第十三話「足湯で徒歩の疲れを癒すべし」③

 輪花の足跡は山頂に向かって続いていた。結衣奈が小走りで追いかけると、すぐに彼女の背中が見えてくる。彼女はあろうことかスマホを弄りながら歩いていた。

「輪花ちゃん、危ないよ!」

「え? ああ、あんたが追ってきたんだ」

 立ち止まった輪花は意外そうに言った。

「輪花ちゃんはやんないの? 湯もみ」

「やんないわよ。授業で習ったし、動画も見たし」

 にべもなくそう言って、輪花は再び歩き出した。

 結衣奈も少し後ろをついていく。特に拒まれる気配はなかった。

「長い板でお湯をかきまぜて冷ますなんて……なんていうか、気の長い作業よね」

「そうかも。でも、ああすれば温泉の成分を薄めずに冷ませるでしょ?」

「だから知ってるって。温泉学基礎でやった」

「でも、やってみないと分かんないことってあるよ。湯もみって傍から見るとすごい軽やかに板を動かしてるように見えるけど、意外とお湯の抵抗すごいし」

「……ふん」

 結衣奈が食い下がると、輪花は黙りこくってしまった。

 それからしばらくの間、結衣奈と輪花は白い息だけを吐きながら登山を続けた。輪花はスマホに集中して「話しかけるな」オーラを身に纏っている。

 さらに歩いて、楓花のいる場所からはあまり離れたくないなあと結衣奈が思い始めたころ。

 輪花は突然立ち止まって、スマホを見たままぽつりと呟いた。

「……あんた、本気でふうちゃんのこと信じてた?」

「え?」

 結衣奈は聞き返したが、輪花はスマホから顔を上げない。

 むき出しの岩が両側にそびえる谷底のような場所だ。輪花はその岩に背中を預けた。

「『有馬にいたら、草津から声が聞こえた』なんて……。本気で信じてたら、ただのバカだと思うんだけど」

「うん……。まあ、最初は信じられなかったよ」と、結衣奈はそこで言葉を切って、輪花を見た。彼女はまだ結衣奈と目を合わせようとしない。結衣奈は続けた。

「でも、楓花ちゃんとちょっと話してみたら、本当なのかもなって思うようになった。少なくとも嘘をつきそうな子じゃないし、実際に探してみるまでは信じてみようって」

「……」

「考えるよりやってみる! やってだめならその時はじめて考える! それが草津結衣奈の生き方だからね!」

 結衣奈がサムズアップをしながらそう言うと、輪花は「はあ……」と大きな溜息をついた。

「……草津温泉は、標高が高いとこにあるから空気が冷たい……。だから、湯もみが有効なのね」

「輪花ちゃん?」

「来てみないと分からないこと、か……」

 輪花は結衣奈に聞かせるでもなくぼそぼそと口を動かし――「結衣奈」と呼んだ。

「え、あ、はい!」

「あなたの探している鳥居、いまここにあるわ。あたしたちがお社渡りに使ったの」

「えっ、鳥居……? どこに?」

「見なさい」

 輪花につられて結衣奈は上を見た。結衣奈と輪花のいる場所は谷底のように岩が積み重ねられていて、頭上には両側の岩と岩をつなぐ丸い石柱の橋がある。

 渡りにくそうな橋だなあ。なんで丸い柱にしたんだろう、と思って――結衣奈は気付いた。

「……あ! この形!」

「そう。ここが、あんたが探していた鳥居よ」

 そう言って、輪花は結衣奈にスマホを突きつけた。

 画面には地図が表示されていた。地図上には、『お社渡り』でやってきたこの鳥居の場所、結衣奈と出会った場所、楓花がハマったシャクナゲの場所、クマと遭遇した場所など、先の足湯を見つけるまでの道のりが事細かに記録してある。

「もしかして、ずっとスマホ弄ってたのって……」と、結衣奈は輪花を見た。

「そう。これを作りながら歩いてたの。帰り道が分からなくなったら困るし」

「じゃあ最初からわたしの目的地知ってたんじゃん! もー、なんで言ってくれなかったの?」

「一瞬で有馬から草津に来たって言ったでしょ。ってことは鳥居経由で来たに決まってるじゃない。あんたがそのことに気付いたら教えるつもりだったけど、一向に気付く気配がないんだもの」

「うっ……! じゃ、じゃあなんでいまさら……」

 結衣奈がそう言うと、輪花はついっと視線を逸らした。

 そして――彼女は、誰に告げるでもなくぽつりと呟いた。

「……あんたには、儀式をこなして師範学校に来てもらわないと困るから」

「えっ?」

 意外な理由に、結衣奈はきょとんとして輪花を見つめた。

「あ、あたしのためじゃないわよ!?」と、輪花は頬を染めて言った。「ふうちゃんのため! あんたみたいにふうちゃんの話を信じてあげられる友達がいてあげてほしいっていうか……」

