第十九話「大浴場で効能をたっぷり体感すべし」①

 湯畑の方角から聞こえる拍手を、秋保那菜子はぼうっと聞いていた。

『湯なしでもおもてなし! フェスタ』は大盛況だ。現在は『神楽お披露目 昼の部』がメインステージで行われていて、結衣奈、泉海、楓花の三人が神楽を奏上している。昼の部のステージは「歴史と伝統」をテーマにした構成で、曲調をほとんどアレンジしていない正統派の神楽が披露されているはずだ。

 本来は――那菜子のソロステージも昼の部に割り当てられていたが、中止になった。

「那菜ちゃん、彩耶ちゃんについててあげて」と結衣奈に言われたことを思い出す。「那菜ちゃんがついててくれるなら、わたしは安心して踊れるから!」

 結衣奈はそう強がったが――那菜子の両手をぎゅっと握った彼女の手は震えていた。

「彩耶ちゃん……。早く目を覚まして……!」

 那菜子は正面にある病室の、怖いくらいに白い引き戸を祈るように見つめた。

 彩耶が突然意識を失ってから、半日以上が経過していた。

「那菜子!」「那菜ちゃん……!」

 彼女たちにしては乱暴な足取りで泉海と楓花が現れた。ふたりとも額や首筋に汗の跡が残っている。昼の部が終わってすぐに駆けつけてくれたのだろう。

「彩耶ちゃんは……?」と、楓花が不安そうに尋ねた。

「まだ起きないの……。いま先生が」

 診てくれてる、と伝えようとしたとき、病室の引き戸が開いた。

 戸を開けたのは白衣を着た中年の女性だ。結衣奈のかかりつけ医で、綿引というらしい。

 那菜子は「どうですか!?」と訊こうと腰を浮かせたが――綿引を見て口をつぐんだ。

 その表情は険しかった。彼女はおもむろにマスクを下ろすと、「……中へどうぞ」と言った。


 那菜子、泉海、楓花の順で病室に入る。

 中央に大きめのベッドがあり――その上で、彩耶が人形のように眠っていた。

「……っ」

「彩耶ちゃん……!」

 那菜子はなんとかこらえたが、楓花が悲鳴のような声で彩耶を呼んだ。

 病床の彩耶を初めて見るのだから無理もない。昨日からずっと傍についている那菜子でさえ、彩耶を見るたびに不吉な想像をしてしまうのだ。

 それほどまでに彩耶は穏やかに眠っていた。まるで、もう目覚めないかのように――。

「……先生。どうなんですか?」

 その想像を振り切るように、那菜子は綿引を見上げた。

「……妙、なのです」

 綿引は彩耶のベッドに歩み寄り、そう言った。

「妙……?」

 泉海が怪訝そうに問う。

「……箱根さまの体調に異状はないんですよ。となると過労の可能性が高い。秋保さまや道後さまも心当たりがあると言ってましたよね」

「はい……。この一週間働きづめでしたから」と、那菜子は頷いた。

「私もそう診断し、点滴しながら経過を見ました。しかし……」

 綿引は彩耶の傍に屈んで、言った。「目覚める様子がなさすぎます」

 泉海が息を呑む音が聞こえた。

「……なにか別の病気の可能性が高い、と?」

「そんな……!」

 那菜子は頭が真っ白になった。病名すら分からないということは、複雑な、あるいは重い病気の可能性が高いのだろうか。

 綿引は頷いた。

「その可能性も否定できません。特に……」

「――温泉むすめだけがかかる、特別な病気の可能性……かな?」

「楓花……?」

 突然そう言った楓花を泉海が驚いて見る。綿引も、那菜子も彼女を見た。

 楓花は誰の眼差しにも目を合わせず、彩耶を見ながら続ける。

「ふうかね、聞いたことがあるんだ。温泉むすめの身体は人間と同じだけど、同じじゃない。その隙間に――悪いものが入り込んじゃうことがあるって。ふうかも、詳しいことは分かんないけど」

「……だとしたら、人間の医者の手には負えません」

 綿引は厳しい表情で断言した。

「そんな……!」

「ですが、他の病気の可能性をできるだけ排除することはできます」

 抗議の声を上げかけた那菜子を制して、彼女は白衣を翻して診察用の椅子を引き寄せた。そこにどかっと腰かけ、カルテとペンを手にとって那菜子を見上げる。

「秋保さま。箱根さまのここ一週間の生活について、覚えているかぎりのことを話してください。ちょっとした異変でも、普段しないようなことをしていたことでも、なんでもいいです。

