第5話

 知ってしまった。

 認めてしまった。


 そうしたら、抗う手段は後なにがあるんだろう。唇が触れた頬が熱くて、目の前にある焦げ茶の瞳から目が逸らせなくて、思考ははるか彼方に飛んでしまった。


「同じ気持ちなら、楓も我慢しないで」


 空っぽの容器に水を注ぐように、真っ白になった頭にその言葉が落とし込まれる。我慢しないで、いいのかな。自分でもコントロールできないこの感情に身を委ねてしまってもいいのかな。そんな風に思考が傾き始めた瞬間だった。


 ————好きなんだよ……私も。

 泣きそうな声が頭の中に響いた。


「あ、」

「え?」


 ダメじゃん。思い出したはるの声に、美月の肩を押す。

 同じ気持ちだとしても、選んじゃったらはるを選ばないことになってしまう。美月の言い分だって理解できるし、普通なら美月の言う通りだと思う。でも、私は我慢しなきゃいけない。はるを傷つけないために。


「……そんなに陽希が大事?」


 目の前の唇が紡ぐ言葉に目を見張る。なんで、と漏れた声は美月の大きなため息でかき消された。前のめりになっていた体が離れていって、肩にかかる髪を手で払う様子を呆然と眺める。


 なんで、はるのこと。

 一人だけ置いていかれているみたいだ。美月だけが全部を知っていて、目まぐるしい状況に一人だけ振り回されて、ずっと狼狽えているみたいな。


「楓が元気ない理由を知ってるか、ここに来る前に陽希に聞きに行ったの。そしたらあの子、あからさまに怯えた顔してどっかに走って行っちゃった」

「なんではるに」

「陽希の気持ちを、私が知らないと思う?」


 そう言って美月が真っすぐに私を見つめる。その目には一体どれだけのものが見えているのだろう。私の本心だけじゃなくて、もしかしたら世界の真理だって見えているのかもしれない。私はその目から逃げるように視線を落とす。お弁当箱から転がった箸が階段の下に落ちている。


「ずっと見てきたから分かるよ。 でも、ようやく楓の気持ちを動かせたのに陽希がいるからダメなんて私は納得いかないの」

「で、でも私は……美月と同じ位はるが大切なんだよ」


 知ってるなら、私の選択がはるを傷つけることは美月にだって分かるはずだ。


「……だったら、二人と付き合ってみてよ」

「……え?」

「私はいいよ、それでも」


 思わず耳を疑ってしまう位、その言葉は現実離れしていた。私の理解の仕方が間違っているかもしれないともう一度言葉の意味をパンクしている頭で必死に読み解いていく。でも、二人と付き合ってみるっていう言葉自体が理解の外にあって、何度かみ砕こうとしても上手く出来ない。

 私はいいよって、美月言った?


「待って……頭が限界になってきた」

「私と楓は両思いだから付き合って、それだけじゃ陽希が傷ついちゃうから陽希とも付き合うの。 そうしたら円満解決でしょう?」

「円満って……いやいやいや、流石にそれは流されないっていうか、もはや騙しだよそれ。 要するに浮気?になるよね? そんな不貞行為一番傷つけるよ!」

「不貞はちょっと意味が違うけど……それに、目の前の私は振られるよりそっちのほうが傷つかないよ?」

「それは……美月がちょっとおかしいと思う」

「言うわね」


 だって浮気してもいいなんて聞いたことがないよ。中学の時聞いた友達の恋愛話だって、配信サイトで見る恋愛ドラマだって、浮気オッケーなんてものは一度だって触れた事なんてない。


 でも、そんなの当たり前だ。浮気が悪いことなのは、それだけ普遍的な認識なんだ。


「……これからも楓の隣で友達として笑い続けるのが苦しい」


 それは、驚くほどにフラットで、驚くほどにまっすぐな言葉だった。

 

「友達として笑えてたら良かったけどもう出来そうにない。またそんな日々に戻るくらいなら傷つく日があってもいいから楓に触れたい。そう思うのは、そんなにおかしい事?」


 ガツンと鈍器で殴られたみたいな衝撃。頭がくらくらして、視界がチカチカと明滅する。


 これは友達の話でもドラマの話でもなくて、私が当事者の話なんだ。今までの常識とかなんとなくの認識とかではそれは確かに悪いことだ。でも、美月は自分なりに考えてそう結論を出している。じゃあ、当事者である私もちゃんと考えなきゃいけないことじゃないのかな。


「フフフ」

「え、な、なんで笑うの」

「楓って本当に良い子だなって。 そういうところも好きだけど、いつか騙されないか心配になっちゃう」

「え……もしかして今、騙されてますか」

「全部本心よ。 でも、そうだな……楓にももう一度考える時間が必要だと思うし、私と美月だけの問題でもないから、こうなった以上不服だけど陽希の気持ちも確認しないと。 私の言ってることが独りよがりになるから」


 温和な笑みを浮かべながら美月は言う。

 今まで散々嵐のように私を振り回したくせに、こうやって一番上手なタイミングで彼女は下がるんだ。私は金魚みたいに口をパクパクさせながら、結局言うべき言葉を見つけられずになけなしの不満を漏らす。


「ずるい……」

「ずるいよ私は」


 そう言えるのまで含めて、本当にずるい。

 落ちていた箸を拾ってケースに仕舞うと、美月が使っていないフォークを貸してくれた。味がしないって言ってたお弁当を今は美味しそうに食べている美月の横顔を眺めながら、冷たいウインナーを口に運ぶ。


 本当に、ずる過ぎるよ。

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