【要約版】それでもあなたは自分が私の父親だと言う

馬永

第1話(完結)

序章

 小春日和の午後、校舎の背には雲一つない青空が広がっている。

 中央の生徒用の入口からは子どもたちがわらわらと出てきた。皆、ランドセルがまだ大きい。歓声を上げる子、にこにこしている子、正門に向かって運動場を駆けだす子も少なくない。

 ピンクのランドセルの女の子が出てきた。一人ぼっちだ。入口近くの花壇には目もくれずに女の子は早足のまま運動場を横切っていく。鮮やかな黄色のワンピースとは裏腹に、その表情は今にも泣きそうだ。

 「待って。ちょっと待ちなさい。」

 一人の女性が女の子を追ってきた。淡いグリーンのスーツにはまったく不ぞろいな茶色いサンダルで走ってくる。

 「もういい。」

 女の子は女性から逃げるように、正門へ駆けだした。

 「もういいの。来ないで。」

 駆けるといっても女の子の歩幅は小さく、すぐに女性に追いつかれた。後ろから手をつかまれ、そのまま女性の方に振り向く形となった。

 「お願いだから…、話を聞いて。」

 女性は視線を女の子と同じ高さにした。まだ肩で息をしている。

 「ルカちゃん、やっぱり足、速いね。先生、追いつけないかも、と思っちゃったよ。」

 女性、先生は息を整えながら、笑いかけた。

 ルカちゃんと呼ばれた女の子は先生を見つめた。先ほどの表情とは違って笑顔になった。それでも、大きな瞳に涙が溜まっている。

 「大丈夫。先生がお弁当、作ってあげるから。遠足の日もいつもどおり学校に来ていいんだよ。大丈夫だから。」

 ルカは大きくかぶりを振った。先生は続ける。

 「大丈夫。お母さんには何も言わなくていいから。」

 「もういいの。」

 ルカはさっきと同じ言葉を繰り返す。

 先生はルカをそっと抱きしめた。

 「ごめんね。」

 -何で先生が謝るの?悪いのは私だよ。



第一章 

 最近、しばしばルカの家に泊まりにくるようになった俊介は

 「いったいどんな食生活をしてきたん?」

 と口癖のようにつぶやく。

 職場の違う関俊介との距離が近くなったきっかけは動物園だ。それまでも営業担当者の飲み会で何度か一緒になることがあり、その日は解散後に電車も一緒になった。その際、何かのきっかけで「動物園に行ったことがない」という話になったのだ。

 「えぇっ!家族でなくても、学校の遠足とかで行きそうなもんだけど。」

 「遠足自体、行ったことがないんです。」

 「へ?」

 「すみません。あんまり子どもの頃の記憶がないんですよ。」

 「まぁ、今になって人生初動物園ってのもオツだね!」

 という流れから、二人で5月のGWの一日を利用して、上野動物園に行くことにした。俊介と仕事以外で休日に会うのは初めてだった。

 上野駅に時間通りにやってきた俊介はジーンズにグレーのパーカーで、リュックを背負っていた。どんな格好したらよいか迷ったルカは、グレーのパーカーに薄手のトップスを羽織っており、やはりリュックを背負っていた。背が自分と同じくらいの俊介のラフな服装を見て、ルカは可愛さを覚えた。

 昼時になった。

 「こういうところってお昼ってどうするんですか?売店で何か買います?」

 「何言ってんの?動物園だよ。遠足だよ。」

 俊介はルカを休憩所に案内して、着いたテーブルの上にリュックの中身を並べだした。

 「遠足って言ったらお弁当でしょう!」

 大きめのタッパー2つと水筒、キャンプ用のコップまで出てくる。蓋を開けたタッパーにはラップに包んだおにぎり、ナゲット、卵焼きが詰まっていた。

 「えっ、自分で作ったの?」

 「大したものは作れなかったんだけど。」

 「やばい。」

 「あなたも何か作ってきたらどうしようとも思ったけど、自炊一切しないんだったよね。じゃあ、被ることはないだろうと。」

 「ごめんなさい、そんなこと考えもしなかった。」

 「いや、謝るとこじゃない。被ってないならよかった。あとはお口に合うかしら。もしかして、人の握ったおにぎり、食べられない人?」

 「確かに潔癖ですけど、それはない。」

 「よかった。もしかのことも考えて、あまり作ってきてないけど、よかったら一緒に食べない?」

 「ありがとうございます。喜んでいただきます。」

 確かに、飲み会の席で自分が料理できないことや潔癖であることを話した記憶はある。手作り弁当だけでなく、それを俊介が覚えてくれていたことに驚いた。彼のノルマ達成率の高い理由もわかる気がする。

 「あぁ、美味しかった。ごちそうさま。」

 「お粗末様でした。」

 特におにぎりが美味しくて、ほとんどをルカが平らげてしまった。

 「手作りのお弁当、初めてかも。」

 「はぁ?いったいどんな食生活をしてきたん?」



2

 ルカは昔からよく外国人に間違えられる。色白で目が大きく、瞳も茶色だ。栗毛色の髪はいつカットモデルのバイトが入ってもいいように伸ばしていることが多い。

 ルカの本名は福永瑠伽、普通に日本人だ。但し、中学の時から正式な書類以外はすべて、「ルカ」と書くようにしている。小学校の書道の時間、筆ではうまく書けないこともあって、ルカ本人は自分の「瑠伽」という漢字が嫌いだった。


 横浜市の公立中学、私立の女子高を経て、都内の大学卒業後に今の会社に就職する。就職活動を始める頃からルカが最も重要視したのは「内定を出してくれそうなところ」で、自分が就きたいかどうかは二の次だった。専攻した芸術のことより、学生時代のアルバイト、コンパニオンやモデル、ビル警備員や道路工事作業員、ファーストフード販売員など

 「どんな仕事でも、最後まできっちりやり遂げます。結果も出します。」

 と多種多様な経験を売りにして片端から面接を受けまくった結果、業界内では大手と呼ばれている教科書の出版会社から内定をもらった。支局は全国にあり、しばしば転居を伴う異動もある。

 4月の研修後、発表された配属先は地元の神奈川で、ルカは学校を始めとする教育施設へ卸す教科書や教材販売の営業担当となった。


 実際に目にする学校の現状、教師たちの人柄というのは、入社前のルカの想像を軽く超えていた。無論、全ての学校現場がそうではないし、出会えてよかったと思える教師もいるとはいえ、業者側であるルカに対し、世間一般からは相当ずれた倫理感を当然の権利として無理強いしたり、抱えるストレスをそのままぶつけてきたりする教師が少なからず存在することには閉口した。

 4年も経つと、教師たち相手にいちいち本気で落ち込むことも少なくなり、自分が女性であることによる面倒さにも耐えられるようになった。休日、職場以外で会うことを指定してくる教師は要注意だということは身に染みてよくわかった。食事の支払いは当然の如く、男性教師の中にはそれ以上のことを求めてくる者もいた。

 とはいえ、実際に面倒なのは、男性教師よりも女性教師で

 「子供も産んだことも、育てたこともない癖に!」

 と言い捨てるのは常に女性教師だった。


 入社から4年後、隣の神奈川第一支局、通称、横浜支局へ異動となる。この横浜支局時代になると、最初の4年で感じていた「心が削られるような感覚」はもはや普通となる。

 同期入社の、既に退職した友人からは

 「まだ仕事、辞めないの?大丈夫?」

 としばしば聞かれた。ルカが会社を辞めようと思わない最大の理由は、

 -自分のような人間はこの仕事を逃したらもう二度と定職には就けない。

 という思いだ。会社に対する忠誠心は誰にも負けないことも自負している。それもあって、会社から課せられるノルマはすべて達成してきた。残業も休日出勤も当たり前だった。後年、会社が全社的に「就業規則を守るように」と言うようになってからは、残業も休日出勤も一切つけないようにした。つけないだけだ。いつしか、営業成績は神奈川2つの支局でもトップになっていた。

 横浜支局での勤務も約4年だった。入社9年目をむかえる頃にルカは都内の支局へ、営業チームのリーダーとして異動となる。ここ数年続いていた全国的な営業不振を挽回するため、特に都内5支局の数値を向上させるという会社の思惑で、全国から営業成績上位者が集められた。ルカとは別の支局へ福岡支局から関俊介が異動してきたのも同じ理由だ。


 都内の支局への異動時、通勤距離の関係で、ルカは会社から転居を許される。それはつまり、家賃援助を受けられることを意味した。

 2つの神奈川支局時代、会社への登録では、ルカは横浜市の実家に住んでいることになっていた。この登録上の実家は祖父の家、ルカが中学から高校まで住んだ家だ。高校卒業後、大学在学中の4年間、ルカはこの家にほとんど帰っていない。たまに必要な荷物、衣服を取りに戻る以外、友達の家やネットカフェを転々としている。これが「就職できるならどこでもいい」に拍車をかける理由の一つとなっていた。就職して一人で暮らせる家を確保したかった。

 入社時にルカは地方への配属を望んでいたが、その理由は、実家住所から通えない支局への配属の場合、会社からの家賃援助が受けられるからだった。神奈川支局に配属になり、見事にその思惑は外れた。それでも、入社後にルカがやろうとしたのは賃貸契約だった。自腹を切ってでも一人暮らしを始めたかった。

 初めての物件探し、初めての仲介業者への相談、ルカが希望したどの物件も…契約できなかった。保証人がいなかったのだ。学生や新社会人が初めての一人暮らしを始める際、賃貸契約書の保証人欄の記入は保護者や親戚に依頼することが普通である。仲介業者からは、祖父は年齢的に保証人にはなれないと言われた。両親の名前をルカが偽造して書くことはできたが、連絡先までは知らなかったし、知っていたとしても書きたくなかった。

 業者の担当者にお願いして、保証人なしでも貸してくれる大家さんを探してもらい、なんとか契約できた部屋は、神奈川県郊外、女性が一人で住むには治安が不安な地域の、アパートと呼ぶのも憚られる物件で、駅からは遠く、壁は薄く、ユニットバスは常に異臭のするものであった。

 とはいえ、初めての自分だけの空間は嬉しかった。駅近くの花屋で一本だけ花を買ってきて部屋に飾るというのがルカのささやかな贅沢になった。この部屋に約8年間住んだ。


 都内への異動で、会社が物件を借りてくれることを期待した。しかし、会社は上限付きで家賃の40%を援助してくれるだけで、契約してくれるわけでも、保証人になってくれるわけでもなく、やはりルカが借りられる物件はなかった。

 仕方なく異動後もしばらくは神奈川から通う。最初の一ヶ月で、通勤に片道2時間近く費やすことが、精神的にも肉体的にもかなりの負担になることがわかった。実際に何度か電車内で気を失って倒れてもいる。

 そのため、空き時間を利用して、細々と都内での物件探しを続けた。

 「私なりにきちんと働いてきた実績もありますし、貯金も少しはできました。それではダメなんですか?」

 「特に独身女性の方の場合、保証人がいなければまず無理です。大家さんの問題なんですけどね、年配の方が多いですし…。有料の保証人代理サービスもありますけど、ほとんど機能してないのが現状です。」

 どこの仲介業者に聞いても、何度足を運んでも、8年前にも聞いた言葉を繰り返されるだけだった。

 いっそのこと、賃貸ではなくマンション購入を検討してみたところ、さらに厳しい言葉を投げつけられた。

 「保証人がいないのに、ローン組むなんて絶対無理っすよ。」

 「頭金を多めに入れるとかで、何とかならないですか?」

 「テレビでよく観る芸能人ってすっごい稼いでいるように思いません?実は、あの人たちでもローンは組めないんです。芸能なんてしょせん水商売ですから、保証がないじゃないっすか。だから、一括で買うか、ずっと賃貸しかないらしいっすよ。」

 漸く、爪の先ほどの貯金ができたくらいのルカに、一括でマンション購入など、絶対に考えられることではなかった。

 「すみません。私がこんなのだから、いけないんですね。」

 いつも通り、自分が悪いということで納得しようとした。

 半ば諦めかけていた頃に、たまたま結婚退職した同期にこの件について話したところ、保証人、姉になると言ってくれた。この元同期は名前が瑠美、瑠伽と「瑠」が同じで、しかも既婚者でルカと名字が違うことに違和感もなく、その好意に甘えさせてもらうことにした。