 ――結衣奈さまにも聞きたいんですが、あの子は?」

「来てないの? ふうかが舞台袖に戻ったときには、もういなかったよ」

「わたくしも……ここに来ているものだとばかり」

 楓花と泉海が戸惑ったように言った。「連絡しておくね」と、楓花がスマホを取り出す。

「……たぶん、あそこだ」

 那菜子はちらりと窓の外を見た。

 憎らしいほどの快晴だ。きっと彼女も、同じ空を見上げているに違いない。

「結衣奈ちゃん……」


♨    ♨    ♨


 お湯のない露天風呂に寝転がって、結衣奈はからっと晴れた青空を見上げていた。

 昼の部のトップバッターを務め上げるや否や、結衣奈は神楽服のまま会場を抜け出した。しかし、どこに行っても人がいるものだから、ひとりになれる場所といえば町の外れにある西の河原公園のさらに外れにある大露天風呂の中しかなかった。

 そう。温泉街は、どこに行っても人で溢れている。

 どこに行っても人がいて、その人たちを地元の人々が全力でもてなしている。

 そこには活気があって、癒やしがあって、笑顔がある。結衣奈が草津温泉に取り戻したかったものがすべて揃っている。

 けれど――そのタイミングで、親友が倒れてしまった。

 今度は、紛れもなく自分のせいで。

 富美代の出発に間に合わせたい一心で、頼まれたわけでもないのに無茶なスケジュールを提案したのは結衣奈だ。彩耶はそれに全力で応えようとしてくれて、そして倒れた。

「……親友失格だな……。彩耶ちゃん、ごめん……」

 ――ちょいなっ♪

 結衣奈が自己嫌悪に陥っていると、スマホにメッセージが届いた。

 吉報を期待して飛びつく。送り主は楓花だった。

『彩耶ちゃん、過労じゃないみたい。もしかしたら、温泉むすめ特有の病気かもしれない』

「温泉むすめの病気……!」

「綾ちゃん」が言っていたとおりだ、と結衣奈は思った。

 病床の彩耶の様子を一見した綾瀬は、『ちょっと厄介な病気かもしれないから、調べてくるね。 P.S.泉海ちゃんをいずみんって呼ぶなら、私は「綾ちゃん」で♪』というメッセージを結衣奈に送ったきり姿を消してしまった。

 それ以来、綾瀬からの連絡はない。結衣奈は溜息をついてホーム画面に戻った。

「……ユツバちゃんもあれから眠ったままだし」

 ホーム画面では、何かとやかましかった二次元アイドルが魂を抜かれたように浮遊していた。

「はあ……。お祭りは成功したはずなのに、なんでこんなに虚しいんだろう……」

 結衣奈は自分でも答えが明らかな疑問を呟く。

 決まっているじゃないか。これでは彩耶を犠牲にして成功したようなもので――。

 ――ちょいなっ♪

 ひとり反省会を始めかけたところで再びスマホが鳴った。結衣奈は大きく溜息をついてロックを解除する。

 今度は輪花からだった。用件は『「夜の部」プログラム再構成案.pdf』。

 そんな気分ではないが、既読をつけてしまったのでチェックするしかない。結衣奈はファイルを開いた。

『「夜の部」のテーマは「復活と新生」のまま維持。曲調は昼とは変えてポップに寄せたい』

『彩耶と那菜子、行方不明の綾瀬の三人の出番はカット。あとの五人で回す』

『頭は泉海とふうちゃんで始める。ふたりの神楽は二番煎じだけどここは妥協』

『あとは輪花、奏、結衣奈の順でとにかく盛り上げる』

『具体的な時間配分は以下の表を参照』

『新曲と草津節は面子が揃わないのでカット』

 超特急で仕上げたらしく、文書には箇条書きで必要最小限のことだけが書いてあった。

「げっ、新曲も草津節もカット!?」

 結衣奈は思わず声に出して言った。そのままの文字を打ち込むと、すぐに返信が来る。

『それなら、トリを草津節にしなさい。ただし結衣奈のソロ。あと奏アレンジのロックVERで』

「おっけー。新曲は?」

『無理』

「うわあ、ばっさり……」

 そのメッセージに既読がついたきり、輪花からの返信は途絶えた。

 彼女はいま、文書のとおり『夜の部』のプログラムの再調整に奔走してくれている。彼女の苦労を考えればこれ以上わがままは言えない。

 結衣奈は少し考えて、『ありがとね、輪花ちゃん』と追加で送信しておいた。

「新曲なんてできるわけないよね……。でもまあ、本来の目的は達成したし」

 結衣奈は自分に言い聞かせるように言った。このお祭りの目的は「人を集めること」なのだから、彩耶が倒れてしまった以上、ライブステージは事前の告知どおりに温泉むすめの神楽をつつがなく披露することに集中した方がいい。そんなことは分かっている。

