第二十話「大浴場で効能をたっぷり体感すべし」②

 箱根彩耶には、「これが夢だ」ということが分かっていた。

 どんなに走ってもまったく疲れないのだ。箱根駅伝の距離を超え、フルマラソンの距離を超え、もう一〇〇キロ近く走っているのに、呼吸は乱れず、足取りも軽い。

 さすがの自分といえどここまでの体力オバケではない。だから、これは夢だ。

 夢の中の自分はちょくちょく左のもみあげを弄りながら、なにかを探して走っている。

 早く「あれ」を取りに行かなければ。

「あれ」がどこにあるかは分かっている。彩耶が居候させてもらっていた『結』の一室だ。

 だけど――どんなに走ってもたどり着けない。

 早く「あれ」を取りに行かなければ。せっかく那菜子と作ったんだから。

「あれ」を取りに行っても、みんながやる気になってくれなければ意味がないけれど。

 でも、そこは心配ない。

 自分たちには――源泉のように熱く引っ張ってくれる親友がいる。

「結衣奈……」

 彩耶はそう呟いて、走るスピードを上げた。

 そうしているうちに、彼女は――「これが夢だ」ということを忘れていった。


♨    ♨    ♨


 もうすぐ『夜の部』が始まるというのに、この空気はなんだろう。

 舞台袖に控える少女たちを遠巻きに眺めながら、有馬輪花は顔をしかめた。

 泉海などは何度も時計を気にしながら足先でトントンと床を叩いている。いらついているようだ。

「……結衣奈はまだですか?」

「結衣奈ちゃんなら、すぐに来るんじゃないかな。そんなに心配しないで?」と楓花が言った。

「そう言ってもう三〇分です! あと五分で夜の部が開演ですわよ!?」

「まあまあ。結衣奈は大トリだし、それまでには来るでしょ」

 輪花は楓花を庇うように前に出た。楓花に当たったところで結衣奈が現れるわけではない。

 泉海もそれは分かっているのか、大きく溜息をついた。

「はあ……。夜の部さえ無事に終わればお祭りは成功ですのに……」

「……そうね。さっさと終わらせたいわね」

 輪花はそう言ってしまって――自分の口下手が嫌になった。

 本当は「そうね。泉海が焦る気持ちも分かるわ。彩耶のためにもしっかりお祭りを成功させて、その上で彼女の病気の調査に行きたいわよね。でも、いや――だからこそ、落ち着きましょう」と言いたかったのだ。「さっさと終わらせたい」ではニュアンスが真逆である。

「さっさと終わらせたい、ですか……」と、泉海が輪花を見た。

「あ、いや! そんなつもりで言ったんじゃなくて!」

「言われてみれば……心のどこかに、そういう気持ちがあるのかもしれませんわね」

「……え?」

 筋違いの発言を咎められるのかと身構えていた輪花は、泉海がぽろりとこぼした本音に反応できなかった。

「分かりマスよ」と、奏までそれを認めた。「路上に出て、コントでお客さんたちと触れ合って……みんな笑顔でした。お祭りは成功デース」

「だったら……。いまは、彩耶ちゃんのことを考えたいよね」

 楓花も複雑そうな表情をしている。姉の輪花には、その顔が「こんなことをしていていいのか」と言っているように思えた。

 もちろん、いまさらやめるという選択肢はない。ステージはとっくに開場していて、たくさんのお客さんたちの期待に満ちた声が舞台袖まで聞こえてくる。彼らを失望させてしまっては、彩耶の想いを踏みにじることになってしまう。