 こうして、狭いなりにも駅近の1K、オートロック、そして何よりバス・トイレ別が嬉しい物件が借りられた。



3

 都内に5つある支局から毎月、各支局の業務代表者が丸の内の本社に集められ、代表者PJ会議が開かれる。この中の営業PJで、ルカはPJリーダーを任された。ほぼ毎回、会議後には有志とは名ばかりの飲み会があり、お酒の飲めないルカはリーダーとして参加させられている。俊介と話をするようになったのは飲み会からだ。俊介は別支局の営業チームの代表だった。二人で動物園に行ったのはこの1年後、ルカ31才、俊介34才のときとなる。


 ほぼ毎食を自炊していると言う俊介から「うちに食べにくる?」と誘われたのは、動物園での初デート後、たまの休日に一緒に出掛けるようになっていた初秋の頃だ。

 俊介の部屋は、ルカの想像以上にきちんと整頓されていた。お互い30才過ぎの一人暮らしとは思えない、ワンルームに近い1Kを借りている。借りるときに最優先したと言うだけあって、1Kにしてはかなり機能が充実したキッチンには、ルカが見たこともないような調味料がたくさん並んでいた。

 その日の夕飯の献立は、キノコの炊き込みご飯、アルミホイルで包んでバター焼にした鮭、サツマイモとなめこの味噌汁。

 「ぜんぶ美味しいんだけど。」

 「ありがとう。旬のものを旬な時期に食べると何でも美味いんだよ。」

 そんな考え方をこれまでしたことがなく、正直、ルカは感動を覚えた。この頃になると、二人だけの時にルカはもう敬語は使ってない。

 「そうなるだろうな」と思っていたのも確かだが、食事の感動が「いいか」と後押ししたのも確かで、ルカは自分から言った。

 「今日、泊ってもいい?」

 「いいよ。」

 「でも、私、ああいう、その、男女が泊ってすることができないんだけど。」

 「いいよ。」

 「でも、一緒に寝ていい?」

 「いいよ。」

 「理由とか聞かないの?」

 「うーん、言いたい時に言えばいいんじゃない?」

 「ありがと。」

 その後、仕事終わりの遅いルカの部屋で、俊介が手料理をふるまうことが増えていった。ルカの家は、玄関を開けたらすぐ台所だ。

 「ただいま。」

 「おかえり。」

 大抵は先に仕事を終わらせた俊介が、台所で夕飯を作りながら迎えてくれる。


 ルカが都内に異動してから3度目、俊介と過ごすようになって2度目の冬、年始を一緒に迎えようという話になった。

 ルカは年末年始を人と過ごした記憶がない。中学、高校を過ごした祖父の家では正月を家で祝うという習慣がなかった。

 一代で会社を興した祖父は、大晦日から元旦にかけて得意先へのあいさつ回りで忙しく、いつにも増して家にいなかった。日本人離れした背丈と風貌の祖父には、綺麗という言葉がよく似合う、いつも周囲を明るく照らすような人だった。

 祖父の会社の役員だった祖母は、祖父以上に1年のほとんどを会社で過ごしていた。仕事に打ち込むという共通点はあるものの、祖母は祖父とは真逆のタイプで、常に着物という古風な外見で、事務方に徹し、会社の誰をも寄せ付けようとしなかった。いつも遠くを見ているような面持ちで、周りの人間が話しかけたり、近づいたりすることを躊躇するような、独特な雰囲気が漂う人で、それはルカの母親にも継がれている。

 そんな祖母が家事をやることは決してなく、掃除と洗濯はヘルパーさんを雇っていた。食事は、祖父が毎晩のように買って帰る出来合いのお惣菜か、会社から持って帰るお土産が常だった。食事について祖父が祖母に何か言っているのを聞いたことはない。

 その祖母はルカが高1の時に亡くなった。

 この頃から、ルカはアルバイトに励むようになる。遊ぶためのお小遣いではなく、将来のための貯金を考えていた。祖父の血なのか、色白で目が大きく、栗色の髪のルカは、高校に入ってから、イベントコンパニオンや美容院のカットモデル、瞳やまつ毛といったメイクのパーツモデルを頼まれるようになっていた。人前に出るのには抵抗があったが、就職のための大学進学に必要な資金作りに、こうした話を受けることにした。それまで髪の毛は自分で切っていたので、美容院のカットモデルは一石二鳥となる。高校から大学卒業まで、ルカの年末年始は毎年、友達の実家の神社での巫女アルバイトで忙殺された。


 12月30日、会社が休みに入るとすぐにルカは俊介の部屋を訪ねた。俊介が

 「初めてのお節料理に挑戦する!」

 と宣言したのだ。料理するには台所、調味料の充実度から絶対に俊介宅が向いている。二人で必要な材料を買い出しに行き、その日の夜から仕込みに入り、31日は朝からお節料理を作った。といっても、ルカが手伝うのはいつも通り、食器の準備や洗い物だけだ。包丁と火がどうしても自分では扱えない。

 夜には年越しそばを食べ、のんびりとテレビを観ながら過ごした。

 元旦の昼頃に起きて、お節料理を広げた。雑煮は茹でた餅の入った白味噌と焼いた餅の入ったお吸ましの両方を俊介が作ってくれている。

 お腹をさすりながら、二人で近所の神社に初詣に出向く。夕方になっていたとはいえ、元旦の神社はまだまだ賑わっていた。二人でお賽銭を投げ込み、願掛けをする。ルカが顔上げると、横の俊介はまだ目をつぶったまま真剣に祈っていた。その横顔を見ながら、

 -帰省しないと言い出したのは、私が昨年の年末年始を一人で過ごしたことを気にしてくれたのかなあ。

 そう思うとルカは泣きそうになった。

 「何をお願いしたの?」

 「言うわけないじゃん。」

 「けち!」

 「そういう問題じゃなくて、言うとご利益がなくなるの。」

 おみくじではルカが「大吉」、俊介は「凶」だった。



4

 ルカが就職して2年目の夏、祖父が亡くなる。猛暑の中の告別式で、祖母の時には来なかった母親を見た。

 「まだ生きてたんだ?」

 十数年ぶりに会ったルカに対し、母親が発したのはこの一言だけだった。


 式から数日経った平日の正午過ぎ、ルカの携帯電話が鳴った。

 「今すぐ、横浜の家に来な。」

 思わず伸びた背筋に汗が流れる。午後の予定を何とかメンバーに代わってもらい、取るものもとりあえず祖父の家に着くと、汗だくになっていたルカとは対照的に、全身真っ黒な服に身を包んだ、涼しげな母親がそこにいた。黒い服はいつものことで、喪に伏しているわけではない。

 促されて入った応接間には、黒いスーツ姿の女性がソファにかけていた。女性はルカを見ると

 「弁護士の大塚真麻(おおつかまあさ)です。」

 と名刺を差し出してきた。きれいに揃えた前髪と後ろできっちり束ねた髪が見て取れる。控え目なメイクや整えた眉が聡明そうな顔によく似合っていた。

 座るなり、母親が切り出した。

 「あのさ、私の分のパパの財産でマンション買うから。」

 昔から母親の言葉数は少ない。顔をルカの方に向けてはいても、視線が合っているのかどうかわからないのも変わっていない。その大きな目も真っ白な肌も母娘はそっくりだった。

 「私の方から説明いたします。」

 大塚弁護士が話しかけた時には、母親はもう立ち上がっていた。

 「娘なんだし、あんたがやっといて。」

 言い捨てると、さっさと部屋を出ていく。煙草を吸いに行ったのだとルカは確信した。

 「お母様…、春香様からはまだ何もお聞きになってはいませんか?」

 「聞くも何も、来いと言われただけですので。」

 大塚弁護士は一瞬だけ困ったような表情を見せたが、すぐにそれをかき消した。

 「では、改めまして、私の方から説明させていただきます。」

 大塚弁護士が話してくれたおかげで、ルカにも大体のことは理解できた。

 「要は、母の代わりに相続の手続きを私が全部やればいいんですよね。母の取り分でマンションを購入する…、その手続きも私がやるということですね。」

 「はい。お爺様の会社が春香様名義のマンションを購入しますので、それ以外の遺産相続に関しては口を挟まないでほしい、という会社経営陣からの申し出です。本当は役員の方も本日同席する予定でしたが、お母様が断固拒否されたものですから。」

 「すみません。会社の方も母が今更出てきても困るでしょうしね。」

 「私はお母様に依頼されてここに来ているわけではないですし、本当は弁護士として、こういうことを言ってはいけないのですが…」

 大塚弁護士はここでルカを真っすぐに見つめ直した。

 「私も一人娘の母親ですので言ってしまいます。いくら孫であるルカさんに法的な相続権がないとはいえ、お母様は自分の相続のことしか気にされていませんでした。そんなお母様のために、ルカさんがいろいろやってあげる必要はないのではないでしょうか。」

 「いや、いろいろすみません。」

 「ルカさんが謝る必要なんてありません。」

 大塚弁護士は怒っているようだった。

 「とはいえ、ルカさんがやってくれないと、困るのは私たちなんですけどね。」

 娘に夕飯を作らなきゃと大塚弁護士はいそいそと帰って行った。その背中にルカは頭を下げた。

 -すみません。私が生まれていなければ、よかったんです。

 


5

 久しぶりに俊介の部屋に行った時のことだ。部屋に入った俊介を見て、ルカは思わず笑ってしまった。

 「えらい、えらい。自分の部屋でも履くようにしたの?」

 「うん?あぁ、スリッパ?」

 「めんどくさがってたくせに。」

 「すっかり教育されました。もうこれがないと気持ち悪い。」

 ルカは潔癖症である。外から帰ってきて、そのまま床を歩き回るが嫌なので、帰宅後はすぐにお風呂場に直行し、足を洗い、手洗い・うがいをしてから、きれいな靴下を履く。俊介には専用のスリッパを用意していたところ、いつからか、俊介も同じように、帰宅したらまず足を洗ってスリッパを使うようになっていた。

 「私、強制してないよ。」

 「いやいや、俺が歩いた後を片っ端から拭き掃除されたら、そりゃ傷つきますけど。」

 「ごめん。」

 「いや、謝るとこではない。合理的だと思ったから真似してみた。」

 俊介はきれい好きだ。床には髪一本落ちていない。調理の時に、使用した器具を洗いながら、料理ができる頃には洗い物も終わっているという手際も見事だった。

 「俊くんのそういうとこ、偉いよね。」

 「その言葉、そのまま返すわ。料理はまったくやろうとしないくせに、掃除と洗濯はむっちゃやるよね。」

 ルカの潔癖症は母親譲りだ。遺伝なのか環境なのかはわからない。

 

 ルカは1980年代半ば、日本経済がバブルに沸いていた頃に、静岡県で生まれた。当時、好景気のあおりもあって観光業が栄えており、町には新しい住宅地が増えていた。そんな住宅地を抜けた少し小高い丘の上に、ルカの育った家があった。遠くには海を望むこともできる。父親の実家だ。ルカの姓はこの頃、父親の「福田」だった。

 広い敷地内には、2棟の住宅のほかに納屋、奥には畑が広がっているのが見て取れた。手前の建物は比較的作りが新しい。その2階建ての立派な本宅に半ば隠れるようにして、古い木造の離れ、平屋があった。

 平屋は南側が玄関になっている。昔は土間だった靴脱ぎ場から上がってそのまま進むと、新しい台所のあるダイニングルームに出る。中はリフォームをしているのだ。台所から西に出ると廊下が伸び、廊下の北側がトイレと風呂場になっていた。廊下の南側、玄関から見て左の部屋が広めのリビングとなっている。

 小学校に入学するまで、ルカの生活の場は平屋のダイニング内、台所と廊下に出る間に引かれた1畳ほどのカーペットの上だけだった。一応、トイレには行ってもいいことになっていたが、それ以外、用もなくカーペットを出ることは許されていない。

 ルカの食事は、保育園や学校の給食がその日唯一となる日が多かった。母親はおよそ食事に無関心で、何日も食べないこともあれば、何食も同じものを食べ続けることもあるような人だった。冷蔵庫の中には飲み物以外ほぼ何も入っておらず、冷凍庫の中にはカップのアイスクリームだけがパンパンに詰まっている。

 「あんたも食べな。」

 時々、気まぐれにカップアイスや袋菓子を投げてよこしてくれる。

 「ありがとう。」

 ルカは笑顔で、そっとそれを受け取る。

 幼いころはどんなに気をつけても、こぼして、服や床を汚してしまっていた。そんな時には火のついたタバコが飛んでくる。

 「汚すな。」

 母親は潔癖症だった。

 物心がついた頃には、床掃除とネコの世話がルカの仕事になっていた。ルカが生まれる前から母親が飼っているネコは「ベリー」、ルカは「ベリちゃん」と呼んでいた。仕事のときは、カーペットの外に出ることを許される。床にタバコの灰やネコの毛が落ちているのが母親に見つかると、