 なら、自分の心に刺さったこの小さなトゲのようなものはなんだろう。

 これも決まっている。結衣奈はちかやに「最高のステージを見せる」と約束したからで――。

 ――ちょいなっ♪

「また!?」

 結衣奈はさすがにイラッとしながらスマホを手に取った。送り主は再び楓花だった。

『本日の入込客数七三六五人(暫定)。祝、目標達成  道後入れ墨』

 送信元は楓花だが、メッセージは明らかに泉海からだ。入れ墨はないだろうと結衣奈は思った。

「……っていうか、それは分かってるんだってば!」

 結衣奈は適当にスタンプを返してスマホを脇に置き、次にメッセージが来ても無視を決め込むつもりで立ち上がった。

「よし! 踊りながら考えよう!」

 そうすれば自分の世界に集中できるだろうと思って、『草津節』の体勢に入る。

 結衣奈は空っぽの露天風呂をステージに見立てて目を閉じ、空手の型のように片手を突き出した格好から――ゆっくり、踊り出した。


「くーぅさぁつ、よーいとーこぉ、いちどーはぁおいでー」

 ――ちょいなっ♪ と、合いの手のようにスマホが鳴った。

 違う。そこは(あ、どっこいしょ)だってば、と結衣奈は思った。


「お湯のなーかにも、コーリャ、花がー咲くよー」

 ――ちょいなっ♪

 違う。ちょいなは二回だってば、と結衣奈は思った。


 あーもう! と心の中で叫ぶ。

 本当に――思いどおりにいかない。

 ずっと、日本一の草津温泉にふさわしい温泉むすめになりたいと願っていて。

 ついにその機会がめぐってきたと思ったら転入試験に落ちて。追試に合格したと思ったら儀式が必要だとか言われて。苦労してそれをやり遂げたと思ったら源泉が枯れてしまって。なんとか人を呼ぶためのお祭りが成功したと思ったら――親友が倒れてしまって。


「あさーのーォ湯けむり、ゆうべーぇの湯もやーぁ」

 ――ちょいなっ♪


 いいことがあったと思ったら、悪いことが起こる。

「草津ァ湯のまーちー、コーリャ、夢のー町よーぉ」

 たまには、思ったとおりの、願ったとおりのことが起きてよ――と、結衣奈が思ったとき。


 ――ちょいなっ♪ ちょいなっ♪


 今度は正しいタイミングで、正しい回数の、着信音が鳴った。

 結衣奈ははっとして踊りをやめた。「……あのさ、なにもこのタイミングで奇跡が起きなくても」と苦笑しつつ、観念してスマホを拾い上げる。

 ロックを解除すると、たくさんのメッセージが結衣奈に届いていた。輪花からは『再構成案2』が届いていたし、楓花からは『アイロンかけたいんだけど、結衣奈ちゃんの神楽服どこー?』と困り顔のスタンプが送られてきている。奏からは『路上コントで温泉まんじゅうもらいすぎちゃいました! 結衣さん、食べるの手伝って!』と、意外にも普通の日本語で連絡が来ていた。

 温泉むすめの仲間からだけではない。富美代経由でちかやから『昼の部』の感想が送られてくれば、元クラスメイトでバイト中のみんなからは路上で観光客と自撮りした笑顔の写真が次々に添付されてきた。組合長のナベさんからは結衣奈を取材したいという報道関係者を取り次ぐメールが来ているし、喜左衛門とかつ江からは今日の夕食の献立を尋ねられている。

「うわあ……」

 本当にみんな結衣奈の都合などお構いなしだ。いつも、結衣奈がみんなにそうしてきたように。

 結衣奈は思わず笑った。

「……うじうじしてる暇もないなあ」

 こんなとき、彩耶と那菜子ならどんなメッセージを送ってくれるだろうか。

 そっとしておいてくれるだろうか。励ましてくれるだろうか。思えば、あのふたりはいつも傍にいてくれたから、スマホや――他のものでやりとりすることはあまりない。

「……よし」と、結衣奈は呟く。

「悩んでないで、本人に直接訊こう!」

 結衣奈は神楽服の両袖をまさぐると――『なしなし祭』が終わるまでとっておこうと思っていた二本の鍵を取り出した。

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