第9話

 話を終えて教室に戻ればそこには日常が広がっていて、さっきまでのことは夢だったんじゃないかなんて淡い期待を抱く。普通に五限目が始まって、部活をして、今年の夏大会の話とか中間テストだとか、そういう話をしながら帰る。

 そんな日々に戻っていたりしないかな、なんて。


 だって頭から湯気がでてもおかしくない位の高難度な会話だったんだもん。複数のヒロインに好かれる漫画でだって最後に選ばれるヒロインは一人なのに、どっちも選んでいいなんて、やっぱり分からない。


 数学のノートに、今起こっていることを書き出してみる。書くことで整理されるってよく言うし、少しは現状をかみ砕けるかもしれない。


 まるいち、一年の終業式に美月に告白される。

 まるに、二年の初めにはるに告白される。

 まるさん、二人と付き合うことになる。


「……異常事態だ……」


 たったのこの三行でやっぱりおかしい。倫理観が破綻している。なんでこれで良い結論になったんだっけ。一行目に美月と話したことの概要を書き足して、二行目にはるとの会話を書き足す。三行目に今日の会話を書き足して、完成したものを順番に黙読する。


 はるを理由に断るくらいなら優先順位は問わないから付き合ってほしい美月の言い分と、美月のことが好きなのに自分を優先して断るのは嫌なはるの言い分が結果的にこの選択にマッチしてしまっている。私はといえば、二人が傷つかない方法が一番良くて、結果的にこの選択に行きついてしまっている。


 訳が分からないのに、成り立ってしまっている。

 数学よりもよっぽど難解な方程式がノートの上に完成している。夢にしては複雑で奇跡的な現状に、諦観の息を吐く。


「じゃあこの問題を……草野」

「え?」

「やけに真剣にノートを取ってたじゃないか」


 教壇に立つ先生にそう言われ、思わず苦笑いが漏れる。黒板に書かれた方程式をその場で解いていく。一年の頃の復習範囲で良かった。明快な手順を踏んで出来上がった解に、先生がチョークでまるを付ける。

 正解。そう、これが正解。


「じゃあ次の問題は……八波」

「……はい」


 私が呼ばれている訳でもないのに心臓が飛び跳ねる。廊下側後ろから二番目の席に座る美月が立ち上がってこちらに向かって歩いてくる。歩くたびに僅かに揺れる髪、丸い目がゆっくりと私を見据えて、丸い瞳と目が合う。


「草野は戻っていいぞ?」

「え? あ、はい」


 そうだった。

 慌てて教壇から降りるとちょうどこちらまでやってきた美月が隣に並ぶ。ふわりと柔らかい笑みに、僅かに指先に美月のそれが触れる。一瞬の出来事で、きっと他の人は気にも留めない位のかすかなやり取り。


 自分の席について、黒板に答えを書いていく彼女の後ろ姿を眺める。まだ、心臓がドキドキ言っている。

 付き合ってる、でいいんだよね私たち。


 浮ついた思考がさっきまでの理性も倫理観も覆い隠していく。私たちの関係は誰もが認める正解なんかじゃない。でも、皆で話し合って、それぞれの意見を纏めて見つけた最善なんだったら。

 それで、いいのかな。


「八波も正解だな。 戻っていいぞ」


 美月が振り返って、歩き出しながら視線をこちらに向ける。視界には私しかいないみたいに美月は愛おしいものを見るように微笑んで、口元が何かを話すように動く。

 私に向けた、秘密の言葉。それは私の勘違いじゃなければ、「好き」とかたどっていた気がする。


「じゃあ今日はここまで。 号令」


 係の人の号令に全員が立ち上がれば美月は見えなくなってしまう。チャイムが鳴って煩くなる教室の中、余韻のような熱がまだ体を擽っている気がする。熱が引いたらまた理性を取り戻して、未来の私は頭を抱えるのかもしれない。でも、手に入れてしまったらもう手放すことは出来ないんじゃないかな。ダメな事だからって拒絶することはしないんじゃないかな。

 好きって気持ちは、きっと人を少しおかしくさせてしまうんだ。

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