第十四話「露天風呂で星空を眺めるべし」①

    ――四月一日(木曜日) 天気:快晴。

    時刻:一七時四五分。


 まだ雪の残る草津湯根神社の境内を、ささやかに飾られたぼんぼりが照らしている。石段を覆う白い雪の絨毯と、花芽が膨らみ始めたシャクナゲの木々。それらが淡く暖かなオレンジの光に照らされながら、主役の登場を今か今かと待っていた。

「よっ……と」

 ――カシャッ。

 その光景を背景に、有馬輪花はスマホを使って自撮りした。

 そのままスマホを操作し、写真写りを確認してから『お友達の出立の儀に来ちゃいましたっ♨』とテンション高めの文章を添えてSNSに投下する。

 すぐにいくつものメンションが飛んできた。家に帰ったら返事しようと輪花は思った。

「あら、輪花さん」

「ん?」

 スマホをポーチにしまっていると、見知った顔に話しかけられた。

「……泉海か。珍しいわね」

 輪花の同級生――道後泉海は軽く会釈をして歩み寄ってきた。今週いっぱいは春休みだというのに、コートの下には師範学校の大正風の制服を身につけている。

「珍しいですか? 各地の温泉むすめの行事には都度馳せ参じているつもりなのですが」

「ああ、それで制服なのね。真面目なことで」

「輪花さんの活動圏は東京ですから、あまりご縁はありませんわね。そうだ、今度モデルのイベントにお邪魔させて頂きますわ」

 泉海の真面目さに皮肉を言ったつもりなのだが、それを上回る真面目さで上書きされてしまった。恐らく皮肉ということにも気付いていないに違いない。

「やめといた方がいいわ。泉海みたいな子が来たら目を回すわよ」

 古風でコンサバティブな泉海と、華やかでファッショナブルな輪花は正反対の存在だ。たぶん、泉海は自身が何気なく言った「モデル」という言葉の中に様々なジャンルがあることすら知らない。あまりに共通の話題がなさすぎて――何年も同級生をしているのに――輪花と泉海は仲がいいわけではないし、かといって悪いわけでもない。

「輪花さんこそどうしたんですか? 結衣奈さんとお友達でしたっけ?」

「妹がね」

 泉海と連れだって石段を上り、その先の境内を指して輪花は言った。「ほら、あそこ」

 その先で――有馬楓花が小太鼓を叩いている。

「ていっ! やあっ!」

『ちょっとーーっ!? ワタシの音に合わせてよーーっ!?』

「大丈夫デース! いまのところいい具合にシンコペーションしてるデース!」

『グルーヴ感が必要な曲じゃないでしょーが!』

「……なにやら揉めているようですが」

 泉海に言われて、輪花は「はあ……」と大きな溜息をついた。

 楓花、奏、そして「ユツバ(陽)」とかいう人工知能の三人は、「出立の儀」で結衣奈が奏上する神楽を演奏する役目を任されていた。元々はユツバが見つけてきた録音音源だけで済ませるはずだったのだが、音楽には一家言ある奏が「生バンドじゃないとかありえねーデース!」と言い出し、四月から同級生になる楓花を巻き込んだのである。

 音楽に関してはズブの素人である楓花が太鼓を叩き、たちまち技術をマスターした奏が神楽笛を吹く。ユツバが流す音源には太鼓の音も神楽笛の音も入っているから、多少しくじっても問題ない。

