第19話
いつも楓たちと待ち合わせているこの場所に立っているだけで不快なのは初めてだろう。何が楽しくて、学校と駅までの距離を親しくもない人と帰らなければならないのか。いや、どうしてそれを私は言えないのか。
陽希の言葉が脳裏に過ぎって思わずため息が漏れる。随分と無遠慮に言ってくれる。
「あれ、もういるじゃん」
「……お疲れ様です」
「連絡くれたらもっと早く来れたのに」
「ごめんなさい、携帯あまり触らなくて」
嘘なら得意、演じるのはさらに得意だ。粗雑で頑固、融通の効かない血なんて見せたくはない。母のような気分で周りを振り回す人にはなりたくない。
私はなりたい自分と世間の目を天秤にかけて、一番いいと思う自分を見せている。出来るならば良い人になりたい。他人に優しく平等になりたい。けれどそれはとても労力を割くことで、労力を割くという意識がある時点でとても難しい。それでも、無理のない範囲で少しずつそうなれたらと思う。
「俺さー、美月ちゃんのこと結構好きなんだよね」
自分に自信のある人の発言。世間を全く気にせず自分の好きなように出来るのは羨ましさもないことはないけれど、少なくとも私は好きではない。綺麗で美しい母の言動に少し似ているから。
少しだけ困惑の色を乗せて微笑む。そんなことで、察して下がるような人ではないだろうけれど。
「清楚で無垢そうに見えて、髪とかメイクとか気にしてるっしょ? 俺見た目気にしてる子好きなんだよね。 でも中身うざったいのは嫌いだから丁度いいなーって」
どうしてその言葉を好きだと思う人に吐けるのか。苛立ちは加速度的に降り積もる。それでも、どこまで拒絶の言葉を言うか、どのタイミングで言うかを慎重に考えている自分がいる。
思い出すのは中学の頃のこと。今よりもずっと閉塞感のある教室の中では、カーストや空気がより重みを増して存在していた気がする。上に立つ人の発言は絶対で、その人の判断で他人の価値が決まる。
「中身は思ってるのと違うかもしれないですよ?」
「えー、じゃあ見せてみてよ、そういうの」
今はもうあの頃とは違うのも分かっている。あの閉塞感は随分となくなっているし、周りの空気が全てを支配しているような感覚もない。分かっている。分かっているのだ。
「……」
その人の一言で、他人の価値が決まる。失言一つで、私の評価は地の底まで落ちた。顔の良さは皮肉の一つになり、ここぞとばかりに同級生の女子たちは私を敵視した。
だからこそ、私はきっと、楓の裏のない眩しさに今救われているのだ。
「……私、恋愛とかよく分からなくて」
「えー、まあなんかそういう感じもするよねー。でもさ、一回試しに付き合ってみたら?案外楽しいかもよ?」
「どうでしょう……話とかも合うか分からないですし」
嫌なら嫌って言えばいい、か。
こうやって曖昧に意思表示したところでこの人は気にしない。全て自分の思い通りになると疑っていないから。だから陽希の言うことは正しい。
陽希だって、本当に私のことをどうでもいいと思ってるならあんなに苛立ったりしないだろう。私が楓を巻き込んでいるというのも陽希の気に障っているだろうけれど、あの人も冷酷なわけじゃない。嫌いは、好きの反対ではないとはよく言うものだ。
陽希も、多少は心配してくれている。それは、ようやく分かってきた気がする。
「……あの」
私よりも随分と早い歩幅に合わせるのを止める。数歩先で立ち止まった先輩が何も変わらない表情で振り返る。私の浮かない表情も、乗り気じゃない言葉も、この人にとっては些細なことなのだろう。だから、この人の表情はずっと変わらないのだ。
「私、先輩とはもう一緒に帰りません」
あの頃とは環境が違う。同じ学年でもないし、この人の一言が全てを支配してもいない。それに、今は私のことを心配してくれている人がいる。