「輪花ちゃん……!」

 輪花はまだなにかごにょごにょと言っているが、とにかく彼女は自分を認めてくれたらしい。

 結衣奈は嬉しくなって輪花の手を取り、まっすぐ目を見つめて言った。

「ありがと! よろしくね、輪花ちゃん!」

「……だからあたしじゃないってば!」


♨    ♨    ♨


「あ、結衣奈ちゃんお帰り~っ♪ あれ、なんか疲れてる?」

 鳥居から戻ってきた結衣奈を見て、先に足湯を始めていた楓花が不思議そうに首を傾げた。

「あ、足湯……っ!」

 結衣奈はふらふらと足湯に吸い寄せられていった。ささっと下履きを脱いで膝から下を露出し、ゆっくりと湯に浸けていく。

「あ、あ~~~~っ! ちょうどいい温度になってる! 気持ちいい!」

 結衣奈の口から自然と歓声が漏れ出した。同じく足湯に浸かろうとしていた輪花が白い目で彼女を見る。

「……結衣奈、オッサンくさい」

「いいから、輪花ちゃんも早く入りなよ」

「分かってるわよ。あ……ふう……」

 輪花は思いきり声をあげかけて呑み込み、澄ました顔でひとつだけ溜息をついた。

『どこへ行ってたんだ? ずいぶん遅かったが』

「それがさあ……聞いてよユツバちゃーん」

『うわっ、ブラック企業の上司みたいなウザ絡みは契約破棄案件だぞ』

「鳥居を見つけたんだけどさー、神楽の手順書がどこにもないんだよー……」

『……えっ?』

「そっか、それで遅かったし疲れてたんだね」

 楓花が元気よく足湯をばちゃばちゃ蹴りながら言った。すぐさま「足湯で暴れちゃダメよ」と輪花に叱られている。

『そ、そんなはずないです……。鳥居には分かりやすい形で石碑などが置いてあるはずなんですが』

「なにもなかったよ。ねえ、輪花ちゃん」

「……せ、石碑? まさか……」

 楓花を大人しくさせていた輪花の背中がそのままの格好で固まっている。

「……輪花ちゃん?」

 結衣奈は怪訝に思って問い直した。

 輪花ははっと我に返ると、楓花をおそるおそる見上げて、こう言った。

「ね、ねえ、ふうちゃん。一応聞きたいんだけど、そのスノーボードって……」

「これ? お社渡りしてきたとき、こっちの鳥居の近くで拾ったんだー♪ とっても滑りやすくて、ふうかお気に入りかな、かな♪」

「えっ!?」と結衣奈は叫んだ。

「やっぱりー!?」と輪花も叫んだ。

 ふたりはお湯に浸かるように立てかけられている「スノーボード」を見た。

 なんの種類かは分からないがとにかく金属でできたその板の先端部分――「湯もみ」をしてお湯に浸かった部分に何かが彫られているのが分かった。彫り目に詰まっていた雪がお湯によって溶かされて露になったらしい。

『……コレっぽいですね』

「わ、わたしの苦労はいったい……」

 結衣奈はがっくりと肩を落とした。

『いや、大変なのはこれからだぞ。ほら、文章を見ろ』

 ユツバが「(素)」キャラに戻って言った。結衣奈は言われたとおりに彫ってある文字を見る。

 そこに書かれている文字は、なにやらにょろにょろしたものだった。

「……んん? あれ日本語?」

『そうだ。昔の人が書いた文書をそのまま転載しているから、変体仮名だの崩し字だのでまったく読めない。だから――』

「……以上をもって、草津における御神楽の様式とする。ただし……」

『――まずは専門機関に解読を依頼して……って、いま誰か読んでませんでした!?』

 ユツバは再び「(陰)」キャラに変化した。二次元アバターがきょろきょろと顔を動かす。

 結衣奈は読み上げた本人にスマホのカメラを向けてやった。

「いまの楓花ちゃんだよ……って、楓花ちゃん!?」

 そうしてから、結衣奈はユツバとまったく同じノリで目を丸くした。

 楓花はなんてことなさそうな様子でにこにこしている。

「うん。ふうか読めるよ~♪ 解読が必要なら手伝ってあげるね」

「……言っておくけど、ふうちゃんは天才だから」

 輪花が補足した。なぜか本人より姉のほうが誇らしそうである。

「ちょ、ちょっと待って。さすがにその情報はキャパオーバーなんだけど」

 結衣奈は素直に言った。頭から温泉を被りたい気分だった。

「じゃあ、結衣奈ちゃんの処理能力にトドメを刺しちゃってもいーい?」

「……えっ?」

 楓花はお湯の中を覗き込み、板の文字に目を通しながらにこにこしている。

 言葉の不穏さに反して小動物のようにかわいらしい笑顔だ。結衣奈はつい見とれてしまった。

「ここにね、『注意事項』が書いてあるよ」

 まるで食虫植物のように結衣奈の視線を惹きつけておいて、楓花は言った。


「『万が一儀式に失敗した場合――源泉が枯れる可能性があるから注意されたし』だって♪」

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