 楓花に同級生の友達ができるならと、輪花も楽観視していたのだが――。

『こっちの音源は録音なんだから、オマエたちのアドリブには合わせられないの!』

「えー? ふうかは声のとおりに叩いてるだけだよ?」

「声!? 声ってなんデスか!?」

「うーん、なんだろー……。たぶんシャクナゲの声かなあ」

『そんなのより電子音を信じてよーっ!?』

「いや、ユツバ氏! ここはユツバ氏にスマホの中から出てきてもらうのがベストデース!」

『だからワタシは人工知能だってば!』

「え? アバーでも……ユツバ氏、自分で『スマホの中の人』って言ってなかったデスか?」

「スマホに閉じ込められちゃったの? みんなにお願いして出してあげようか?」

『オマエたちわざと言ってるでしょ!? それはいわゆるネットスラングというもので――』

 ――直前になってもこの有様だ。

 普通に考えて録音された音源がもっとも正確なのだから、奏と楓花が合わせれば済む話である。

 輪花はそう言ってやろうと思って彼女たちに歩み寄った。

「ちょっと、あんたたち……」

「あー、お姉ちゃーん」

 ドコドコドコドコと太鼓を叩いて楓花が姉を出迎えた。

 無垢な笑顔は非常に朗らかだった。天使が降臨したのかと錯覚した。

「……あんたたち、ふうちゃんに合わせなさい!」

『ええーーーーっ!?』

 輪花は天使に殉じることにした。

「いや、奏と楓花が合わせれば済む話でしょう? 録音された音源がもっとも正確なんですから」

 泉海が正論を言った。天使に陥落する前の輪花が言おうとしていたのとまったく同じセリフだ。

「いや、ふうちゃ……素人に合わせてあげるべきね」

「個人的な感情を除外した場合、その意見に根拠はありますか?」

「うっ……。あ、ほら! カチッとしたリズムだと結衣奈が合わせにくいんじゃない? あの子も感性で生きてるから」

「しかしこれは儀式です。手順通りに行うべきですわ」

                   「私は奏ちゃんの旋律が好きだわぁー♪」

「儀式とはいえ、主役はステージに立つ結衣奈だと思うけど」

「結衣奈さんは神楽を奉納する側です。主役ではありません」

              「結衣奈ちゃんの御神楽衣装もかわいいわよねえ♪」

 さっきから逐一茶々を入れる声がする。輪花はイラッとして振り返った。

「ちょっと! 綾瀬は黙ってて! ……って、え?」

「そうですわ! ……って、あら!? 綾瀬さん!?」

「うふっ。こんばんはぁー」

 フリルのついた白い手袋をつけた手をふりふりと振って、声の主――登別綾瀬は笑った。

 意外な人物の登場に輪花も泉海も言葉を失う。輪花は綾瀬とも長い間同級生をしているが、泉海以上に何を考えているのか分からない存在として敬遠していた。

「わぁー♪ とっても美人なお姉さんだ~♪」(ドコドコドコドコドコ)

『えっ、誰? ねえ誰か、スマホのカメラをそっちに向けて――』

「そちらのセクシィバディガールはどちらさまデスかー? 温泉むすめ?」

 初対面の楓花と奏は綾瀬に興味津々である。ドコが一回多い。輪花はちょっぴり妬いて言った。

「なにしに来たの? あんたも結衣奈の儀式に来たわけ?」

「スキンケアに来たの」

「は?」

「すごいのよ、草津の温泉♪」

 そう答えて、綾瀬は輪花にウインクした。輪花は舌打ちしながら目を逸らしてそれを躱す。ウインクとかそういうのは読モである自分の専売特許だという矜持があった。

 もっとも、彼女にまともに取り合う気はない。輪花は再び溜息をつき、境内を見回した。

 自分特効の天使型悩殺兵器、自称ドイツ生まれのエセ外国人、「♨湯~ちゅ~ば~♨」とか名乗る電波系人工知能に、神出鬼没の超絶美人な同級生。

「はあ……。これは……」

 ――ヤバいところに来てしまった、と輪花は気付いた。

「……輪花さん、ここは手を組みましょう。ひとりでは手に負えませんわ」

 泉海が寄ってきて、耳元でそう囁いた。

「……初めて意見が合ったわね」と、輪花は苦笑した。


♨    ♨    ♨


    ――同日。

    時刻:一八時二五分。


 舞台袖代わりの陣幕から湯根神社の境内を覗いて、神楽服を着た結衣奈は緊張の声を出した。

「うっわ……。そこそこお客さん来てる……」

 狭い境内なのに五十人ほどのお客さんで埋まっている。結衣奈にとっては計算外だった。

 神楽の開始時刻を十八時半に設定したのは、ほとんどの旅館で夕食の時間だからだ。今回の儀式は完全に結衣奈のプライベートなものだから、お客さんの観光の邪魔にならないようにと配慮してこの時刻にしたのだが、かえってちょっとしたイベント扱いになってしまったらしい。