 「ここ。」

 言葉少なに、頭を鷲掴みにされて、床に顔をぐいぐいと押し付けられる。

 ネコのエサやりが遅れたり、水の容器が空になったりしているのが母親に見つかると、

 「可哀そうだよね。」

 静かな口調で、顔を鷲掴みにされる。何度か包丁を突き付けられたこともあった。

 夜、母親が寝るためにリビングへ引き上げた後、空腹が辛いルカがカーペットの上でタオルケットにくるまって泣いていると、ベリちゃんがいつも頬を舐めてくれた。


 体が大きくなったからなのか、何がきっかけなのか、とにかく、小学校に上がった頃に母親から、ダイニング内は自由に動くことを許された。リビングやお風呂は変わらず立入禁止のままだったといえ、

 「これからはソファ、使っていいから。」

 と言われときは、飛び上がらんばかりに喜んだ。

 この頃から母親は週末に、横浜の実家に帰ることが多くなる。気分次第で帰るのが金曜になったり、土曜になったりするのだが、必ず日曜夜には戻ってきた。

 「あんたもおいで。」

 よほど機嫌がいいと、ルカも一緒に連れ帰ってくれる。これがルカの唯一の楽しみになった。福永の祖父の家では食事が食べられた。布団で寝られた。


 母親はルカが小学6年生の時にいなくなる。卒業を待たずして、横浜市の母親の実家に引き取られたルカに詳しいことは説明されないまま、公立中学への入学時から母方の姓「福永」を名乗るように言われた。

 -福田だろうが福永だろうが、福なんてどこにもない。

 ついでに本人はこの頃から「ルカ」と書くようになっている。



6

 年末年始に二人で数日を過ごしたときのことだ。布団の中で俊介が

 「あのう…」

 と聞いてきた。

 「なーに?」

 「キスから先とか…ダメ?」

 「うーん、俊くんが嫌とか、嫌いとかじゃないんだけど…。」

 「だけど?」

 「怖いんだよね。」

 「怖い?」

 「私、男の人が怖いんだよ。」

 「俺も?」

 「ううん。怖かったらここにいないよ。」

 「そうかぁ。」

 「してみる?」

 「いいの?」

 「わかんない。わかんないけど、俊くんだったらそうなってもいいとは思ってる。」

 いざ、そうなるとしたら、自分の意識が体から飛んでいくかもしれない、とも思っている。

 「うーん」

 「私はいいよ。」

 「いや、やっぱ、やめとく。そう言ってくれただけで充分だわ。」

 「ごめんね。」

 「いや、謝るとこでない。」

 俊介がキス以上のことを望んだのは、後にも先にもこれっきりだ。


 高校の卒業式を終えて、都内の私立大学の入学式を数日後に控えた、春休みのことだ。友達らが卒業旅行に繰り出す中、相変わらずバイト三昧の日々で、その日はいつもより帰りが遅くなった。

 ルカが中学から住んだ福永の家は横浜市の閑静な住宅地の一角にあった。立派な家が立ち並ぶ中でも、ひときわ大きな洋風建築のお屋敷だ。当時、母親の部屋もそのまま残されていたし、ルカには余っていた部屋、16畳もの広い部屋が与えられた。

 駅からは離れているため、祖父も、生前の祖母も運転手付きのハイヤーで通勤していたが、ルカは駅まで歩いて、私立の女子高に通った。夏には日傘をさして登校している。

 駅から大通りを渡り、住宅地に入っていくと、軽い上り坂が続く。車はほとんど通らない街路樹に、桜はまだまだ咲いていない。

 「おい、瑠伽。」

 車道の方から声がした。

 それを聞いた瞬間、ルカの体が動かなくなった。上空に飛んでいった意識が、上から自分を見下ろしている、以前にも経験したことのある感覚だ。

 街路樹の陰で気づかなかったが、薄水色の車体の低い、見知ったクラシックカーがそこに停まっていた。暗がりなのに、開けたウィンドウ越し、どす黒く脂ぎった顔に、ヘラヘラした笑みが張り付いているのがはっきり見えた気がする。

 「瑠伽、前よりもいい体になったな。稼げるところ、紹介してやろうか。」

 父親、福田雄二がいた。



第二章

1

 雄二は1962年、福田家の次男として誕生した。姉1人、兄1人、この兄は雄二が生まれる前に死亡している。家は兼業農家で、父親は役場に勤めていた。

 小学校に入学すると、体が学年で一番大きいこともあって、自分の言い分が通らないと暴れる、殴る蹴る、という手段で相手を黙らせることを常とした。特に、相手が自分よりも弱いと思ったときには徹底的に威圧した。低学年の頃から、母親にも手を上げるようになっている。それを見ても、父親は何も言わなかった。

 雄二が高学年のときに両親は敷地内に新居を建てるのだが、雄二の望むまま、旧居は取り壊さず平屋の建物すべてが雄二専用の家となった。

 中2で身長は止まり、体の厚みは正面からも横からもほぼ同じような体型になった。もとより授業はまったくわからないし、運動部で鍛えた男子の中には、雄二よりも大きくなる生徒、雄二の威圧に屈しない生徒が出てきたこともあって、学校を休むことが増えていく。同じように学校をさぼる数名とつるむようになり、自然発生的に彼らは雄二専用の平屋にたむろするようになった。

 夜遅くまで酒を飲んで騒ぐ姿や、朝になっても学校に行かない子どもたちを見ても、雄二の両親は何も言わなかった。深夜徘徊やバイクの窃盗など、何度か警察沙汰も起こしても、やはり何も言わない。6才違いの姉は高校卒業後に逃げるように上京し、ほとんど連絡がつかなくなる。

 高校には入学した。入学できた最大の理由は、卒業後の報復を恐れた中学の担任が、雄二の内申書と出席日数を改ざんしたからだ。入学後、平屋にたむろする数は増えていく。夏休みを境に、週末には男女を問わず、十数人が集まるようになっていった。但し、これは雄二に人望があったからではない。単に雄二専用の平屋が彼らにとって都合がよかったということだ。敷地が広いこともあって、中には車やバイクで乗り込んで来る者もおり、深夜まで大騒ぎしたり、飲酒のまま無免許で車を乗り回したり、さらには、シンナーを盗む、女子生徒を無理やり連れ込むなど、警察に厄介になる回数は増えていく。近所だけでなく、この地域全体に厄介者として名前が知られるようになり、父親はこの頃に役所の仕事を辞職した。

 高校を卒業しても定職には就かず、親に買わせた外国車を乗り回し、東京や横浜でふらふら遊び惚けていた頃に、福永春香と出会っている。北欧系で背が高く肌が真っ白な春香に対し、雄二は南米系で、立って並ぶと春香の方が背は高く、お嬢様とボディガードのような組み合わせに見えた。 

 福永春香は、変わった女子だった。バーで見かけた時は、いつも透けるような真っ白な肌を出した真っ黒な服を身に着けて、一人でカウンターの隅でタバコをくゆらしていた。雄二が何度声をかけても、春香はまるで何も聞こえていないかのように、視線を動かすこともない。

 「自分は家を持っている。ネコだって何だって飼える。」

 初めて春香が反応らしい反応を見せたのは、雄二がそんな内容を口にした時だった。

 「ネコ?」

 それから程なくして、春香は雄二の家、平屋に住み着くことになった。



2

 春香を呼び込むために、雄二は親に平屋を大々的にリフォームさせている。

 ネコは春香が自分で連れてきた。既に「ベリー」と名付けられたキジ模様の子ネコだった。この頃、春香は食事代わりにいつもブルーベリーを食べている。

 春香が来たことで有頂天になった雄二は、この時に塗装会社の見習いとして定職に就く。平屋の新しくなったリビングを自分たちの寝室にして、そこから毎日、仕事に通った。直に春香は妊娠し、それを機に二人は入籍した。式は挙げていない。

 1985年、19歳の春香は女児を出産した。雄二が23才の時のことだ。

 生まれた娘は母親の春香から「瑠伽」と名付けられた。体形が崩れることを嫌って母乳で育てていないとはいえ、当初、春香は育児に懸命に取り組んだ。様子がおかしくなるのは1歳児検診後、「イヤイヤ期」が激しくなり、春香の思い通りにならないことが増えてからだ。

 ソファの上だと落ちてしまうので、春香はルカをダイニングの床の上に放置するようになっていく。ルカがどんなに泣き叫ぼうと、春香は換気扇の下でタバコを吸うか、ソファで美術雑誌や通販雑誌を眺めていた。

 ルカが生まれ、春香が育児に追われるようになると、雄二は平屋を出ていった。もともと、春香が一切料理をせず、自分の食事さえほとんど食べないので、雄二自身の食事は本宅で母親が用意するものを食べており、ルカの夜泣きを嫌って、夜も本宅で寝るようになった。雄二に、育児に協力する気持ちは一切ない。ただ、春香とSexだけはしたかった。そのため、ゲームをするという建前で時々、平屋に顔を出した。そんな雄二を春香は出会った頃のように無視するため、何度か酒の力を借りて、自分の欲求を叶えることを無理強いしたことがある。雄二の酒癖が悪いことは当然、春香もわかっており、ここに住む条件の一つに、自分の前では酒を飲まないことを約束させており、春香に怖気づいていた雄二もそれを守ってはいた。代わりに、外で酒を飲んで、平屋に入ってくるようになったのだった。


 「顔にあざのようなものがありますが、何か心当たりありますか?」

 と担当医が、春香に聞いたのは3歳児検診の時だ。このことがあって、春香はルカの体にあざが残らないように気をつけるようになる。体罰はあくまで躾だという考えは変わらない。春香自身も母親からそうやって躾けられてきていた。

 当時、何をやらせても顔や周りを汚すルカには、台所横の床の上で、裸で生活するように命じていた。服も汚すからだった。保育園に登園するルカを、当時まだ珍しかった通販で揃えた服で着飾らせるのが春香の数少ない楽しみの一つとなっている。春香は大抵、通販雑誌か美術雑誌を見て終日を過ごしていた。

 美術雑誌を見ることはルカにも許していた。但し、雑誌を汚したときには当然、体罰で躾ける。

 「ここ、汚したろ?」

 頭をつかんで、雑誌に押し付ける。

 「ごめんなさい。もう汚しません。」

 最近、ルカは大抵のことは笑顔で応えるようになった。

 「絶対、また汚すだろ。もう見るんじゃねーよ!」

 ゲームをやるという口実で平屋に来た雄二が、春香と一緒になってヘラヘラ笑いながら、ルカを罵ることがある。春香にはこれは許せなかった。

 「あんたは何も言わなくていいから。」

 雄二がルカに手を上げるのは、酒に任せた雄二が自分に手を上げてくるよりも、もっと許せなかった。ルカは春香の所有物だ。言うことを聞く、聞き分けの良いルカは可愛い。そうでないルカはいなくてもよかった。



3

 小学校の入学式には、春香も母親として参加した。

 春香にとって運転手だけでよかった雄二は、派手なスーツを決め込んで勝手に参加している。雄二に似たせいで横にも大きいのは不満だったが、背が高く、ひと際色白のルカが、自分が選んだ薄紫のワンピースを着て、自分が選んだピンクのランドセルを背負う姿を、春香は世界一可愛いと思った。

 ルカが小学校に入学し、あまり服や床を汚さなくなると、ネコの世話を任せられるようになったので、週末、春香は一人で横浜の実家に帰るようになる。雄二が春香に生活費を渡したのは最初のほんの数か月で、収入の全くない春香は、今も父親のカードを使いながら、実家に帰る度に現金をもらっていた。


 1年の担任は伊藤良子先生、小柄でショートカット、私服で会ったら学生に見えそうな先生だった。

 ルカの通う公立小学校は校区内に規模の大きな児童養護施設を抱えており、様々な理由から素行が荒れる生徒も少なくなかったため、特に接し方が難しくなる5、6年生には経験豊富で体力もある30、40代の担任を置くことが多く、1、2年生のクラスは新人や定年退職前の教師が受け持つことになっていた。

 伊藤先生が最初にルカの様子を気にかけるようになったのは、給食の時間だ。ルカはトレイの上の食器に直接顔を近づけて、身を乗り出すようにして食べる。スプーンは最小限にしか使わない。その姿は動物のそれに似ていた。なのに、顔もトレイもほとんど汚さないという不思議な食べ方だった。

