第11話


 インターホンの音。鏡をもう一度確認して、前髪を数回手で整えてから部屋を出る。今日家族はもちろん留守にしていて、この家には私しかいない。


「いらっしゃい、楓」


 まん丸な黒の瞳、綺麗に持ち上がる口角、セミロングの髪が肩で少し跳ねている。その髪に手を伸ばして何度か撫でてあげると髪は直ぐにまとまった。視線をまた上に持ち上げれば、予想通り少し表情を硬くしている彼女に頬が緩む。


「こ、これお菓子」

「わざわざありがとう。 道迷わなかった?」

「マップがあれば全然」

「そう」


 駅まで迎えに行こうとしたけれど断られてしまった。そういう気遣いは彼女らしいとは思うけれど、もう少し甘えてほしいとも思う。


 これが例えば陽希ならば、きっと頼っていただろう。なんて、無尽蔵に湧き出るこの感情にも慣れてしまった。


「お邪魔します」


 楓や陽希の家ほど大きくはないし、あまり人を呼びたいと思える家ではないけれど、楓と二人きりになれるなら致し方ない。スリッパを差し出して、散らかっているリビングを見せないよう真っ直ぐ階段を上る。


「どうぞ」


 まだ緊張している彼女を部屋に迎えれば、その光景に少し心臓が速くなる。自分の部屋に、好きな人がいる。たったそれだけの事実が、心を踊らせるらしい。


「お茶、オレンジジュース、リンゴジュース、後はコーヒーもあるけれどどれがいい?」

「じゃあお茶で」

「取ってくるから寛いでて」


 そんなものより早く楓と色々としたいけれど、粗雑なところは見せたくない。難儀な性格。

 パンパンにものが詰め込まれた冷蔵庫から麦茶を取ってグラスに注ぐ。気の利くようなお菓子はあったっけ。食器棚の下段の扉を開ければ、ポテチやらチョコやらがこれまた無秩序に詰め込まれている。


「楓が持ってきてくれた菓子折りにしよ」


 早々に諦めて飲み物だけを上に持って行く。扉を開ければ背筋をピンと伸ばした楓が驚いたようにこちらを見ていた。初めての場所を訪れた犬ってこんな反応なのかしら。


「おかえり」

「ただいま」


 テーブルにグラスを置いて、楓がくれた箱を開ける。中身はクッキーのようだ。

 とりあえずの体裁が整ったところで、未だに緊張している彼女をひとまずじっと見つめてみる。


 気まずいのか微妙に視線を外して静かにお茶を飲む姿に少し笑えば、彼女がゆっくりとこちらを見つめる。


「飲みにくい……」

「フフフ、ごめんなさい」


 それでも反省はしていないから、変わらず彼女を見つめ続けていると、グラスを置いた手が私の視界を覆うように私の顔の前へと伸びてくる。


「見えない」

「見ないで」


 思わずまたクスクスと笑えば、目の前の彼女から唸り声のような鳴き声が漏れる。


 彼女は仕草と感情が直結していると常日頃から思う。裏表が無く、嘘がつけない素直な子。それは私によく犬を連想させる。

 そのくせ他人の感情の機微には敏感で、その優しさは誰にでも平等に注がれる。


 自分と他者の関係性をカテゴライズしない人。カーストだとか、派閥だとか、楓の前では意味を成さない。ごく稀にいる、利益とは無縁の所で平等な優しさを持てる人。

 私が好きな人。

 

「楓と二人になりたくて呼んだのに、見ちゃダメなの?」

「へ」


 顔の前で私の視界を塞ぐその手に手を重ねる。ゆっくりとその手を下げれば、耳を赤くしている彼女が視界に映る。


 隙間をなくすように彼女に近づいて、肩が触れてしまう近さで彼女を見上げる。手をぎゅっと握れば、彼女の体が一層硬くなる。


 けれど、彼女の優しさは何も知らない事とイコールではない。

 彼女はカーストを知らない訳ではないし、他人の優しさに損得が勘定されていることを察していないわけではない。


 今日、私がわざわざ楓をこの部屋に呼んだ私の意図だって察せない人ではないのだ。


「半ば無理やり恋人のような関係になった自覚はあるの」

「え?」

「だからこそ、ちゃんと確かめておきたくて」


 私の意図を知っていて尚ここに来たのなら、それはされてもいいと覚悟して来ているのだと、そう理解してしまうけれど、本当にそれでいいのか。 私はあなたほど優しくないから、使えるものは使うし、甘えられるなら甘えてしまう。自分を第一に優先させてしまう。


「キスしていい?」

「……」


 真っ赤になっていく顔。ぎゅっと硬く瞑られた目。覚悟を決めたかのように、瞼がゆっくり開く。本当に感情がそのまま表情になっているみたい。


「頭が状況に追いつけてないのは本当」

「それは、見てればなんとなく」

「でも、していいかってだけなら、わかる……していいよ、聞かなくても」


 したい、と聞けなかったことに心を痛めるのはあまりにも我儘だ。温度差があるのはごく自然な結果で、半ば反則的なやり方をしている私にはむしろ十分すぎる言葉だろう。


 真っ赤な顔を見上げる。複雑な感情は今は要らない。何度描いたか分からない状況が今現実になろうとしている。それだけで充分でしょう?


「じゃあするね」


 ただ触れた頬は驚くほど熱くて、距離が縮まるたびに心臓が煩い。目と鼻の先、ゆっくりと目を閉じる。

 触れた柔らかさに、確かに満たされる充足感。けれどそれと同時に一つの感情が湧き上がってくる。底なしの、空腹にも似たような渇きを自覚する。


 あぁ、足りない。

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