第1話 理科実験室から
「先輩、いつも居ますね。暇なんスか?」
声をかけてきたのは後輩の篠崎さん。少し赤みのある茶色の短い髪、比較的はっきりした目鼻立ち。高校の制服姿の彼女は、この部屋、理科実験室に来るなり棒付きの飴の包みを剝き始める。
「篠崎さんだっていつもいるでしょ」
彼女は大抵ここに顔を出し、夕暮れまで居ることが多い。幽霊部員だらけのこの生物部の部室とも言える旧校舎の理科実験室に。後輩の友人関係は全くわからないが、クラスの友人に聞いた限りではイジメられてるわけでもないようだ。
「部活動ッスから」
「じゃあ、熱帯魚の水槽でも掃除しておいて……」
彼女は飴を咥えると気だるそうに水槽に向かい、マグネット式のクリーナーを動かし始めるが、すぐに飽きて水槽の中を眺めるだけになる。少し前に水は入れ替えたし、それほど汚れているわけでもないから構いはしないのだけど。
「後輩に掃除させといて、先輩は何してるんスか?」
「ああ、うぅ~ん」
実をいうとこちらも大したことをしているわけではない。旧校舎の実験室は授業には全く使われておらず、たくさんの実験道具が眠るだけになっている。宝物でも探すかのように戸棚を開けたり、古い箱を開けて引っ張り出したりしては眺めていたのだ。
「メスシリンダーってなんかこう来るものがない?」
「どう来るんスか?」
「コケティッシュな魅力というか――」
「
「いや……、寸胴で背が高いのに注ぎ口とか目盛りとか繊細で――」
「女の趣味とか語られても困るんスけど」
「……もういいよ……」
生物部に顔を出すのは僕たち二人と、たまに顔を出して水槽の水の入れ替えを手伝ってくれる友人がひとり、それから最近はずいぶん見かけていないが後輩の男子が一人と女子が二人。あと、先輩も居るらしいのだが、入部したときから今まで、一度も見かけたことがない。
特に会話を繋ぐでもなく、熱帯魚の世話以外はそれぞれに好きに過ごす。篠崎さんは学校で飴なんて食べてるが、不真面目というわけでもない。スマホを眺めてることもあるが、勉強をしてることも多い。なんでも、家では集中できないからちょうど良いのだとか。飴は頭の栄養って言っていた。
「ずっと飴食べてると虫歯にならない?」
「私ぃ、虫歯菌居ないんで」
「あれって居ないとかになるものなんだ」
「唾液でうつるらしいッス。なのでキスとかは絶対しません」
「へぇ、そうなんだ」
無駄に感心してしまった。そして彼女のキス事情は割とどうでもよかった。そもそも彼女は僕のタイプではないし、何より以前、友人が――いつもここに居るけどオレかこいつに気があるのか――と聞いたところ、心底嫌そうな顔をしていたから。仮に照れていたのだとしても、スポーツが得意で人の好い友人の方が可能性は高い。
「手回しの遠心分離機とか持って帰っちゃダメかなぁ」
「泥棒じゃないスか」
「使ってないし」
「何に使うんスか」
「何かこう……」
夢があるよね? 彼女に同意が得られるはずもないため、僕は小さく独り言ちた。
◇◇◇◇◇
「そろそろ施錠して帰ろうか」
日はまだそれほど傾いても居ないが、片づけを始めながら篠崎さんに声をかけ――。
「地震!?」
急に浮遊感に襲われ、軽い眩暈がする。揺れのゆっくりした地震のようだ。
「あーあー、もう、何やってんスか」
「えっ?」
僕は気が付くと尻もちをついていた。足元を見ると割れたガラス器具。
「いま揺れなかった?」
「揺れてませんよ。ちゃんと食べてるんスか? 糖分足りてないんじゃ――あっ」
見ると、彼女の指から赤いものが滴っていた。彼女もすぐには気付かなかったのだろう、床にも垂れていた。
「切った? ごめん、大丈夫?」
「私の鞄、持ってきてください。開けちゃダメですよ」
僕はポケットを探ってとりあえずこれでとハンカチを差し出し、彼女の鞄を持ってきた。彼女は実験室の水道で傷を軽く流して絆創膏で止めていた。
僕はガラス片を片付ける。幸い、シャーレの下側は無事だったため、とりあえず割れた蓋の破片を回収し、床を雑巾で拭いた。
「ごめんね、僕のせいで」