 家庭訪問は「忙しい」という理由で、母親とは会えなかった。それも何度か電話してやっと聞き出せたことだ。一応、家の場所を確認すために近くまで行ってみたところ、大きくて立派な家だった。

 5月の遠足で1年生は学校近くの神社に行った。ルカは遠足当日に休む。4、5、6、7月と給食費の未払いが続く。さらに気にかけて見てみると、ルカが常に笑顔であることに気づいた。怒ったり、泣いたりが全く無い。

 夏休みになって、伊藤先生は職員室で先輩教師らにルカのことを相談してみる。

 「うーん、給食費の未納といっても、お家は立派だったんだろ?経済的に困っているとは思えないなあ。」

 「私も見たことあるけど、いつもきれいなお洋服、着てる子だよね。」

 「そうなんです。ちょっと見るくらいではわからないと思いますが、挙動がおかしいというか…。」

 「もしかして、虐待を疑っているということ?顔や体にあざや傷を見かけたことはある?」

 「それはないと思います。」

 「確かに家庭訪問ができてない、というのは気になるけど、これも珍しいわけではないしなあ。母親は入学式には来ていた?」

 「はい。きれいなお母さんと…派手なお父さんでした。」

 「両親が来てたって?じゃあ、学年主任に報告するまでにもなってないよ。2学期にもう少し様子を見てみたら?」

 「はぁ…。」


 日本で初めての児童保護に関する法律は1933年に制定された児童虐待防止法で、この法律は1947年に制定された児童福祉法に統合される。児童福祉法は現在においても児童福祉の基本法とされているが、生活スタイルが複雑に変化していた当時、児童福祉法だけでは適切に子どもを保護できないという声が上がり続ける。

 2000年、児童虐待の防止等に関する法律が制定された。現在、一般的に児童虐待防止法と呼ばれるのはこの法律である。この第2条で、児童虐待は「身体的虐待」「性的虐待」「ネグレクト」「心理的虐待」の4つに定義された。これにより、特に、親が満足に子どもの世話をしないことも虐待、ネグレクト(育児放棄)にあたる、という認識が広がっていく。

 また、児童虐待防止法では、学校の教師は児童虐待の早期発見の責務を負うことになった。虐待が疑われる場合には、専門機関である児童相談所への通告義務もある。「通告ができる」ではなく「通告義務」である。おかしいと思ったら報告しなければならない。

 ルカが小学校に通った1990年代、日本では児童虐待に対する法整備はまだまだ不十分だった。



4

 2学期になり、運動会の練習が始まった。

 ルカは徒競走の練習では一位を取ることが多かった。玉入れの練習でも笑みを絶やさずに励むルカの姿を伊藤先生は見ている。しかし、運動会当日、ルカは欠席した。

 「どうしても気になるんです。」

 「運動会を休んだくらいで、いちいち報告されてもねぇ。」

 「運動会だけじゃありません。申し上げたように、春の遠足も休みましたし、給食費も未払いのままですし、あの家庭には何かしらの問題がある可能性があります。」

 同僚の教師たちへの相談だけではらちが明かないと思い、学年主任を飛ばして、職員会議で報告してみた。はたして、一番に反応したのは学年主任だった。伊藤先生とそんなに年齢が変わらないのに、かなり老けて見えるのは汚れた眼鏡のせいか。

 「うちの校区は、そんな子が何人もいることは伊藤先生もご存じでしょう。そうでなくても、今は遠足のことでやることは山積みなんですよ。」

 「彼女は今度の遠足も来ないと思います。」

 「福井さんが例え、遠足をお休みしたとしても、それはそういう家庭の方針ではないのですか?」

 「福田さん、です。だから、その家庭、お母さんとなかなか連絡が取れないんです。休むという連絡も一方的に切られたそうで、こちらから電話しても出てくれませんでした。」

 「一切連絡が取れない保護者だっていっぱいいます。連絡があった時点できちんとした保護者でしょう。本人が何か言っているわけではないんでしょう?」

 眼鏡越しに見える眉が吊り上がっている。

 「本人が言うわけないじゃないですか!何か起こってからでは遅いので、然るべきところに報告を上げるべきではないかと…。」

 「然るべきところ?」

 ここで初めて校長先生が口を開いた。伊藤先生から見て、学年主任がおじさんならば、校長先生はおじいさんだ。

 「先ほどから聞く限りでは、私はそこまでの状況ではないように思いますよ。確認できていることが少ないようですし。」

 「しかし」

 「新任の伊藤先生が熱心に子どもたちのことを見ているのは素晴らしいことだと思います。ただ、熱心さのあまり、一人の生徒にのめりこみ過ぎているようにも聞こえました。伊藤先生が今為すべきことは、クラスの全員を贔屓せずに見ることではないでしょうか。」

 「校長先生のおっしゃる通りです。伊藤先生はクラス全体をしっかり見るように心がけてください。その上で、福井さんですか?福井さんの保護者と連絡を取ってみて、話を聞いてください。次の議題に進みます。」

 「福田さん」と訂正もできないまま、唐突に学年主任に話を切られた。


 秋の遠足の一週間前、伊藤先生はクラスの生徒たちに「おたより」を配った。

 「今度の遠足はバスで遠くに行きますからね。今、配ったお手紙にはいろいろ遠足のお約束を書いています。おうちの方と一緒にしっかりと読んでください。」

 「はーい。」

 必ず「おうちの方」と言うように気をつけている。「おかあさん」や「おとうさん」とは言わない。クラスの中には本当の親と暮らしていない子、両親がいない子もいる。そういう子どもたちが生活している施設へは、遠足などの行事の日について予め連絡が行っており、お弁当やおやつは施設が用意してくれることになっていた。

 「せんせい、さよなら。みなさん、さよなら。」

 「さよなら」の「ら」を言う前に、教室を飛び出していくのはいつもの顔ぶれだ。伊藤先生はそんな生徒たちを笑顔で見送りつつ、ルカに声をかけた。

 「ルカちゃん、ちょっと待ってて。」

 まとわりついてくる少しおませな女子たちをやっと帰して、伊藤先生はルカの席に行くと、ルカはランドセルを背負って立ったまま待ってくれていた。

 「あのね、ルカちゃん。先生、遠足のことでルカちゃんに話があるんだ。」

 近くに行くと、黄色のワンピースやピンクのランドセルはきれいでも、頭から少しすえた臭いがすることに気づく。

 「今度の遠足、ルカちゃん、お休みしないよね?」

 ルカは笑顔のまま何も言わない。

 「遠足に行くの、いや?」

 「いやじゃない。」

 「春の遠足も、運動会もルカちゃん、急にお休みしたじゃない?あれって急に病気とかになったんじゃないよね?」

 「なってない。」

 「どうしてお休みしたのかな。どっちも楽しみにしているように見えてたよ。」

 ルカは黙ったまま、笑顔は変わらない。

 「本当のこと、教えてくれないかな。」

 「ママが行かなくていいって言うの。」

 「どうして?」

 「私がいい子じゃないからって。」

 目が潤んだように見えた途端、

 「もういいの。」

 ルカは踵を返して教室から出ていった。


 遠足当日、ルカは登校してきた。伊藤先生は教室に入る前のルカを捕まえて、他の生徒にはわからないように彼女のランドセルと用意していたリュックサックを交換させた。リュックにはお弁当と少しのおやつを入れてある。あれから何にも言わなくなったルカに伊藤先生は、母親には遠足のことを伝えなくていいから、当日はいつも通りに学校に来るようにお願いしていた。

 数日後、ルカの母親から学校に電話が入った。最初に電話を取り次いだのは学年主任だ。

 「担任が勝手に、保護者である自分に何の断りもなく、可愛い娘に弁当を与えた。何かあったらどうする気だったのか。こんな担任のいる学校には通わせられない。今の担任は解雇させるべきだ。これが通らない場合は、教育委員会に報告する。」

 という主張を、数時間にわたって続けた。実際にこの電話があった日からルカは登校していない。しかも、この電話は毎日のように続き、学年主任だけでは収まらず、教頭、校長先生へと取り次がれていった。担任とは絶対に話さないと言う。電話は常に一方的であり、母親の都合で昼夜を問わずかかってきた。そのくせ、学校側の言い分は全く聞かず、直接会うことも、当然、家庭訪問も拒否され続けた。

 理由はどうであれ、弁当を与えたのは事実である、という一点だけで、伊藤先生は2学期をもって1年の担任を外された。さらに、「自主的に」と強制されて3学期は自宅待機となっている。強制された自宅待機とはいえ、伊藤先生は本当に心身に異常をきたしていた。学年主任、教頭、校長先生から叱責され続けたこと、何より、登校しなくなったルカがどうなったのかが心配だった。母親が知ったことでルカの身に何か起こったのではないか、と自分で自分を責め続け、結局は自分から退職する。


 ただ、このこと以来、ルカが学校行事の日に欠席することはなくなる。余計なことをされたくないと思った母親は、弁当が必要な日には、菓子パンを持たせるようになった。

 母親、春香にとって、ルカは自分のものだった。自分はルカに何をしても許されるが、他人がルカに何かするのは我慢ならなかった。



第三章

1

 都内の支局へ異動して半年あまり、リーダーとしての業務にも慣れてきた頃、9月生まれのルカは31才になった。私用のスマートフォンに見知らぬ番号から電話が入る。無視していると翌日にも着信があり、この日は最後にメッセージが録音された。

 「雄二さんのことで話があるので、この番号に連絡…」

 何年もかけて閉めようとしてきた箱のふたを、簡単にこじ開けられた気がした。


 20年近くぶりに向かう下田への電車の中、ルカは何度も立ち眩みと吐き気を催した。じんわりとかく汗は、念のために着てきたコートのせいでも、車内の暖房のせいでもない。向こうからは下田市内の病院に来るように言われた。あの家に行くとなっていたら、この様子だと気を失いかねない。

 外の秋晴れが嘘のように、病院内は薄暗い作りになっていた。受付で要件を伝える。座って待っていると、廊下の向こうから声をかけられた。

 「福永さんですか?」

 グレーのスーツ姿、白髪の小柄な男性がこっちへ向かって歩いてくる。その視線がルカの下から上へと移っていくのがわかった。

 「は、はい。」

 「遠いところをわざわざすみません。私が矢島総合病院、経理課の鈴木です。電話では失礼しました。早速ですが、こちらへ来ていただけますか。」

 そのまま階段で2階へ、会議室のような小部屋に通されると、既に2人がパイプ椅子に座っていた。奥の女性はこの場に不釣合なブルーのトレーナー、男性はくたびれたモスグリーンのスェットを着ていた。鈴木氏はその横、一番手前に座る。ルカはテーブルを挟んで3人の正面に座った。

 「こちら、溝渕さんご夫婦です。奥の方が福永さんの叔母様にあたります溝渕美恵子さんです。」

 「福永ルカです。」

 「本来、私が話すことではないのですが、溝渕さんご夫婦が、うまく話せる自信がないとのことですので、本日は同席させていただいております。」

 最初、鈴木氏からは仕事のことを聞かれたので、ルカは聞かれるままに答えた。答えている間、奥の席に座っている美恵子、叔母の様子が気なる。美恵子は先ほどから一言も発していないくせに、ときどき、刺すような視線をルカに投げてきていた。

 叔母、つまりルカの父親、福田雄二の姉とのことだが、その存在自体初めて聞いた。トレーナーが浮くほどの細身、なで肩の体型は、色黒で小太りの雄二にはまるで似ていない。

 「電話では簡単にしかお伝えしていませんでしたが…」

 鈴木氏がトーンを変えた。

 「福永さんのお父様、福田雄二さんが当病院に入院されています。」

 「そうらしいですね。」

 「脳梗塞です。詳しい容体は主治医から説明させますが、あまり芳しい状態ではありません。まずはお父様にお会いになりますか?」

 「いいえ。説明を聞く気も、父に会う気も全くありません。」

 これをきちんと伝えるためにやって来たつもりだった。さっきから吐きそうなのを必死にこらえているのも、これを言うためだ。

 「あんた、まだそんな勝手なことを言うの!」

 美恵子が急に立ち上がって叫んだ。血走ったその眼が父親とまったく同じで、ルカは気を失いそうになった。

 雄二はこの年の夏の終わりに、自宅で倒れ、救急車で搬送された。福田の家には両親、ルカの祖父と祖母もまだ住んでおり、すぐに救急車を呼んだこともあって、命に別状はなかった。しかし、後遺症で手足が麻痺し、意識障害も出ているため、未だに入院している。高齢で痴呆も出ている両親とは手続きなどの話ができず、困った病院側は両親から聞き出した福田家の長女、雄二の姉の美恵子に相談していた。