 だから、『夜の部』はつつがなく終わらせる。

 輪花はそう考えてプログラムを練り直した。お客さんが期待している最低限の内容を披露しつつ冒険はしない。彩耶が倒れた以上、それが最善の策だと信じていた。

「……これでよかったのよね」と、輪花は呟いた。

 それは、とりもなおさず――「これでよかったのだろうか」という思いが心のどこかにあることを意味していた。

 誰からも返答がない。それどころか、誰も輪花と目を合わせようとはしない。

 気まずい沈黙が、舞台袖を蝕んでいた。

 開演まで一分を切った。「……では」と目礼して、泉海がステージへ向かおうとする。

 輪花は迷った。

 こんな気持ちのまま、彼女をステージへ向かわせていいのだろうか。

 こんな気持ちのまま、自分はステージに立てるのだろうか。

 誰もがそんな逡巡を抱えながらも泉海を見送るしかなかった――そのとき。


「わあああぁぁぁーーーーーーっ!! ま、間に合ったあっ!!」


 源泉のような熱量を持った、ひとりの温泉むすめが飛び込んできた。

 輪花は思わず叫んでいた。

「――ゆ、結衣奈っ!?」

「いずみん、ストップストップ! 出番変更!」

「は!?」

 結衣奈は風のように舞台袖を駆け抜けると、ステージに足を踏み入れかけていた泉海の肩を掴んだ。泉海が目を丸くして振り返る。

「いずみんは着替えて鳥居行って綾ちゃんと合流して!」

「え。ちょっ……なんでですか!?」

「わたしじゃよく分かんないから、綾ちゃんから直接聞いて! ハリーハリー!」

 そう言って、結衣奈は泉海の背中を押すように更衣室へ向かわせる。泉海ははじめ抵抗していたが、結衣奈の不思議な勢いに負けて更衣室の中へ消えていった。

 結衣奈は更衣室の扉を閉めると、輪花、楓花、奏に向かってがばっと頭を下げる。

「わたしも取ってくるものがあるからもう一回離脱します! あとよろしく!」

「えええ!? ちょっと!?」

 輪花の制止も聞かず、結衣奈はくるっと振り返ると再び外へ出て行ってしまった。

「……」

 あっという間の出来事に誰もが呆気にとられて、舞台裏に台風一過のような静寂が訪れる。

 その静寂を破ったのは、楓花の笑い声だった。

「ふふっ。さっきと同じで静かだけど、さっきとは全然違うね」

 くすくす笑う楓花は「はーい」と手を挙げると、とんでもない発言をした。

「というわけで。ふうかもちょっと用事ができちゃったから行くね♪ あとよろしく♪」

「――えっ!?」

 楓花は結衣奈の真似をしてくるりと回転すると、とてとてと歩いて消えていった。

「……えっ、ちょ……! なにが起きたの、いま!?」

 ようやく演者五人が揃ったかと思ったら、演者がふたりに減っていた。

 輪花の頭がくらくらした。裏方のスタッフが「どうするんですか?」という顔で輪花を見つめている。会場にはもうオープニングPVが流れ始めていて、期待の声はますます高まりつつある。

 輪花は奏を見た。奏も輪花のことを見ていた。

 不思議なことに――こんな状況だというのに、ふたりはニヤリと笑い合った。

「ワクワクしてきましたね、輪花さん!」

「……まったく。いい迷惑よ」と、輪花はにやけながら舌打ちをした。

「奏! 結衣奈が戻ってくるまで、意地でも会場を湯冷めさせないわよ!」

「ヤー! このバーデンにかかれば会場のひとつやふたつ、余裕で沸騰させてみせるデース!」


♨    ♨    ♨


 道後泉海の喉は、自然と鼻歌を紡ぎ出していた。

「ふんふんふんふふんふん~♪」

 彼女は草津湯根神社の鳥居のそばまでやってきていた。シャクナゲの木々の隙間からは空っぽの湯畑がライトアップされているのが見える。『なしなし祭』のメインステージはその奥で、ここからだと観客席の一部しか見えない。

