第十二話「足湯で徒歩の疲れを癒すべし」②

 最も重要な事実から言うと、有馬姉妹も温泉むすめだった。

 有馬温泉といえば、『枕草子』に地名が出てくるほどの歴史を持つ兵庫県の名湯だ。「金」「銀」という泉質の異なる二種類の温泉が湧き出ているため、姉妹の温泉むすめとして生まれてきたという。学年的には、姉の輪花は結衣奈の一学年上、妹の楓花は一学年下である。

「へー。楓花ちゃんも四月から師範学校に入学するんだ!」

 結衣奈、楓花、輪花の三人は連れだって林の中を歩いていた。正確には、結衣奈と楓花が並んで歩き、輪花は面白くなさそうにふたりのあとをついてきている。

 楓花は先ほどゲレンデで乗っていたスノーボードを引きずって歩いている。一方、輪花はスキー板をどこかに置いてきたのか、すでに手ぶらになっていた。

「わたしと同じじゃん! よろしくね!」

 楓花におやつの温泉まんじゅうを渡して、結衣奈は嬉しそうに言った。

「そうなんだ! じゃあ、結衣奈ちゃんも儀式の鳥居を探してるの?」

「そうそう!」

「ふうかもね、鳥居を探して、お姉ちゃんと一緒に地元の六甲山を登ってたんだ」

 お返しに、楓花は紙コップに水筒のお茶を注いでくれた。

 結衣奈は礼を言ってそれを口にし――「ぶふっ!?」とえずきかけた。

「た、炭酸が入ってる!? 緑茶なのに!」

「うん♪ ふうか特製サイダーミックスだよ♪ どうかな? かな?」

「……いけます!」

 楓花のくりっとした瞳で見つめられるとどうにも強く出られない。結衣奈はがばっと飲み干した。

 すかさずおかわりを注ぎながら、楓花が続けた。

「それでね、六甲山を登ってたら、なんか『私に会いに来て~!』って声が聞こえたの。それで、気付いたらここに来てたんだけど……ここどこ?」

「ぶふっ!?」

 次は噴き出しかけた。結衣奈は目を丸くして問う。

「ろ、六甲山から草津まで来たの!? 兵庫県だよね!? ここは群馬県だよ!?」

「わぁー♪ 大旅行だ~!」

 自分で移動したのに、楓花のほうが驚いたようだ。不思議な子だなあ、と結衣奈は思った。

 輪花が「ここ、草津だったのね……」と言いながら辺りをきょろきょろしはじめたので、結衣奈は懐からもうひとつ温泉まんじゅうを取り出して、後ろを歩く彼女に差し出した。

「輪花ちゃん、食べる?」

「いらない。間食はしない主義だから」

 輪花はつれなく言って、再びスマホに目を落とした。

 カチッ、カチッと、ユツバがネット検索をする音が聞こえる。

『……有馬輪花。聞いたことがあると思ったら、東京で人気の読者モデルだな』

「へー。輪花ちゃん、読モなんだ。道理で歩き方がキレイだと思った」

 初めて会ったときは必死の形相をしていたせいで分からなかったが、落ち着いた輪花は華やかな雰囲気を纏った美人だった。ウェーブをかけたミディアムヘアーは細い輪郭をさらに小顔に見せているし、ダボダボして野暮ったくなりがちなスキーウェアにうまくメリハリをつけて着こなしている。恐らく、元々のスタイルもいいのだろう。