 「雄二さんは要介護になっていますので、入院が続くことで費用は膨らんでいくのも確かですが、退院を急いで自宅治療に切り替えたところで、そのお世話が必要になります。それらをお願いできるのはご家族の方しかいないのです。」

 「家族と言われても、私は父とはずっと、それこそ家を出てから20年近くも会っていませんし、それを今更、面倒を見ろと言われても。」

 何か言いかけた美恵子を留めるように、溝渕氏が口を開いた。

 「ずっと疎遠なのはうちも一緒ですよ。それでも、いろいろ骨を折ったんだ。その上、入院費もこれからの介護も、そこまでの責任はうちにはないと思いますけどね。」

 「いや、それは申し訳なかったとは思います。でも、私はとっくに福田ではないんです。中学の時から母方の福永になっていますし。」

 「あんた、それでも娘か!父親を可哀そうとは思わないの!」

 美恵子がまた叫んだ。

 「福永さん」

 今度は鈴木氏が美恵子を遮るように口を挟む。

 「福永さんがお母様の姓になろうが、福田家の戸籍から抜けようが、雄二さんの実子であることに変わりはないのです。同様に美恵子さんも雄二さんの実のお姉さまであることに変わりはありません。」

 美恵子は、今度は血走った眼を鈴木氏に向けた。

 「美恵子さんは払わないと言われていますが、なるべく早急に、病院への支払いをどうするかをご家族、介護者である皆様で話し合われて決めてください。」

 「私にも支払い義務があるということですか?」

 「はい、残念ながら。という言葉が不適切なら、すみません。でも、福永さんにはこれを拒否する権利はありません。これは法律で決まっていることなのです。」

 ルカは雄二に面会させられた。主治医からの説明も聞いている。

 「今は幼児に近いような状態ですが、リハビリを続ければ、意識はもっとはっきりしてくる可能性はあります。体の麻痺については、現段階ではどれだけ回復するかを申し上げることはできません。」

 ベッドに横になっている雄二は、白いシーツに申し訳ないほど、どす黒い肌をしていた。ルカの記憶が正しければ、まだ54才のはずだが、くぼんだ眼、定まらない視点、たるんだ頬、開いたままの口は、不健康な老人にしか見えない。それなのに、肌は異常に脂ぎっていた。始終何かを発しているが、全く聞き取ることはできず、ベッドからはみ出た左手はずっと小刻みに動いている。ルカを見ても、認識はできていないようだ。

 ちょうど、リハビリのための車椅子に乗せる時間にあたったようで、複数の介護士がその作業を淡々とこなしてくれていた。ルカが申し訳なく思った瞬間、病院着の隙間から雄二の局部が見えた。

 「ごめんなさい。」

 ルカは病室を飛び出し、トイレに駆け込んだ。そして、吐いた。昨日からほとんど何も食べていない胃には吐くものがなく、ただ酸っぱい胃液だけを吐き続けた。



2

 数日後、ルカは都内の弁護士事務所を訪ねる。以前に伺った駅ビル最上階のワンフロアを貸し切ったオフィスではなく、駅から少し離れた雑居ビル2階の小さな事務所だった。

 「ルカさん、お久しぶりです。お声をかけていただいて光栄です。」

 以前は長かった髪を、ばっさり短くしていた。相変わらずきれいに揃えた前髪が彼女らしい。

 「もう何年前になりますか?お母様のマンション購入は。」

 「祖父が亡くなったのが2009年の夏でしたから、かれこれ7年前になりますかね。」

 「あぁ、もう7年にもなりますか。確かに、当時はまだ学生みたいだったルカさんがすっかり大人の女性になってますものね。」

 「いやいや、私は老けただけです。大塚さんは全然、変わらないですね。というか、髪も切ってますますお元気そうで。」

 「またまた。お世辞は要りませんから。あれから私も独立したりして、ずっとバタバタしていまして、身の回りのことは放ったらかしです。」

 大塚真麻弁護士、祖父の死後、母親への財産相続でいろいろお世話になった方だ。


 「ごめんなさい。今、事務の子が出ていて、もうすぐ帰ってくると思うんですが。何か飲み物は…。このまま始めます?」

 「どうぞ、おかまいなく。」

 二人で顔を見合わせて笑ってみた。

 事務所の奥のブースに入って、簡易ソファに対面で座った。

 「お母さま…、春香さんはお元気ですか?」

 母親とはマンション購入の手付きの一切合切をやってあげた時点で別れた。あれ以来、連絡さえしていない。娘としての義理は十分に果たしたつもりだ。別れ際に「ありがとう」や「さようなら」の一言もなかった。それでいいと思っている。

 「いや、あれきりですね。多分、あのマンションで私の知らない人と暮らしているんではないでしょうか。」

 「そうですか。そう聞くと、私はまた弁護士としては言ってはいけないことを口にしてしまいそうです。」

 当時、祖父の会社に雇われていた側だったはずの大塚さんは、相手側の付き添いに過ぎないルカのことを随分と親身に心配してくれた。

 「電話で少しだけお聞きしましたが、今日は詳しいお話を聞かせてください。」

 ルカはまず、今回のあらましをできるだけ詳しく話した。そのためには、自分がどんな境遇で育ったのかも話す必要があるとわかっていたのに、中学以前のことはあまり上手く話せなかった。

 大塚さんはテーブルの向かい側でメモを取りながら聞いている。

 「つまり、ルカさんはお父さんの面倒を見る気はない、ということですよね。」

 「はい、全くありません。」

 「その理由は、ルカさんがご両親に育ててもらったとは思わないから、ということでよろしいですか?」

 「そ、そうなりますかね…。」

 「可能ならば、明確に答えていただきたいのですが、ご両親から虐待はありましたか?」

 「…はい。」

 「どのような虐待があったかを具体的に話すことはできますか?」

 思い出せないのか思い出したくないのか自分でもわからなくなって、ルカは言葉に詰まった。

 「変な話になってもいいですか。」

 「どうぞ。」

 「私は学校の給食おかげでここまで大きくなれたと思っています。家できちんとした食事を取った記憶はほとんどありません。そういう意味では国に感謝しています。学校の給食がなければ、私は食事をどうしていたのだろうと怖くなります。」

 「はい。」

 「でも、国には不満もあります。法律は私を守ってくれなかった。大人は誰も私のことを気にもしてくれなった。」

 「はい。」

 「国民の三大義務でしたっけ。『子どもに教育を受けさせる義務』とか笑っちゃいました。うちの親は教育どころか、食事さえ与えてくれなかったよって。」

 「…」

 「昔のことを話そうと思っても、よく覚えていないというのが本当のところです。ただ、毎晩『明日、このまま目が覚めませんように』って目をつむっていたのは覚えています。あの時には二度と戻りたくありません。」

 「…」

 「生んでくれたことを両親に感謝すべき、と言う人もいますけど、私は生んでほしくなかった。育てる気がないから何で生んだんだ、とずっと思ってました。ずっと辛かったです。ずっと怒ってます。」

 「…」

 「ちょっと違いますね。辛いとか、怒るとか、今考えるとそうかもしれなかったと思うだけで、当時の私には多分なかったです、そんな感情。私は…」

 大塚さんはペンを置いて、ルカを正面から見つめた。

 「ただ、生きてました。生きてただけです。私は生まれてからずっと、ただ生きてきただけなんです。幸せのことなんか考えたこともありません。」

 ルカは大塚さんの視線を受け止めて、続けた。

 「別に両親を恨んでいるわけでもないんです。あの人たちはあの人たちで、私が生まれなかったら違う人生があったのかもしれないし。」

 ルカの表情には特に喜怒哀楽は見て取れない。

 次の瞬間、いつもの笑顔に戻った。

 「うーん、とにかく、もうほっといて、って感じです。私は私で自分の人生を生きていくから、あなたたちは勝手にやって。もう私に関わらないで、って思ってます。」

 「やっぱり、何か飲み物いれますね。コーヒーでいいかしら?」

 間を置いてくれた大塚さんの気遣いが嬉しかった。


 インスタントコーヒーの入った紙コップを置いて、大塚さんが話し出した。

 「電話をいただいてから、調べてはみたんです。」

 ルカも紙コップを置いた。

 「勿論、詳しい話をお聞かせいただけるなら、もう少し調べることはできますが、少なくとも現状では厳しいお話になります。」

 「はい。」

 「先ほどルカさんは、法律は…と話されましたよね。」

 「ああ…、はい。」

 「その法律が『直系血族及び兄弟姉妹は互いに扶養する義務がある』と定めています。結論から言うと、子どもは親を扶養する義務があり、介護を放棄することはできません。」

 病院で鈴木氏から聞いていた言葉でもあり、予想はしていた言葉だ。予想はしていたが、法律の専門家から聞くのはやはりショックだった。

 「うちの親は、私を育てる義務を放棄したのに、私は親の面倒をみる義務を放棄することはできない、ということでしょうか。」



3

 民法877条第1項で定められている扶養義務者は、直系血族及び兄弟姉妹となる。直系血族とは本人の祖父母、父母、子ども、孫のことである。ここに結婚などによる戸籍の変更は関係ない。同じく、民法752条では、夫婦間にも扶養義務があるとされている。例えば、自分の父親に介護の必要が生じた場合に、その介護義務が発生するのは、父親の兄弟姉妹、母親(父親から見た妻、配偶者)、自分と兄弟姉妹、自分の子どもたち、となる。よく誤解されているが、自分の配偶者には発生しない。

 自分が父親と不仲だからという理由だけでは、法律上、扶養義務は放棄できない。放棄すると場合によっては保護責任者遺棄罪に該当し、3ヶ月以上5年以下の懲役に科せられる。

 扶養義務には、同居の有無は関係なく、そのため、同居している長男だけが抱え込む必要はない。自分の兄弟姉妹や親族(親の兄弟姉妹)にも頼ってよいとされている。親族間で介護の分担について話がまとまらない場合には、家庭裁判所にて介護費用の分担を決定してもらうこともできる。

 自分に兄弟姉妹や頼れる親族がいない場合には、各市町村にある地域包括支援センターに相談することもできる。地域包括支援センターでは、介護施設を紹介してもらえる可能性も高い。介護施設の入居は経済的負担が大きいと考えられがちだが、入居費用などは親の預貯金や健康保険制度、介護保険を活用すれば、その負担を減らせることが多く、例え、親の預貯金がない、各種制度を利用しても入居費用を用意できない場合でも、親に生活保護を受けさせることで、その範囲内で入れる施設を探すこともできる。


 「生活保護を受けながら入居できる施設がある、ということですか?」

 「はい。私は専門家ではないので安易なことは言えませんが、親を介護する側の人間、つまり、子どもの生活を守るための法律もあるということです。」

 「それは私が親を介護することを受け入れるという前提ですよね。」

 「はい。そうなります。」

 ルカは座ったまま、両手で顔を覆った。別に泣いたわけではない。泣く気もない。

 「うーん…」

 「民法に扶養義務を免除する規定がないので、どんな理由を並べたところで、正直に言って申し訳ないですが、法律からは逃げられません。」

 大塚さんは残りのコーヒーを飲み干して、ルカの目をまっすぐに見た。

 「次に考えられるのは、ルカさんの父親相手に裁判を起こすことです。近年、児童虐待への関心度は上がってきているので、話題になる可能性はあります。」

 「裁判?」

 「極論に聞こえるかもしれませんが、親の介護義務という法律を拒否したいんだったら、法律で対抗するしかないとも思っています。刑事裁判に持ち込んで父親が加害者、ルカさんが被害者という構図を作ることができれば、光が見えてくる可能性はあります。」

 「私は裁判なんて望んでません。」

 「そうですね。でも、もう少しだけ聞いてください。判決次第とはいえ、加害者が被害者に将来一切接触しないことを盛り込むことができれば、介護の義務は回避できる可能性があります。ストーカー規制法なんかがそうですね。但し、裁判をするからには、ルカさんに、過去にあったことを全て話してもらうことになります。児童虐待防止法で定義されている身体的虐待、性的虐待、育児放棄、心理的虐待のうち、少なくともルカさんは育児放棄、つまりネグレクトに当たる虐待を受けていたと思います。身体的虐待はどうですか?また、ご両親が互いを罵りあう、一方が一方に暴力をふるうといったことがあったならば、心理的虐待にも該当します。」

 ここで大塚さんはルカから視線を外した。

 「性的虐待については、親から虐待を受けた多くの子どもが語りたがらないのが現実です。大抵は『親から乱暴された』という言葉の中に、性的虐待を含んで語っていることが多い、とも聞いています。」