心臓が苦しいのは、恐らく恐怖から来ている。必死にその恐怖を宥めながら、目の前の人を見つめる。
「……あー、はっきり言うんだ?」
「ごめんなさい……私、意外と頑固なんです」
「ふーん、押せば流されてくれるかなって感じだったのにな。まあ俺も、無駄なことに労力かけるのは嫌いだしそうならそれでもういいよ」
何も変わらない笑みがやっぱり怖い。この人にとっては全てが暇つぶし程度なのかもしれない。とはいえ、これで楓にも陽希にも迷惑をかけないで済むのなら、もうこの恐怖が襲ってこないなら、上等だろう。
「その代わりさ、」
「っ」
迷いのない足取り。数歩の距離はすぐに縮まった。目の前で先輩が私を見下ろす。引きたいのに、足がうまく動かせない。
「最後にキスさせて」
悪びれもしていない笑み。一緒に帰ろうと誘った時と同じ笑み。自分の行為が悪になることを知らない人。ある意味純真で、けれど楓とは全く逆側にいる人。
肩を掴む硬い掌。楓と全然違う感触に、体が動かない。近づく顔は、一度受け入れてしまえばそれで終わるのだろうか。
「おい‼︎」
「っ」
視界の端から飛び出してきたリュックと同時に鈍く重たい音が響いた。近くにあった顔が歪んで離れていく。
私の名前を叫ぶ声に振り返ると、そこには楓と陽希がいた。
「美月!」
私の名前を呼ぶのと同時に楓の両手が私を抱き込む。ぎゅっと抱きしめる楓の体が、大きく息をしていて、走ってきてくれたのだと知る。
「いってぇ……んだよ」
先輩にぶつかって地面に落ちたリュックが乱暴に蹴り飛ばされる。地面に擦られながらリュックが転がって、それを陽希が拾い上げた。
そのリュックは、陽希のだった。
「合意の元とは思えなかったので」
「ちっ、またお前らかよ……女子ってなんでそんなに仲良しなわけ?」
「仲良しとか関係なく「いや正論きいてねーわ」
笑みの消えた先輩の顔は更に怖い。私たちの前に立っていた陽希が一歩下がって、思わずその背中を引っ張る。
「はぁー……まあもういいわ。 面倒くさいの嫌いなんだよね俺」
その言葉通りに、先輩は振り返って駅の方へと歩いていく。その背中が小さくなって、建物の中へと入ってようやく安堵の息を漏らした。
「大丈夫? 美月」
「……うん。 でも、なんで二人がここに」
「楓ならそうするって知ってるだろ」
「っ、……そっか……確かにね」
そんな温もりを、好きになったんだった。
隣に立つ楓を抱きしめる。暖かい手が優しく背中をさすってくれる。緊張した体が解けて、ゆっくりと恐怖が溶けていく。迷惑をかけたくないと言ったくせに、駆けつけてくれたことを嬉しく思っている。
でもまさか、陽希まで来てくれるだなんてね。自分は知らないって言っていたくせに。たとえそれが楓のためだったとして別に構わない。いや、咄嗟にリュックを投げつけてくれたのは、少なくとも楓のためじゃないだろう。思っていたよりもずっと彼女は私を心配してくれている。
私よりもずっと楓の隣にいたのだ。その眩しさに焦がれ、彼女もまたその光に影響を受けているのかもしれない。
「陽希もありがとう」
「……本当、次はないようにしろよ」
もっと臆病だと思っていた。けれどそれは、きっと大切だからこそなのだろう。大切なものを傷つけないための臆病さは、大切なものを守るための強さになる。
「ごめんなさい」
「……いやまぁ、あんなのに絡まれたら普通はビビるし」
「フフフ、優しいんだ? 陽希も」
「あ?」
目の前の体に両腕を回す。楓より細い骨格。すらりと伸びる体躯が新鮮だ。うるさい声が離れろと喚く。その響きすら、今はなぜだか楽しく感じられた。
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