「平気ッス。それより先輩、いいかげん僕とか言わないで南先輩みたいに『オレ』の方がいいッスよ」
「えっ、ああ、僕はそういうの似合わないから」
そんな会話をした気がする。気がするというのはその辺りからの記憶がはっきりと思い出せないからだ。
◇◇◇◇◇
「校長の話長いな……」
最初に思ったのはそんなことだったと思う。人が大勢整列していて、前の方で男の人が喋っている。ちょうど体育館で行事をやってるときみたいに。みんな静かに聞いていたので声がよく通る。周りには制服の学生が見えた。うちの高校以外の制服も居た。
『君たちはこの夢の世界に招かれた特別な人間だ』
『なぜ招かれたか。それは君たちが元の世界で現状に納得していない、苦しいと助けを求めていたからだ』
『ある者は人間関係で悩み、ある者は想いを遂げたい相手が居るだろう。そして将来への不安。富を求める者もいるだろう。富はほとんどの悩みを解消してくれる』
『ここでは望みは何でも叶えられる』
『そしていずれは元の世界でも望みは叶えられよう』
何を言っているんだろう。僕は今の生活に不満など無かった。男は大仰な喋り方で言葉を連ねる。胡散臭い――と思っていたが、何故か僕にはそれが納得いく説明のように思えてしまって仕方が無かった。僕は何か苦しんでいた。けれど夢の世界へ招かれることで助けてくれた。そんな風に。
望みは何でも叶えられる。素晴らしい言葉のように思えた。けれど、やっぱり僕には特に望みは無かった。強いて言えば、この長い話をさっさと止めて欲しかった。
ぱちん――何かが弾けたような音がした。
長い話は止まることは無かったが、先ほどまでのおかしな思考が消えて頭の中がすっきりした。なんだ、やっぱり胡散臭い話じゃないか。どうかしていた。
話がどうでもよくなった僕は、いつの間にか居眠りしていた。
◇◇◇◇◇
喧噪に目が覚める。どうやら集会は終わったようだ。結局、誰だったんだろう、あの男は。周りには知り合い同士なのか、その場で仲が良くなったのか、いくつかのグループができていた。あいにく、クラスの知り合いは見渡す中には居なかったが、篠崎さんの姿を見つけられた。
篠崎さんは少し大きめの男女のグループに居た。制服は同じだけれど馴染みのない顔ぶれなので彼女の同級生だろうか。他に知り合いの居ない僕は、彼女の近くまで行く。
「篠崎さん、これ、何の集会なの? 誰かわかる人居る?」
彼女は僕の姿に目を見開く。
「
近くの女の子達が興味深げに僕たちを見比べる。
「あっ、僕は
「『ボク』だって――」
女の子の一人が呟くと、周りの子たちとクスクスと笑う。そんなに変かな……。
「先輩! どこに居たん……ですか。さっきまで部室に居たと思った……んですけど」
「「何か喋り方変じゃない?」」
彼女たちも僕と同じことを思ったようだ。篠崎さんのいつもの喋り方じゃない。
彼女は慌てた様子で僕に後ろを向かせ、押して離れさせる。
「(ちょ、ちょっと、いきなり話しかけないでください)」
「ご、ごめん。他に知り合いが居なかったものだから」
小声で話しかける彼女。そこまで嫌がられるとさすがの僕でも落ち込む。
「(い、いきなりじゃないなら、い、いいッス……)」
「みんな同級生?」
「(クラスの子たちッス。文化祭の相談してたはずがいつの間にかここに居たって)」
「僕たちさっきまでは理科実験室に居たよね……あれ? 篠崎さんは文化祭の相談はよかったの? まさかハブられて――」
「ハブられてないッス!」
慌てて否定する彼女にほっとしたが、大きな声を上げた彼女は慌てて僕を壁にしてクラスの子たちから身を隠す。
◇◇◇◇◇
『それでは移動をお願いします。お帰りになられる方はあちらのゲートへ』
帰るかな。知り合いも居ないし――そう思った僕は、人の流れに乗って帰りの出口へ向かう。
「先輩! ちょっと待って、どこ行くんスか?」
「どこって帰るんだけど……」
「一緒に、一緒に残ってもらえないスか? 知り合い居ないんで」
「クラスの子が居るでしょ……」
「いや、居るッスけど、そんな仲良くないって言うか、なんというか」