 こう早口で一気に話すと、立ち上がった。

 「何があったかを話すかどうかはルカさんにお任せします。私に話していただいても、裁判をするかどうかは別問題ですし、裁判をしたところで、何か証明できるものがなければ、勝つ見込みがほとんどないのも事実です。」

 ルカに泣く気はまったくないのに、大塚さんの目が潤んでいるような気がする。

 「残念ながら、ルカさんが介護義務を逃れる方法はない、というのが現実です。ごめんなさい。」

 立ったまま頭を深く下げた。

 「いや、私が悪いんです。すみません。」

 「あなたは何にも悪くないんですよ。」

 頭を下げたまま、大塚さんの絞り出すような声が聞こえた。


 この後、数週間にわたって美恵子から毎日のように電話が入った。

 「金を払う気はない。」

 「私はとっくに福田家の人間ではない。」

 「親の面倒は子供が見るのが当然だ。」

 「あんたは鬼だ。」

 こんな言葉がとりとめもなく繰り返された。

 戸籍から抜けていることはルカも同じで、法律的には美恵子にも扶養義務が発生することを説明しようとしても、一切聞く耳を持たない。

 「俺はお前の父親だからな。お前は一生、俺の面倒を見ろよ。」

 美恵子の声を聞いていると、母親と一緒になってルカを見下ろしていた父親のヘラヘラと笑う顔がやたらと思い出された。

 「子供ができてよかったなぁ。俺ら、これでもう一生安泰だわ。」


 結局、父親の医療費、入院金の一切合切をルカ一人で支払った。その後、大塚さんに相談しながら、父親に生活保護を受けさせた。生活保護を受けるためには、全ての財産を手放さなければならい。吐き気を我慢しながら久しぶりに自分の育った土地を訪れたルカにとって、僅かながら幸いだったのは、ルカの暮らした平屋が既に取り壊されていたことだ。ルカが初めて入った本宅、父親の部屋には財産となりそうなものは何もなく、下田の家は存命していた福田の祖父の名義のままだったので、処分する必要がなかった。初めて聞いた父方の祖父母の名をルカはすぐに忘れた。唯一、薄水色がぼろぼろに錆びていたクラシックカーには一万円の値が付いた。

 大塚さんの紹介もあって、地域包括センターからは生活保護の範囲内で入れる施設を紹介してもらうことができ、施設への支払い月7万円のうち5万は国から援助が出ることになった。残りの2万円、さらに生活物資代もろもろで毎月4~5万になる経済的負担をルカが全て負う代わりに、叔母、美恵子には時々の面会をお願いした。

 「あんたは鬼だ。」

 気まぐれにかけてくる電話の最後に、美恵子は必ずこう言った。



4

 小6の夏休み、ルカは昼頃に母親がタクシーで出かけたのを知っている。この数日、エサを食べなくなったベリちゃんを動物病院に連れて行っていたのであろう。その夜からベリちゃんは、寝床の中に横になって荒い呼吸を繰り返すだけとなった。この数日間、母親は昼夜不眠で見守り続けている。

 翌日の朝方、母親の泣き叫ぶ声でルカが目を覚ますと、ベリちゃんは硬く、冷たくなっていた。ルカが、春香の取り乱した様子を見たのは後にも先にもこの時だけだ。

 その数日後、春香が家から消える。

 最初は、いつものように週末に横浜の家に帰っているのだと思っていた。それが日曜の夜になっても、月曜になっても帰ってこなかった。ルカから連絡しようにも家に電話はなく、携帯電話も持たされてない。ベリちゃんもいなくなって静かになった家で、一人ぼっちで待ち続けた。

 火曜日になった。もう5日間、水道水しか口にしていない。手の指が5本とも攣るようになった。シンク下の戸棚には、キャットフードがあることは知っている。勝手に開けることを禁じられていた冷蔵庫を開けてみると、炭酸系飲料のペットボトルが大量に入っていた。冷凍庫には箱型の大容量のアイスクリームが詰め込まれている。立入禁止のリビングのクローゼットには、未開封の段ボールに入ったスナック菓子とカップラーメンを発見した。体罰で殺されるよりも、今生きることを優先するため、それらに手をつけた。


 9月のある夜、激しい物音を立てて、玄関ドアが開かれたのがわかった。騒音はしばらく続く。

 「くそっ!」

 時々、騒音に混じるのは父親、雄二の荒い声だ。

 恐る恐る、ルカがダイニングから玄関をのぞくと、玄関にまだ片足を残すような体勢で、雄二がうつぶせに倒れているのが見える。

 ルカがそのままダイニングに戻って引き籠っていると、雄二が起き上がる気配がしてほどなく、ダイニングのドアが開いた。

 「瑠伽、お前、ママをどこにやった!?」

 母親が絶対に平屋に入れないようにしていた、酔った状態の雄二だった。雄二はダイニングを見回すと、ソファの陰にいたルカの方に迫ってきた。眼が血走り、吊り上がっている。

 「お前のせいでママが出ていったろ。わかってんのか!」

 雄二は何かに蹴躓いて、ソファに倒れこんだ。

 「くそっ、お前さえいなけりゃ。」

 しばらく悪態をついていた雄二は、そのまま大きないびきをかき始めた。

 その夜、ルカはリビングで生まれて初めて過ごした。隅で膝を抱えたまま、いつ父親が入ってくるかと思うと、とても眠ることはできなかった。


 ルカが下田の家を出たのは、この年の年末だ。母親に連れられて何度かタクシーで走った道の記憶を辿りながら、歩いて横浜に向かった。何時間、歩き続けたのか、祖父の家にどうやって着いたのか、記憶はない。その後すぐだったのか、数日後だったのかはわからないが、リビングの革張りのソファに座っていた祖父の姿を覚えている。

 「ごめんな。おじいちゃん、ルカに何があったのか聞かないといけないのに、何も聞けないんだ。」

 祖父は両手で顔を覆っていた。

 「ルカに何があったのか知ったら、おじいちゃんの心が壊れてしまいそうで怖いんだ。」

 「大丈夫。私、何も覚えてないから。」

 この後、ルカは下田の小学校に戻ることなく卒業した。卒業式にも出ていない。中学はそのまま横浜市の公立中に進む。この間にルカの知らないところで、春香と雄二の離婚が正式に成立していた。雄二は春香の実家から相当な額の慰謝料をせしめている。



第四章 2019年

1

 5月、ルカは俊介の故郷、香川県を訪ねた。

 早々と計画はしていたのに、航空チケットを取ったのは4月に入ってからだ。この年のGWは稀にみる大型連休で、4月30日を有休にすれば10日以上の休みになったにも関わらず、懸念した通り、直前に学校からの断れない仕事が入ってきた。俊介だけが先に帰省し、ルカは祝日も仕事して、3日朝一の飛行機で俊介を追いかける。

 高松空港に着くと、俊介が軽自動車で迎えに来てくれていた。実家の車を借りたそうだ。

 「このまま、香川観光でいい?荷物だけ先にホテルに預ける?」

 「いいよ。観光しよう。」

 この日の夜から二人でビジネスホテルに泊まることになっていた。

 「もう、ご家族とはいいの?」

 「十分に親孝行してきました。というか、もう家でやることがない。」

 「パパもママも喜んだでしょ。」

 「まぁ、そうかな。二人とも小さくなっててびっくりした。70超えたしね。」

 雄二は確か57才だったような…、ルカは慌てて心を閉じた。

 車はそのまま高速に乗って西に向かった。ときどき、右に瀬戸内海が見える。

 「着いたよ。」

 昨日までの激務と、朝早く起きたことでルカはすっかり寝てしまっていた。

 「金毘羅さんです。さぁ、歩きますよ!」

 歩ける格好でおいで、と俊介が言っていた意味がわかった。スニーカーにして正解だ。

 「石段が1300段以上続くらしい。実は俺も来たのは初めて。」

 「えぇっ?」

 「いやいや、そんなもんでしょ、地元民。」

 石段が続く両脇にお土産さんが並んでいる。最初の300段ほど登ったところで既に息が上がってきたルカは、お土産屋さんの軒先に飛び込んだ。

 「ソフトクリーム美味しそう。えっ、釜玉うどん味だって!」

 「疲れた?」

 俊介はお見通しだ。

 「金毘羅さんって何の神様?」

 「だから俺も知らんって。まぁ、小説で読んだ記憶では、昔は船の航海で沿岸の明かりや景色を頼りに自分たちが今どこら辺にいるかを確認してたから、覚えやすい風景はそれだけで神がかりだったらしいよ。ここ、象頭山(ぞうずさん)って言って、特徴ある形らしい。」

 「何でもよく知ってるよね。」

 「ありがとう。でも、あなたが何も知らなさ過ぎ。」

 「何それ。」

 「いいよね、今から知ることが多くて。」

 「羨ましいでしょ?」

 その後も、何度かの休憩を挟みながらのんびりと登った。特に700段を越えた後の急こう配の石段の連続は膝が笑ってしまい、どうしようかと思った。

 最後の石段を登り切った正面に本宮があった。本宮でお参りする。

 「何をお願いしたの?」

 「初詣でのときと一緒。こっちの神様にもお願いしてみた。」

 「だから、それは何?」

 「言うわけないじゃん。ご利益がなくなる。」

 「けちぃ。」

 本宮の右には展望台があった。家族連れも多い。

 「ほら、あれが瀬戸大橋。」

 「うわぁ。俊くんの家はどっち?見える?」

 「俺の家は見えないよ。まぁ、香川はどこもこんな感じかな。」

 「そっかぁ、俊くんはこんな平和な風景の中で育ったんだね。」

 旅行前に俊介からは、両親に会う?と聞かれていた。俊介の気持ちは嬉しかったが、それをルカは断っていた。のんびりした風景を見ながら、俊介の少年時代を思い浮かべてしまうと、自分が俊介の平和な部分を踏みにじるような気がして、またルカは心を閉じた。


 夕方、ホテルにチェックインした後、車を返すために俊介は一旦、実家に帰った。

 「ホントにいいの?もっと家にいていいよ。私、一人でも大丈夫だし。」

 「実家には何泊もしたし、もうやることないの。今日の夜からは友達んとこに泊るって言ってるし、そのまま、東京に帰ることにもなってるの。」

 「なんか、ママに悪いなぁ。」

 「でもさ、戻ってくるのは遅くなるかも。電車、1時間に1本かもしれん。」

 そう言いながらも俊介は2時間もしないうちにホテルに戻ってくる。

 「おかんが車で送ってくれたわ。」

 「だから早かったんだ。」

 「ほんで、おかんが弁当、作ってくれた。友達と食べまいって。あっ、食べなさいっていうことね。」

 「えー、いいの。ママの手作りでしょ。一人で食べた方がよくない?」

 「もう十分に食った。それに、うちのおかんのコロッケは絶対、美味いけん。」

 包みからはまだ少し暖かいコロッケとから揚げ、おにぎりが出てきた。俊介の言う通り、コロッケは本当に美味しかった。海苔を巻いた三角おにぎりを一口食べてルカは涙が出そうになった。上野動物園で食べた、俊介の作ってくれたおにぎりと同じ味がしたのだ。おにぎりには梅干しが入っていた。



2

 7月、ルカは地域包括センターに紹介してもらった下田半島の南にある施設を訪ねた。この3年の間、何とか行かずに済ませていたものを、今回はどうしてもとなって断ることができなかった。

 「お若いこともあって、随分とお元気になられていますよ。」

 8人の大部屋にルカが向かうと、ベッドに雄二はいなかった。

 「るかぁ、あいわらず、いいしり、らなぁ。」

 後ろから声をかけられて、ルカは悪寒で声を上げそうになった。呂律は怪しいが、それは紛れもなく雄二の声だ。振り向くと、歩行器のようなものを使って立つ雄二がいた。左手は震え、足も引きずっているようではあるが、たるんだ頬、開いたままの口、脂ぎった肌で、雄二は自分で立っていた。定まらない視点で、ルカの全身を舐めまわすように見ているのを感じる。

 「おれは、ここをでるらら、おまえが、めんろお、みろ。」

 何より、ルカを認識したことに吐き気を覚えた。

 「おれは、おまえろ、ちちおや、らから、なぁ。」

 雄二はヘラヘラと笑った。


 施設を出てすぐに弁護士事務所、大塚さんに電話を入れて、週末に会ってもらうことにした。

 大塚さんはいつもの隙のないスーツ姿ではなく、薄手の紺のジャケットをブラウンのパンツに合わせている。前回と同じに、簡易ソファに対面で座り、ルカは先日の出来事と自分の気持ちを大塚さんに話した。