「大丈夫だよ。いつも広場で踊ってる草津節と同じようなもんだし」

「そうだべ。広場のほうがお客さん多いっちゃね~」

「草津節は身体で覚えてるし、アレをやるときってどうしてもお客さんを集めなきゃいけないことがあって無我夢中なんだよね……」

 彩耶と那菜子が励ましてくれるが、結衣奈はごにょごにょと返すしかなかった。

 今回の振付はつい三日前に知ったばかりのものだ。覚えるだけで精一杯だったのに、まさか人前で披露することになるとは思わなかった。

 それに――。

「……失敗したら、源泉が枯れちゃうかもしれないんでしょ?」

 それこそが、緊張とは無縁の結衣奈が硬くなっている最大の理由だった。彼女は負けず嫌いで、無謀な挑戦にも怯まない性格だが――今回に限っては、失うものが大きすぎる。

「結衣奈……」「結衣奈ちゃん……」

 人前では言わないようにしていたが、ふたりの前でつい本音が出てしまった。

 そして、一度堰を切った思いというものは、簡単には止まらない。

「わたし、日本一の草津温泉にふさわしい温泉むすめになるために転校しようと思ったのに……。わたしのせいで温泉が出なくなっちゃったらなんのためか分からないじゃん。

 っていうか、草津温泉はいまのままでも日本一なんだし、わたしはなにもしない方が――」

「……逆だべ。結衣奈ちゃん」

「え……?」

 結衣奈の右手を、那菜子が握った。

「そう、逆。こんなので弱気になってちゃ、日本一には絶対なれないよ」

 結衣奈の左手を、彩耶が握った。

「『出立の儀』は、師範学校に通ってる温泉むすめはみんな成功させてる儀式なんだ。私たちなんて小学校に上がる前の六歳でやらされたし。ライバルみんながクリアしてる試練を乗り越えられないようじゃ、日本一なんて夢のまた夢だよ」

「未来の日本一の結衣奈ちゃんなら心配しなくても余裕だべ。……あ、でも、わたしたちのときは源泉が枯れるって話は教えてもらえなかったっちゃねー♪」

「ちょ、ちょっと。那菜子!」

「あ! いまのは逆効果だったべか!? なしだべ、なし……!」

 那菜子はわたわたと自分の口を押さえた。

「……あははっ」

 ふと、結衣奈の口から笑い声が漏れた。

 寒空にかじかんでいた両手に、ふたりの体温がじわりと染み込んでくる。彩耶と那菜子はそれぞれ結衣奈の手のひらをそっと開かせ、その中になにか硬いものを置いた。

「これ……」

 ロッカーの鍵だった。どこのロッカーのものか、結衣奈になら一目で分かる。

 西の河原の大露天風呂――日頃から「日本一の星空が見れるんだよ!」と結衣奈が主張している場所だ。

「――誕生日おめでとう、結衣奈」

「誕生日おめでとう、結衣奈ちゃん」

「あ……、そうだった」

 結衣奈はすっかり忘れていた。

 今日――四月一日は、結衣奈の十六歳の誕生日だ。

「プレゼントはロッカーに入れておいたべさ」

「儀式が終わったら、一緒に取りに行こう」

 そう言って、那菜子と彩耶は結衣奈の手を離した。

 ふたりの手の温もりが、手のひらと鍵に残っている。

 結衣奈は、彩耶の鍵を神楽服の左の袖に、那菜子の鍵を右の袖に――慈しむようにしまった。

「……うん」

 結衣奈は頷いて、もう一度頷いた。

「うん!」

 ばっと陣幕を翻し、結衣奈は境内に歩み出た。

 それを合図に、楓花の小太鼓がトン、トン、トンと三回鳴って――神楽が始まった。


 そこからの十分間を――実は、結衣奈ははっきりと覚えていない。

 頭で覚え、身体に染み込ませた振付をこなすので精一杯だった。

 彼女はただ一心に、儀式が無事に終わりますようにと願って踊った。

 他のことを気にする余裕なんてなかった。

 それでも――。

「ユツバ」の見つけてくれた神楽の旋律、

 奏の吹く笛の音、

 楓花の叩く小太鼓の拍子、

 泉海の心配そうな眼差し、

 輪花のチラチラと気にかけてくれる横顔、

 綾瀬の遠くから包み込むような微笑み、

 そして――彩耶と那菜子のくれた二本の鍵の優しい重みが、結衣奈の体を動かしてくれた。

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