「ハブられてないって言ってたでしょ?」
「そう……ッスけど、お願いスから一緒に来てください! お願いっ!」
必死で引き止める彼女に、少しだけならと了承し、残る人たちの流れに乗る。改めてこの体育館のような場所を眺める。床は板張りで四角いホール、天井はかまぼこ型のアーチでいかにも体育館という印象だが、窓がどれも丸く、外は曇りのように見える。
◇◇◇◇◇
「どこまで行くんだろう」
壁に小さな丸い窓の並ぶ広い廊下を歩いていく。長い。窓を覗く――よく見ると窓じゃない。丸い、しかも半球状の丸いものが壁についていて、淡く光っている。
「何これ。変なの」
球は少し高いところについているため頭をぶつけるようなことは無いが、変わった装飾だなとは思った。
「それ、触るとビリッてくるってさっき言ってたッスよね」
「そうなんだ。ごめん、寝てたよ……」
『ご希望のクラスが書かれた通路へどうぞ。先で適正も調べられます』
前の方で声を上げている男がいた。
「クラス? 高校の?」
「それも聞いて無かったんスか? ゲームみたいに戦士とか魔法使いとかになれるらしいッスよ」
「へぇ……え? どういうこと? ゲームみたいに戦わないとダメなの?」
「怪物を倒して金貨を集めて望みを叶えるんスよ」
「そんなの、これみんな納得してるの?」
「納得してないと来てないッス」
「既に意味が分からないんだけど――死んだらどうなるの?」
「死んでも生き返れるらしいッス。あと、無理だったら帰らされるとか」
「篠崎さん、なんかちょっとおかしくない?」
「おかしくないッスよ。ここの人たちは怪物を倒して欲しいそうッスから」
「えぇ、自分でやればいいだけじゃないの……」
「先輩はどうするんスか? クラス。私は魔法使いやってみたいんでこっちッス」
僕は仕方なく、篠崎さんについていくことにした。
◇◇◇◇◇
横長のカウンターの前に二つの列ができていた。日本人らしく綺麗に整列している。僕は篠崎さんの後ろに並ぶ。
やがて篠崎さんの順番が来ると、カウンターの女性は彼女を前に、黒い球のような物を覗き込む。
「魔法使いの適正ありですね。お望み通り、
じゃ――そういって彼女は先に行ってしまった。ドライだね。
「魔法使いの適正はギリギリですね。
「司祭ってどういうクラスなんでしょう?」
「近接戦闘と治癒魔法が得意なクラスですが……覚えてらっしゃらない?」
「あ、ええ、はい……」
当たり前のように聞いてくる女性に、ちょっと戸惑ってしまう。
僕の様子に訝しむ彼女は何故かカウンターを離れようとする。
「あ、魔法使いでいいので、そのままで……」
僕が声をかけると女性は渋々納得したかのように隣の部屋へ案内する。
◇◇◇◇◇
隣の部屋では魔法使いの杖、呪文書と呼ばれた手帳より少し大きいくらいの本、それから金貨の入った袋を渡された。
「呪文書の表に触れて登録するらしいッスよ」
篠崎さんがやってきて説明すると、彼女は自分の呪文書の最初のページを見せる。――破壊・眠り・灯り――と書かれていた。これが使える魔法らしい。
へぇ――僕も呪文書に掌を触れさせると、呪文書の装飾が煌めく。――これでいいのだろうか? ――呪文書を開いてみる。――探知――とひとつだけ書かれていた。その後には探知の魔法の説明書きが1ページだけ。
「え? 探知だけなんだ。どうやって怪物を倒すの?」
「いやあ、どうなんスかね」
篠崎さんも困った様子だった。
僕はもう早々に帰りたくなった。
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★と応援、ありがとうございました。
肌に合うかわかりませんが、ちょこっとだけどんな雰囲気の話かわかるよう、一話だけ上げてみます。
誤字報告は小説家になろう様(https://ncode.syosetu.com/n9436id/)に機能があるのでそちらでお願いしています。
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