 「ルカさんとしては、父親と一緒に生活することだけは絶対に避けたい、ということですよね?」

 「はい。一緒に住む…、言葉にするだけでも頭がおかしくなりそうです。」

 「本人の希望だけですぐに状況が変わるということはありませんので、安心してください、と言えると思います。」

 「だといいんですが。施設中を歩き回ったり、女性の介護士さんに変なことをしたり、追い出される可能性もあるそうなんです。」

 「うーん、それは確かに不安ですね。」

 ここで大塚さんは顔をしかめた。

 「実はこちらからも連絡するかどうか迷っていたお話があります。」

 大塚さんはルカに、岡崎準強制性交等事件の概要を話してくれた。

 「当時19歳の女性に実の父親が性的虐待を行っていたかどうかを争っている裁判なんですが、3月の1審で無罪判決が出ました。」

 愛知県内で2017年、当時19歳の実の娘に性的暴力を加えたとして準強制性交罪に問われた父親(当時50)について、2019年3月の1審では、「(娘は)抵抗し、(父親を)拒めた時期もあった」などとして「抗拒不能の状態だった」という検察側の意見に対し、「合理的な疑いが残る」と父親に無罪判決を言い渡している。


 「つまり、父親に性的虐待を受けたと証言したところで、裁判では負けるということでしょうか?」

 「まだ1審が終わったばかりです。この1審の無罪判決をめぐって、全国で性暴力を撲滅しようと訴えるキャンペーンが始まりました。『フラワーデモ』って、聞いたことないですか?参加者が花を身に着けて集まるところからそう呼ばれています。この運動が4月以降毎月、全国へ広がっています。私は、第1審の判決が覆る可能性は十分にあるとみています。」

 確かに、大塚さんの言う通りにはなる。

 2019年3月の第1審の判決に対し、2020年3月の2審判決は、娘が中2から性的虐待を受けており、「継続的な性的虐待の過程で抵抗する意欲や意志をなくし、本件行為時、精神的、心理的に抵抗できない状態だった」と認定した。さらに「1審判決は父親の実子に対する性的虐待の実態を十分に評価していない」と批判もしている。これを不服とした被告、父親側が上告するも、2020年11月、最高裁第3小法廷はこの上告を棄却した。これにより懲役10年の判決が確定している。異例のスピード判決と言ってよいが、この物語の今現在からは後年の話だ。


 「そうだとしても、裁判には数年もかかるんですよね。」

 「…」

 「親は子どもに何をしても許されるのでしょうか?」

 「もう一つ、話さないといけないことがあります。」

 「どうぞ。」

 ルカの笑顔は変わらない。

 「仮に、です。仮に、ルカさんが性的虐待を受けていたとして、裁判をするなら、それがいつだったかを証言する必要があります。」

 「えっ?」

 「時効があるということです。」

 この当時の性的虐待を含む強制性交罪の公訴時効は10年だった。被害者が18歳未満の場合には、これに18歳になるまでの期間が加算される。

 「未成年の時期に性的虐待を受けて、それを裁判にかけるなら28才までに訴えなさい、ということになります。」

 この時、ルカは33才。ルカの表情から笑顔が消えた。大塚さんの表情も消える。

 「ルカさん、性的虐待はありましたか?」

 「…」

 「…」

 「答えたくありません。」

 答えたくない、これが答えであることを2人とも理解していた。

 重苦しい沈黙を先に破ったのはルカだった。

 「大塚さん」

 「はい。」

 「法律…、法律っていったい何ですかね?」

 「社会的に弱い立場の人たちを守るためのものです。私はそう信じています。」

 「私は弱い立場ではないのでしょうか?」

 「…」

 「親は子どもに何をしても法律で許されるのに、好き勝手にされる子どもを法律はちっとも守ってくれないじゃないですか。」

 「それは違います。」

 「選挙に出るような人たちが、『女性に優しい社会を』とか散々に言ってても、世の中、女性の一人暮らしには厳しいままじゃないですか。」

 「そ、それも違います!」

 「ごめんなさい。大塚さんのことを言っているわけじゃありません。子どもを守るため、女性を守るための法律が新しくできるのも勿論、いいことだと思います。でも、今の私を守ってくれるものは何もありません。私は今を生きているんです。」

 ルカは大塚さんの目を真っすぐに見つめた。顔は笑っていない。ルカが言いたいことを言えるのは、この人だけかもしれない。俊介にもまだ言えないことがある。

 大塚さんはゆっくり目を閉じ、しばらくして目を開けると、ルカを見つめ返した。

 「ルカさん、やっぱり私、弁護士としてふさわしくないことを言います。」

 「…」

 「ルカさん、あなた、結婚しなさい。できれば、専業主婦になって収入がなくなる位がいい。あなたの配偶者に介護義務は発生しないから。でないと…」

 「でないと?」

 「このままいくと、下田にいる祖父母の介護も引き受けることになるよ。」



3

 9月10日、日曜日。土曜日と日曜午前にルカが仕事だったこともあり、この日、久しぶりにルカと俊介は駅で待ち合わせをした。仕事場から直帰したルカはスーツ姿だが、先に駅で待ってくれていた俊介も、休日に関わらずスーツ姿だった。俊介にしては珍しい。

 俊介が案内してくれたのは、以前に散歩した時に見つけていた商店街の外れの小さなフランス料理屋だった。外に出ているメニュー表には値段が書いておらず、その時は入るのを取りやめて、後でネット検索したところ、小さいとはいえ、なかなかのお値段だった。それだけ期待できるともいえる。

 「えぇ、ホントに?」

 「今日はごちそうします。何でも好きなの、頼んでいいから。」

 俊介は赤ワイン、ルカはグレープジュースをワイングラスに注いでもらい、二人で乾杯した。

 「お誕生日、おめでとう。」

 ルカは34才になった。


 食事を済ませた二人はルカの部屋に入った。

 「あのさ、プレゼントなんだけど」

 部屋着に着替えたルカがお茶を入れて、ベッドに座ると、すぐに俊介が切り出してきた。俊介もルカが用意しているいつもの部屋着に着替えている。

 俊介がリュックから取り出したのは、小さな紙袋だった。さすがのルカでもそれだけでわかる。指輪だった。

 「重く受け止めんで。ぜんぜん高いもんやないし。」

 俊介はそのまま指輪を渡してきた。

 「だいたいサイズが合ってるどうかも自信ないし。」

 ルカは指輪を自分で左手の薬指にはめてみた。

 「入った?」

 「嬉しい!」

 「えっ?嬉しいの?ぜんぜん、その指でなくてもいいし。」

 「嬉しい!!」

 「えっ、いやいや、あなたは普段、指輪とかアクセサリー、ぜんぜん身に着けんやん。金属アレルギーかなとか思って、いろいろお店で聞いてみたんよ。18金だったらアレルギーでも大丈夫って言われたんやけど…。俺、騙されてる?」

 「嬉しい!!!」

 「指のサイズもわからんかったし、俺の小指の第一関節くらいとのいうのを、ここ最近、手をつなぐ度に確認してたんよ。」

 「嬉しい!!!!」

 ジュエリーショップで店員さんを相手にあたふたしている俊介を想像すると、堪らなく愛おしくなった。ルカから抱き着いて、唇を重ねる。ルカは泣いてしまっていた。


 「来週の事例で、異動する。」

 「えっ?」

 「10月から大阪。」

 「えぇーっ!やだぁ。」

 「相変わらず平のまんま。」

 「やだぁ。やだよぉー。」

 さっきとは違う涙がこぼれた。

 胸に顔を押し付けて泣くルカの頭を撫でながら、俊介は話を続ける。

 「あなたがさ、仕事のことを大切にしてるのはわかってるつもり。」

 「うぅ」

 「で、それを変えてくれと言うつもりはない。」

 「あぅ」

 「まぁ、言ったところで、あなたが仕事のスタンスを一切変えないこともわかっている。」

 日常生活は優柔不断でも、仕事となるとテキパキ決められる自覚はルカにも確かにある。俊介に何をアドバイスされようと、納得しなければ、それを聞くこともない。

 「このまま行くと、あなたは出世するよ。絶対。」

 「絶対にないよ。私、頭、よくないし。」

 俊介はルカを胸から離した。ルカを真っすぐに見つめてくる。俊介の部屋着、胸のあたりがルカの涙でべっちゃべちゃになっていた。

 「俺ね、あなたと結婚したい。」

 ルカはまた泣きそうになる。

 「でも、あなたはいつも結婚の話、逸らすでしょ。自惚れだったら申し訳ないけど、俺はあなたから好かれていると思っている。あなたが結婚をしぶる理由って仕事くらいしか思いつかない。」

 ルカは必死に首を横に振った。言葉が出ない。

 「俺と結婚したら、出世のラインは切れるよ。俺は会社からは嫌われてるし。だから、すぐに返事をくれとは言わないけど…」

 「俊くん、あなた、普段は賢いのに、ほんと、おバカね。」

 「何??」

 「あのね、私が仕事を理由に俊くんのことを諦めるとか思ってるの?」

 「いや、だって、仕事になると馬車馬みたいになるじゃん。」

 「だとしても、仕事は仕事。生きるために仕事は辞められないけど、俊くんと会えなくなるくらいなら、仕事は何でもいいよ。言っておくけど、私、出世したいなんてちぃーっとも思ってないからね。」

 「じゃぁ、結婚は?」

 「確かに話は逸らしてたかも。ごめん。それには理由がある。それをきちんと話すための準備をする時間をください。」

 -俊くんとずっと一緒にいるためにはどうすべき?



4

 10月最初の日曜日、ルカは駅前の真新しいビルのワンフロアを借り切った明るく清潔感の溢れるオフィスに来ていた。

 事前にネットで調べて、よく名前を耳にする大手業者のHPから、アンケート回答している。「いつ結婚したい?-すぐ」「結婚するために恋愛は?-必要ない」「あなたの休日は?-一人で過ごしたい」「婚活したことは?-ない」「あなたの身長・学歴・職業・年収・結婚歴」「相手の希望年齢・身長・学歴・年収・結婚歴」など。

 結婚相談所だった。

 狼狽する担当者をよそに、その場ですぐに入会申し込みをする。料金については一番高い、直接会える人数の一番多いプランにした。その代わり、来月分を払う気はない。今月中に決めるつもりだった。


 最初にコンピューターが自分の出した条件に合いそうな相手を選び出してくれる。次に、自分で要件を絞り込んでゆく。やっと該当者が数千人から100人ほどになってくれたので、ここから相手のページを見ていくことにした。顔写真だけでなく、趣味や性格などの自己申告する内容も載っている。但し、詳しいことはまだ書かれていない。それ以上は相談所経由で先方に合意を取ってから、となる。ルカが申請した「詳細閲覧希望」はすべて「許可」で返ってきた。そこから更に絞り込んで、何とか18人にすることができた。

 この18人にはメールを送った。勿論、相談所経由のメールであり、個人アドレスなどのやりとりは許されていない。アドバイザーからは後から注意されたが、ルカはこのメールに

 「契約結婚希望」

 と書いている。驚くことに、18人全員から「それでもよい」という返信が送られてきた。

 最高値の料金プランでも直接会ってよい人数は月毎に10人までと決められている。先方から断ってくる様子が全くないため、数回のメールやり取りだけで18人を10人に絞った。

 土日も仕事が入ることが多いルカは、空き時間を利用して1人1時間ずつ、1週間で10人全員と会った。全員に同じ契約条件をプレゼンしている。

・そちらの戸籍に入れてくれること

・ペアローンで都内にマンションを購入すること(私の負担30~40%が理想です。)

・どちらが死亡した場合、財産相続は要相談(私はマンション以外の財産は望みません。)

・どちらかが要介護者になった場合、施設に入れることを前提とする(応相談)

・生命保険金の受取人は配偶者でなくてよい。

・互いの専用ルームを持ち、専用ルームには鍵をつけること。基本はシェアハウス。

・私は料理できません。掃除洗濯はすべてやります。

・光熱費の分担は要相談。

・子どもは無理です。そういう行為もできません。

・上記が守られなかった場合のペナルティについては応相談。

・上記を承認いただけるならば、上記以外のことは善処します。

 

 契約婚については急に思いついたわけではなく、3年前、都内への異動時に住宅ローンを断られた頃に考えていたことだ。契約条件についても当時、自分なりに調べながら、ある程度までは作り上げてもいた。

