第12話
唇を離して目を開けると、ぎゅっと硬く瞑られた瞼から伸びるまつ毛が細かに震えているのが見えた。じっと見つめていればゆっくりと瞼が開いて、黒の瞳が私を捉える。
「ちょっと、見てたの?」
「故意ではないよ?」
視線が落ちて、そのまま楓の顔が私の肩に埋められる。肩にかかる重さと、その仕草に思わず笑みが漏れる。半ば無理やり手を伸ばした甲斐があるというものだ。欲望そのままに手を伸ばして楓を抱き寄せれば、彼女の体が硬くなる。
真似するように楓の肩口に顔を寄せれば、ほのかに彼女自身の匂いがする。ミルクと石鹸の香りは使っているボディーソープの香りだろうか。こんな思考まで曝け出したら楓はどんな反応をするだろう。
「……心臓凄い」
「美月もね」
「そうね」
小さな笑い声。秘密のやり取りのようなそれは、欲望を膨らませるには十分な甘い蜜。ゆっくりと体を離せば彼女も倣うように離れる。見つめ合う瞳に次は許可など要らないと知る。ゆっくりと近づけば、彼女の瞼がまた閉じる。
柔らかな唇は暖かい。未だに心臓は肋骨や肺を叩く勢いだけれど、先ほどよりも少しだけ余裕があるのか感触が先ほどよりも伝わってくる。私が角度を変えれば、僅かに楓の唇も合わせるように動く。楓とこんなことをしている。何度空想して何度慰めたか覚えてもいないけれど、現実の方が何倍も体をおかしくさせる。欲望が無尽蔵に湧き出てきて、理性を手放しそうになる。
沸騰しそうになる頭を冷ますため唇を離す。少し苦しい胸に、呼吸が浅くなっていた事を自覚する。何度か深呼吸して、上った熱を落ち着かせていく。
「美月も余裕ないんだね」
「……聞いたでしょ、さっきの心臓の音」
「あはは。美月はそういうの全然顔とかにでないからなんか、なんて言ったらいいのか分んないけど、ちょっと嬉しい」
「嬉しい?」
「嬉しいで合ってるか分かんないけど」
目の前の真っ赤な顔がふにゃりと緩む。普段見られない姿を見て嬉しく思うだなんて、月が綺麗ですねと言われるよりよほど嬉しいのだけれど、楓はちゃんと理解しているのだろうか。与え続けた熱が彼女の中で新たな熱になっていることを。
我慢が効かない性格とずっと付き合っていく中で引き際に関しては聡くなったと思っていたけれど、そうでもないのかもしれない。目の前でそんな事を言われて、我慢しろという方が土台無理な話ではないだろうか。そんな言い訳を並べながら、彼女の唇に指を這わせる。
ふにゃりと気の抜けていた顔が、緊張に染まっていく。不安と期待を乗せた瞳がじっと私の次の手を見ている。さっきと同じように顔を近づければ、少し慣れたのかゆっくりと目が閉じていく。
照準がずれないよう見定めて、ピンク色の膨らみにそっと重ねる。数度触れ合わせて、薄く唇を開く。きっと触れた瞬間に逃げられるだろう。あまりに性急で、行き過ぎている。分かっている。分かっているのに、止まらない。
「っ」
密着していた体が跳ねて、触れていた唇が後ろへと逃げた。反射的に開いた目が驚いたように私を見ている。どうしよう、何かを言った方がいいはずなのに何も浮かばない。
「な、舐めた……?」
「……ごめんなさい」
「いや、怒ってる訳じゃないけど……びっくりして」
視線が落ちて、遮るように楓の手が口元に置かれる。熱に浮かされた思考は簡単に間違いを選択する。これ以上は、まだダメだ。熱量に差があるのは元から知っていたことだし、それを悲しいとも思わない。ただ、焦ってはいけない。
「ちょっと調子乗ったかも……ごめんね?」
「いや、全然謝られることじゃ」
「楓は優しいのね」
もう一度楓を抱きしめる。何もしないから、上がった熱が少し収まるまでこうさせてほしい。体にこもる熱を息で吐き出す。しばらくそうしていると、頭上からクスクスと漏れる笑い声が聞こえてくる。人が必死な姿を笑わないで欲しい
「余裕なんて、楓を前にある訳ないんだから」
「あはは。 んー、そうなんだ」
楓の手が背中を撫でる。そうやって当たり前に優しさを与えるのはやめた方がいいと思う。私みたいな我儘な人につけこまれるのだから。そういう優しさを好きなった私が言うのもおかしな話だけれど。
「喉が渇いた」
いそいそと離れて、テーブルに置きっぱなしにしていたお茶に手を伸ばす。ぬるくなったお茶を一気に飲み干せば、隣で楓もごくごくと喉を鳴らして飲み干していた。空になったグラスを持って二人視線を合わせる。かっこつけておいて、なんだかありきたりな思春期の様相に思わず吹き出す。
「もう一度注いでくるわ」
「ありがとう」
「喉がカラカラなの、余裕がないから」
「あはは」
朗らかに笑うその顔を見上げる。一度部屋を出る前に、少しくらいならいいだろう。もう一度その唇に軽く触れれば、照れくさそうに楓が笑う。この顔が見れただけで今日の意味はあっただろう。焦らずゆっくりやっていけばいい。最難関は突破したようなものなのだから。
部屋を出れば、心なしか少しひんやりとしている気がする。部屋が暑いのか自分が熱いのかは分からないけれど、階段を下りてリビングに着いた頃には少し落ち着いていた。
冷蔵庫から麦茶を取り出してグラスに注ぐ。扉の方で物音がして顔を上げれば、こちらを覗く楓と目が合った。
「楓?」
「勝手にごめん、やっぱり手伝おうかなって」
「いいのにそんなの」
テーブルの上に散らばったチラシに、ソファーの周りにはおもちゃが落ちている。やや汚い部類に入るこんな部屋を見られたくは無かったのだけれど致し方ない。手招きをすれば犬のようにこちらに寄ってきて隣に並ぶ。
キッチンに楓と並んでお茶を飲んでいる奇妙な光景。
「汚くてごめんね?」
「え? 家もこんな感じだよ」
「嘘、綺麗だったもの」
「見栄はってるだけだよ」
そうなのだろうか。引かれていないだけ良しとしておこうか。あまりこの話題を引っ張るのも嫌だし変えてしまおう。
「また楓の家にも行きたいな」
「いつでも来てよ」
「本当に行くわよ?」
なんなら、またきっとお手付きもするけれど、この顔は深くは考えていなさそうだ。きっと後で気づくのだろう。気づかれる前に口約束を取り付けてしまおうか。
「じゃあ今度都合が合う日に遊びに行くね」
「うん」
少しだけ彼女に近づけば、肩が触れ合う。ぴくりと硬くなる体は、先ほどよりも早く緊張が解ける。肩にかかる楓の重みに、視線を上げればくすぐったそうに笑う彼女の横顔。
「かえ————
「ただいまー‼」
玄関の方で突如聞こえる叫び声と、玄関扉が開く音。想像よりもずっと早いその小さな怪獣の登場に、落胆のため息が思わず漏れた。ドタバタと煩い足音が近づいてきて、ひょっこりと顔を覗かせた弟の流星がこちらを見据える。
「だれかいるー‼」
部屋に木霊するような大きな声に、私はまた一つため息をついた。
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