう決めた矢先に声が上がった。

「おい、そこのチビ」

 耳には聞こえていた。老人が多い車内なので僕の身長が極端に低いわけではない。他の誰かだと思っていると露骨な足音が近づいてきた。

「チビはおまえしかいないだろ!」

「ぼ、僕ですか!?」

「そうだよ。こっち、見てただろ」

 茶髪の女子は鼻筋に皺を寄せた。ミント系のガムを噛んでいてもタバコ臭さは消えていなかった。

「あなたを見てた、というよりも車内の様子が、少し気になって」

「違うね。あれはガン見だろ。スカートの中が気になったのかよ」

「そ、そんなこと、思ってもいませんよ。本当ですし、僕はそんなことを」

 床を鳴らされた。女子とは思えない大きさで反論を許さない。

「うるせぇんだよ。ただのガン見じゃねぇだろ。頭の中でエロいことされるってヤツ。視姦しかんだろ、そうなんだろ!」

「あ、ありません。絶対にないですよ! 神に誓ってウソじゃないです!」

 全力の否定に女子の全身が震えた。目を剥いて殺意にも似た感情を滲ませる。

「魅力がないってことかよ! 生足なんだよ、こっちは! 意識しねぇわけがねーんんだよ!」

「少し、落ち着いて。ね、車内には他の乗客もいることだし、その、皆に迷惑が掛かるよ」

「どこが? 誰もなーんも思ってないだろ」

 女子は威嚇するような目を他の乗客に向ける。視線が合うのを嫌って一様に顔を背けた。中には車両を移る者までいた。

 電車の速度が緩やかに落ちてきた。大学まであと二駅。当然、降りるタイミングではない。

 ドアが開いた。僕は躊躇ためらわずに飛び出した。

「逃げんな! 戻ってこい!」

 そんな声を振り切って階段を駆け上がる。追い掛けられる恐怖もあって改札を抜けても足を止められない。

 コンコースを抜けた辺りで、ようやく立ち止まった。後ろを振り返ると女子の姿はなかった。瞬く間に気が抜けて、情けない心の声が漏れ出した。

「必修なのに、欠席なんかして、どうするんだよ……」

 今更ながら自分の体質に怒りが湧く。どうにもならないことではあっても、改善したいという強い欲求に駆られた。

 またしても閃いた。今度は悪い意味ではなくて天啓に近いと感じた。

 一方に向けて歩き出す。この近くの一戸建てに祖父が一人で住んでいた。現役の頃は調香師をしていたらしい。食品ではなくて香水だと自慢げに言っていたことを何となく思い出す。

 孫である僕が頼めば、この体質を和らげる香水を作って貰えるかもしれない。その考えは徐々に膨らみ、治ることも夢ではないように思えた。


 大きな松の枝をひさしにした門扉の前に立つ。横にあるインターホンを押した。外にまで聞こえる軽やかな音に胸が弾む。

『誰だ? 押し売りなら帰れ』

 インターホン越しの声は厳しく、威圧感が凄まじい。気圧けおされながらも僕は口を近づけた。

「ご無沙汰しています。孫の拓光たくみです」

『拓光か。用向きはなんだ?』

「ここでは、少し言いにくいことなので」

『わかった。話を聞こう』

 門扉の鍵の外れる音がした。猛獣の檻は言い過ぎかもしれないけれど、僕は慎重になって行動することを心に決めた。

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