 聞こえてくるのは鼓動を刻むような重く激しいドラム音と、女性の黄色い声。ステージに立っているのは輪花だろう。

「……~♪」

「あら、珍しくご機嫌ね」

「ひゃわっ!?」

 泉海は裏返った悲鳴をあげた。

 おそるおそる振り返る。鳥居の真下に、白手袋に包まれた手をふりふり振っている美人がいた。

「ただいま、泉海ちゃん♪ ねえ、もしかして今の曲って……」

「そっ、その話は後ですわ!」

 イタズラっぽい表情でにじり寄ってくる綾瀬から後ずさりながら、泉海は慌てて話題を逸らした。

「結衣奈から、急いで貴女と合流しろと……。どうしたんですか?」

「彩耶ちゃんの病気の正体が分かったのよ♪」

「なるほど……。って、ええ!?」

 綾瀬があまりにさらりと言うので、泉海は一瞬だけその話を流しかけてしまったが――すぐに、その重大な意味に気付いた。

「それを調べに行っていたんですか……。それで、正体とは!?」

 それならそうと伝えてから行方不明になってほしかったが、この際それはどうでもいい。泉海はずいっと綾瀬に詰め寄って、彼女の言葉を待った。

「それが、その……。ただの温泉不足だって」

「お、温泉不足……?」

 泉海の目が点になった。綾瀬も肩すかしを食った表情をしている。

「ええ。ある程度の期間、一度も温泉に入浴しないと発症するそうよ」

「……では、温泉に入れば治るということですか?」

「正解♪ 嘘のようによくなるって」

「そう……ですか。よかった……」

 泉海は胸を撫で下ろした。拍子抜けするような理由だが、彩耶の無事に勝るものはない。

「温泉不足で倒れるのは、病気というより私たちの『この身体』に備わっている機能らしいの」

 綾瀬は「この身体」という語を強調して、指先で泉海の脇腹をつつこうとしてきた。

「機能?」と泉海は冷静にその指をかわしながら聞き返す。

「私たちは源泉の湧出とともに生まれる。けど、その源泉をすぐに人間が見つけてくれるとは限らないじゃない? こっちは何もできない赤ちゃんなのに」

「ええ。授業では、その間わたくしたちは成長せずに眠り続けると……あっ」

 と、泉海は得心した。

「……なるほど。『毎日温泉に入れる』ということは『毎日面倒を見てくれる人がいる』ということですわね」

「そういうこと。察しが早くて助かるわ♪」

「いえ……。ありがとうございます、綾瀬さん。こんなに早くそこまで……」

「あら、手がかりを見つけたのは私じゃないわよ」

 そう言って、綾瀬はニヤリと笑った。

「え? じゃあ……」

 誰が、と尋ねようとして――泉海はひとりの少女しか思い当たらないのに気付いた。

 つむじ風のようにやってきて、自分をここに遣わせた温泉むすめ――。

「……結衣奈ですか」

「はい、三問目も正解よぉー♪」

「あの子は……」

 なかなか現れないと思ったら、ギリギリまで彩耶のために駆けずり回っていたのか。

 綾瀬が表情を引き締めて言った。

「というわけで、泉海ちゃん。いますぐ彩耶ちゃんを温泉に入れてあげて、結衣奈ちゃんのところに連れていってあげましょう」

「ええ、必ず。……とはいえ、その問題は簡単ではありませんわ」と、泉海は顎に手を当てた。

 結衣奈がここに自分を送りつけたのは、この問題を解決させるためか。

「……そうね。草津には温泉がない……」

「はい。別の温泉地に行こうにも、意識がなければお社渡りはできないでしょう。最寄りの温泉――たとえば伊香保温泉などに車で連れて行くしかありません」

「でも、それだとステージには間に合わない……。あ、そうだわ」

 綾瀬がぱんと白手袋を合わせて言った。

「逆転の発想で、私たちが温泉のほうを持ってきたらどうかしら?」

「ええ。それしかないでしょう」

「貿易港に近い温泉地は? コンテナにお湯を詰めて、せーのでお社渡りするのはどう?」

「無理です。せーのって、どうやってその質量を動かすんですか」

「じゃあ、逆にビニールプールとか。これならふたりでも持てるんじゃない?」

「彩耶が浸かる前に冷めてしまいますわ。温かいお湯で汗腺を開かせ、成分を浸透しやすい状態で入浴させないと回復に時間がかかってしまう可能性が高いです」

「残念。じゃあ……なにかないかしら。急がないと」

 綾瀬は軽い口調でポンポンと提案を出しながら、しかし表情は真剣に考え込んでいる。