 ペアローンとは、共働きの夫婦がローン上限額を上げるために組むことが多く、双方が互いの保証人となり、負担割合を夫婦で決めることができる。どちらかが死亡や要介護となる場合、該当者の残金支払いは免除となる。

 10人と会ってみて、男性は男性でいろいろ大変だということがわかった。「ある程度の年齢を越えての未婚者は、周りから社会不適格者のように見られる」と言った人もいた。未婚の理由で数人が上げたのは「女性を愛せない」というもので、「形だけでも結婚したい」、「親を安心させたい」という声もあった。

 10人の中からルカが選んだのは、18人に絞った際の通し番号14番、水戸(みと)という人だった。

 数日後、送られてきた婚姻届けにサインをして、ルカは戸籍上、水戸瑠伽になった。


5

 12月21日土曜日、ルカは新幹線で大阪に向かった。この日にしかお互いの都合がつかなくてよかった、とルカは思っている。明日には東京に戻らないといけないので、24日のクリスマスイブは一人で過ごす。今日が24日だったら、とても話はできそうにない。

 俊介とは9月を最後に、ずっと会えていない。9月末に引っ越しの荷物出しまで終わらせた俊介は10月に東京へ帰ってこなかった。新大阪駅に近い2Kを借りたことは聞いている。頻繁にメールでやりとりはしていたし、週末の夜には電話もしていたが、どっちも途中でルカが寝落ちして終了となるのが常だった。

 新大阪駅に着くと、改札口の向こうに俊介が立って待ってくれていた。3ヶ月も経っていないのに懐かしくて、それだけで涙が出た。

 東口の階段を下りたところに自転車が止めてあった。駅近く、歩いていける範囲にスーパーがなく、こっちに来てすぐに買ったそうだ。自転車で5分くらい行ったところに俊介の住むマンションがあった。新築の最上階、それでも東京時代のワンルームより家賃は2万ほど安いという。部屋に入って、思いっきり抱き着いた。ここでは嬉しさが勝ったので、泣かずにすんだ。

 事前に俊介は、大阪で食べに行きたいお店があるか聞いてくれていたが、ルカは、俊介の手料理を食べたいと返している。二人でスーパーに行って、二人で買い出しをするのも懐かしくて、ルカは何度か涙をこらえている。

 早めの夕飯を済ませると、ルカがお茶を入れた。これだけは自分でやりたくて、持ってきていた。

 そして、ルカは俊介に話していなかったことを全て話した。

 「私、頭はよくないけど、俊くんとこれからもずっと会える方法を必死に考えたの。うまく話せないかもしれないし、信じたくない話かもしれないけど、聞いてね。」


 小6の夏に春香がいなくなった後、雄二は時々、平屋にやってくるようになった。いつも必ず酔った状態だった。

 「ママはどこだ?ママを出せ!」

 大抵は怒鳴りながら入ってくる。ルカが何も応えられないでいると、顔を鷲掴みにしたり、タバコを押し付けようとするので、

 「まだ帰ってきてません。」

 笑顔で応えるようにしていた。

 血走った眼を近づけられるのも、酒臭さの混じったタバコの煙を吹きかけられるのも怖かった。母親がいなくなって、雄二は平屋のどこででもタバコを吸うようになっている。

 ときおり、いくらかの弁当や総菜、菓子を持って入ってくることもあった。

 「俺はお前の父親だからな。俺が面倒、見てやる。」

 そういう時は、気持ち悪いくらい優しい声で話しかけてくる。

 「だからお前も、俺の言うことをちゃんと聞けよ。」

 「うわー、ありがとう。」

 小学校が冬休みに入り、家のカップ麺もスナック菓子も底をつきそうで、最近はキャットフードにも手を出している。いつの間にか、ルカは雄二が食べ物を持ち帰るのを楽しみに待つようになっていた。

 12月24日、クリスマスを家で祝ったことなどないのに、ケーキを買ってくるかも、とまで期待してしまい、結局、そのまま寝てしまった。

 気がつくと、明かりを点けたままにしていたはずの部屋が真っ暗だった。後ろから羽交い絞めにされている。耳元で荒い息遣いが聞こえた。酒臭い。何かぶつぶつ言っていた。

 「お前が悪いんだぞ。」

 「俺はお前の父親だからな。お前が可愛くて仕方ないんだ。」

 怖くて声も出せなかった。いつの間にか服がはだけ、後ろから胸を揉まれていた。

 「誰にも言うなよ。言ったらどうなるかわかってるな。」

 「ママの代わりをお前がやるんだ。」

 お尻に何か固いものが押し付けられている。

 ここでルカは体の感覚を失った。意識は上空へ抜け出し、自分を遥か上から見下ろしているような感じになり、これは夢なんだと思った。

 翌朝になっても、自分に何が起きたのかよくわからなった。いつものように一人ぼっちで目を覚ますと、下半身に何も身に着けていないことに気づいた。

 起き上がるとテーブルの上に箱が置いてある。中には崩れたケーキが入っていた。

 -夢じゃない!

 その場に吐いた。夕べもほとんど何も食べていなかったため、胃液だけをひたすら吐いた。


 「私ね、家からも父親からも逃げられないの。逃げてきたつもりだったけど、ずっと勘違いしてたみたい。これはもう呪いだね。私、前世でよっぽど悪いこと、したのかな。」

 ルカは淡々と昔のことを話した。途中から俊介はずっと泣いている。

 「泣かないで。」

 ルカは俊介の頭を撫でた。いつも俊介がそうしてくれるように。

 「だからね、私は呪われているの。この呪いに、俊くんや俊くんのママやパパを巻き込むわけにはいかないの。ずっと考えてたんだよ、俊くんを巻き込まずに、でも、俊くんとずっと一緒にいられる方法。だから俊くんとは結婚しない。」

 俊介が少しだけ顔を上げようとしている。

 「結婚しようって言ってくれて嬉しかった。指輪も嬉しかった。この指輪は一生外さない。」

 ルカは自分の左手を俊介に見せた。その手を俊介が握る。

 「でも、呪いには負けない。私、生きるって決めたの。ううん、生きるって決めたのはだいぶ前だけど、ただ生きるだけじゃなくって、自分のやりたいように生きる。それは俊くんとこれからもずっと会うってこと。」

 俊介が顔をルカの方に見せた。

 「もし、俊くんに好きな人ができて、私とはもう会えないって思ったらそう言って。その時が来たら、私、それでいいから。でも、それまでは私と今までと同じように会ってほしい。そのための道を選んだの。」

 ルカはこの10月からのことを全部、自分の気持ちを全部、話した。既に入籍したこと、マンションも購入して、来週末にはそこに引っ越すということも。

 「私なんかのために泣いてくれて、ありがとね。」

 全部話してルカはこらえきれなくなり、泣いてしまった。俊介はずっと泣き続けている。本当は今日、俊介に抱いてもらう覚悟をしてここにやって来たのに、言い出すこともできず、二人で一晩中泣き続けた。



6

 年末、27日まで仕事をしたルカは、28日に購入したマンションに引っ越し、片付けもままならないのに、その日の夜から水戸家の千葉県の実家に呼び出されている。盆正月は親戚中が集まるのが習わしで、それに従うというのが、向こうが出してきた契約内容の一つだった。

 当人ら以外は契約婚のことを知らないので、「式はしないのか」「子供はすぐに生んだ方がいい」「二人の成り初めを話せ」などと何人にも絡まれ、ルカは随分と往生した。解放されたのは年の明けた5日の日曜日で、片付いていないマンションに帰ってきたのはその日の夕方だった。明日には仕事が始まる。

 転送願を出してきたこともあり、郵便ポストには早くも年賀状をはじめとした郵便物が大量に溜まっていた。その中に差出人の書いていない手紙が混じっていた。宛名の字を見て、ルカはすぐに分かった。年末から連絡がつかなくなっている俊介だった。

 早々にルカはドアに鍵をかけて、手紙を開いた。


ルカさん

この間はいろいろ話してくれてありがとう。話すのも辛かったね。

あれからずっと眠れません。月曜から仕事をしている間だけは冷静になれましたが、夜になると、この夜が明けずにずっと続くのではないかという感覚に襲われ、朝が来たことに救われるような毎日が続いています。苦しいです。数日だけでこんなに苦しいなら、これまで、あなたはいったいどんなに苦しい思いをしてきたのでしょう。ぜんぜんわかってなかったです。ごめんなさい。

ずっと後悔しています。なんでもっと早くに、積極的に話を聞こうとしなかったんだろうと。ずっと怒っています。なんで何もしてあげられないのだろうと。ずっと泣いています。なんであなたはあなた自身が泣くような選択をしたんだろうと。

あなたを縛り付けているものはあなたが言う通り、呪いだと思います。泣くような選択をするしかなかったほどの呪いです。それなのに、私に微笑みかけてくれるあなたが、たまらく愛しく、そして哀しい。あなたが入れてくれるお茶が、いや、お茶を入れてくれるあなたが大好きでした。

あなたの食生活や体質が、普通の人と違う理由がやっとわかった気がします。就職することで、やっと家から逃げ出せたあなたは、昔のことを「へいき」と言いましたが、その間、耐えに耐えた精神は体に異常をきたすことでSOSを発していたのだと思います。これからも、あなたは「へいき」と言うのでしょうけど、またしても、耐える生活に飛び込むのはなぜなのでしょうか。しかも、この先ずっと…。

相手の方がどんな方なのかは知りません。知りたくもありません。いい方であれと祈るだけです。その点についても、やはり「へいき」と言うのでしょう。一つ屋根の下で、あまり知らない男性とこれからずっと暮らすのですよね。心配です。あなたは怖くなると固まってしまいますよね。抵抗できなくなりますよね。何らかの不具合が生じた際に、やはりあなたは耐えることを選んでしまうと思っています。あなたに何かあっているかと思うだけで、私の心が壊れてしまいそうです。

「耐える」、これはあなたの意志ではなく、あなたの体に染みついたものです。はたして、呪いです。いくらあなたが「へいき」と言っても、心が、体がとても耐えられなくなることが心配です。もう耐えることから逃げてほしい。

なんであなたがこんな理不尽な目に合わないといけないのでしょうか。そこから逃げるため、というのはわかります。でも、逃げられていません。結局、あり得ないような道を選んでいます。何もできない自分に腹が立って、心が擦り切れそうです。この苦しみも、あなたの呪いも、断ち切る術を私は持ち得ません。無力な自分が嫌になりました。持っていけるといいなぁ。

どうか、どうか、幸せになってください。 俊介


 ルカが泣き崩れているところに、鍵をかけたはずのドアが開いた。

 「あのさ、僕は女性には興味ないと自分でも思っていたんだけど、どうも君には興味を持てそうな気がしてるんだ。これからの時間も長いわけだし、お互い、いろいろ仲良くしようよ。」

 酒の臭いがした。

 

 月曜日、仕事が始まった。

 普段通りに朝礼から始まる。まるで休みなどなかったかのように皆、淡々と報告をこなしていく。朝礼中に人事からの一斉メールが届いた。反射的にメールを開く。


 「死亡急報を送付いたします。内容確認をお願いいたします。対象社員名:関俊介さん(大阪支局)、故人続柄:本人」


 司会担当者がこっちを向いた。

 「では、新年最初のリーダーからの挨拶を福永さん、お願いします。今年もニコニコですね。」

 ルカは笑っていた。



終章

 GWの上野動物園、ついこの間まで満開に咲き誇っていた桜の花が、もう探さないと見つけられないほどしか残っていない。代わりに青葉が眩しいほどに勢いを増している。

 「卵焼きって実はそんなに難しくないんだよ。」

 俊介が手で卵焼きをつまみながらこっちに向いた。二人とも手でぱくついている。

 「おにぎり、海苔巻いてるやつが梅干しで、巻いてないのはツナ。海苔はパリパリが好きなら別に持ってきてるから、巻いて食べて。」

 「きれいな三角おにぎり!自分でにぎったんですか?」

 「にぎる以外におにぎりをどうやって作るのか教えてほしいわ。『美味しくなーれ、もえもえ、きゅん』ってにぎってるから、美味いと思うよ。」

 「なにそれ?」

 「メイド喫茶、知らんか?」

 「知らない。」

 「知らんことがいっぱいやん。」

 「ごめんなさい。」

 「謝るとこでない。なんでも新鮮でいいな、って言っている。」

 「新鮮?」

 「そう。前途洋々とも言う。」

 「前途洋々かぁ。いいですね。」

 「いいでしょ。」

 「ありがとう。」


  完

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【要約版】それでもあなたは自分が私の父親だと言う 馬永 @baei

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