「……そうですね。あの方法なら」

 泉海は顔を上げた。

 大量のお湯を運べ、運んだ先で容易に温め直すことができる――昔懐かしい入浴法。

「ドラム缶――」

 そう、泉海が呟いたとき。

 ――ガコン。

 という金属音が鳴って、草津湯根神社の鳥居の中央に――横倒しのドラム缶が現れた。

「……えっ?」

 あまりのタイミングに泉海も綾瀬も言葉を失って、危機察知の本能が働かなかった。

 ドラム缶は、そのままごろりと一回転し、ごろごろと二回転し、徐々にスピードを速め――

「きっ……!?」

 ――泉海たちの方へ、転がってきた。

「きゃあああーーーーーーっ!?」


♨    ♨    ♨


 万雷の拍手を浴びて、奏・バーデン・由布院は気持ちよく舞台袖に引き上げた。

 時刻はぴったり十九時半。大急ぎで組み直したタイムスケジュール通りの完璧な進行だ。

 難しい調整は輪花が済ませてくれたので、奏は彼女に言われたとおりに動き、その任務を完遂するだけでよかった。観客は充分に温まっている。あとは結衣奈に任せればいい。

「結衣さーん、戻って来てますかーっ?」

 奏はひょこっと中を覗いた。結衣奈がぶんぶんと手を振っている。

「お疲れ、バーデンちゃん!」

「おっ、来ていたデスか! じゃあ、大トリお願いしマー……んんっ?」

 入れ替わりでステージに向かう結衣奈とハイタッチをしようとして――奏は、彼女の両手がふさがっているのに気がついた。

「なんデスか? それ」

 平らな箱だ。それもふたつ重ねて持っている。ピザの出前かな? と奏は思った。

「これを取りに戻ってたの。じゃ、行ってくる!」

 結衣奈は適当にはぐらかして行ってしまった。ごわごわした神楽服が歩きにくそうである。

 彼女のステージは『なしなし祭』のフィナーレを飾る大トリで、とにかくお客さんを盛り上げるために速いテンポの曲を用意しておいたはずなのに、大丈夫だろうか。

「結衣さん、あんな衣装でしたっけ?」

 奏は音響責任者の鶴さんに尋ねた。普段は草津湯根神社で掃除夫をしているこのおじいさんは、かつて東京でDJをしていたらしく、今回の裏方のひとりとして白羽の矢が立った。

「いやあ、それが……」と、鶴さんは参ったように猫背をさらに縮めた。

「……あの子、曲目変えたのよ」

 補足したのは輪花だった。奏と同様に結衣奈が戻ってくるまで場を繋ぐ役目を務め上げた彼女は舞台裏でくつろぎながら面白くなさそうにスマホを弄っている。

「こうなったからには激しい曲じゃなくて、本来の神楽をやりたいんだって♪」

 いつの間にか戻ってきていた楓花がさらに付け足した。

「あたしたちは反対したんだけどね。ほんと、なにを考えてるんだか」

ヴィルクリッヒまじですか!? 結衣さんは予想外すぎて制御不能デース! 糸の切れた凧デース!」

 奏は、しかしどこか面白そうに「やれやれ」と首を横に振った。

 ライブステージというのは物語であり生き物である。それが奏の矜持だ。

 一冊の本を綴るようにライブ計画を練り込んでおきながら、本番では本能の赴くままにそれを破壊していく。予定調和が衝動によって壊されるとき、舞台には眩いばかりの煌めきが生じるのだ。

「ま、骨は拾ってやるから、好きにやってみろデース。結衣さん、貸しひとつデスよ」

「ねえねえ、かなちゃん」

 彼女が嘆息しつつステージの結衣奈を見ていると、不意に楓花が声をかけてきた。

「その衣装のままだと冷えちゃうよ。お姉ちゃんも」

「えっ、いまさら?」と輪花が言った。彼女のステージが終わったのは一時間前だ。

「えっとね、いまさらって言うか、頃合いって言うか――ふうかね、取ってきたものがあるんだ!」

 楓花はクラゲのようにふよふよと両手を広げて漂っている。奏は首を傾げた。

「……というと?」

「時は来たれり、かな、かな♪」

 そして今度はびしっと言った。奏にはちょっと意味が分からなかった。

「というわけで、更衣室にごー、ごー♪」

 更衣室の入口にとてとてと駆け寄って、楓花はちょいちょいと手招きする。

 にこにこ笑う彼女は全身で「かわいい」を体現したような存在だ。

 その笑顔で誘われると、奏も輪花も、なぜか断れないのだった。

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