 いかにも芸能界の人間(温泉むすめだが)といったオーラの女の子だ。そういう目で見てみると、彼女が結衣奈に無愛想な理由も分かる気がした。

「下手に一般人と関わるとスキャンダルが怖いからね!」

『いや、それはどうだろう……』

 ユツバが呆れた声で言ったが、結衣奈はすっかり納得して「うんうん」と頷いた。

「それで、楓花ちゃん」

 輪花とは時間をかけて打ち解けようと決めて、結衣奈は楓花に声をかけた。

「ん?」

「楓花ちゃんの言ってた『声』って、まだ聞こえるの?」

「うん、聞こえるよ。いま、そっちに向かってるつもり」

「へー。なにがあるんだろう」

 結衣奈はなんの気なしに言った。荒唐無稽な話だが、楓花が言うなら何かがあるんだろうな、と思わせる雰囲気が彼女にはある。

「輪花ちゃん。楓花ちゃんって――」

 楓花の話題なら彼女も乗ってくれるかなと考えて、結衣奈は振り返った。

「……って、あれ? どうしたの?」

「……あんた……」

 輪花は足を止め、スマホから目を離して結衣奈を見つめていた。

 結衣奈が不思議そうにしていると、彼女は「……なんでもない」と言って再び目を伏せた。

「……?」

 結衣奈はますます首を傾げた。つかみどころのない姉妹である。

 彼女が輪花の様子を気にしていると、不意に――楓花がとんでもない発言をした。

「あ、クマさんだ~♪」

「へー、クマさん……って、クマさん!?」

 結衣奈は楓花を二度見した。

 草津白根山にはかなり頻繁にツキノワグマが出没する。ヒグマと違って人間に近寄ってくることは少ないし、そもそもこの時季はまだ冬眠中のはずなので油断していた。

 冬眠明けのクマは危険だ。すぐに避難しようと思って結衣奈は尋ねた。

「どこ!?」

「そこ」

「そこって……まさか……」

 結衣奈の耳に、ガサッ――という物音が聞こえた。

 続いて、鼻をつくような獣臭――。

「……っ!」

 ――シャクナゲの木を数株ほど挟んだ先で、真っ黒な巨体が結衣奈たちを見据えていた。

「ちょっ、ウソでしょ……!」

 背後の輪花が後ずさる音が聞こえる。

「背中見せちゃダメ!」と結衣奈は叫んだ。輪花のほうから聞こえていた音がぴたっと止まる。

「そう。ゆっくり……目を逸らさずに後ろへ……」

 そう言って、結衣奈は後ろへ一歩歩いた。

 そこで一旦足を止め、クマの様子を窺う。

 シュウウゥゥ――と、クマは蒸気が噴き出すような鼻息を繰り返している。ツキノワグマにしては身体が大きい。肩の筋肉は盛り上がり、今にも飛びかかりそうな殺気を放っている。

 まだこちらを警戒してくれている。結衣奈はもう一歩下がった。

 刺激して、興奮させたら終わりだ。慎重に――。

「……怖いの?」

「……え?」

 不意に、楓花が口を開いた。

 そりゃ怖いよ、と結衣奈は返そうとしたが――すぐに、その言葉が自分に宛てたものではないことに気付いた。

「うん。分かるよ。うるさかったよね」

 楓花は、目の前の獣に話しかけていた。

 クマの真っ黒な瞳に、優しく微笑む楓花の表情が映っている。

「ごめんね。せっかく気持ちよく眠ってたのに。すぐに止むから。うん。おやすみなさい♪」

 まるで会話をするように、楓花は何度も頷いた。

 そして、ひらひらと手を振る。

 それに応えるように――ツキノワグマはふいっと顔を背けて去って行った。

『……うそお……!?』

 ユツバが調子外れの声をあげた。

 結衣奈も同じ気持ちだった。天使のような存在だと思っていたが、まさかクマを宥めるとは。

「すごい……。すごいよ楓花ちゃん!」

 結衣奈は楓花に駆け寄り、その手を取った。

「いまどんな話したの!?」

「クマさん、ふうかが聞いたのと同じ『声』を聞いて起きちゃったんだって。ふうかたちがすぐに『声』のところに行くから、ちょっと待っててねってお願いしたの」

 楓花は特に誇ることもなく、いたって自然体な様子で説明してくれた。

「へええ……! なるほど!」

 ぶんぶんと首を縦に振る。結衣奈の心は奇跡のような光景を見た感動でいっぱいだった。

「輪花ちゃん! 楓花ちゃんってすごいね!」

「……あたしは何度も見てるから、あんたみたいには驚かないけど」

「うわっ、冷静!」

「自分以上にはしゃいでる人が近くにいると冷静になるものよ」

 輪花は相変わらず無愛想だったが、ようやく結衣奈と目を合わせて話してくれた。


♨    ♨    ♨


「あ~、あった~っ♪」

 そう言って楓花が駆け出した。スノーボードをずるずると引きずっていく。

 一行の目の前には、楓花に『声』を届けていたという存在がある。雪に覆われた草津白根山中にあって、その場所だけはぽっかりと山肌が露出していた。

 ちょろちょろと水が流れる音が心地いい。真っ白な湯気を立てて湧き出したお湯が小さなくぼみに溜まって、さらに下へと流れ落ちている。

「源泉だ……!」

 結衣奈は我にもなく呟いた。

『……知ってたか? ここに源泉があるって』

「ううん、知らなかった……」

 この湧出量ではお風呂に引くことはできない。だから見逃されていたのだろう。

 楓花は「来たよ~♪」と言って源泉に手を振っている。

「楓花ちゃん」と、結衣奈は彼女の隣に並んだ。「この源泉、どうして楓花ちゃんを呼んでたの?」

「んー、分かんない。動物さんと違って、あんまりおしゃべりじゃないから」

「そっか……」

「――浸かってもらいたかったんじゃない?」

 スマホを見ながら、輪花がそう言った。

「あ……」

 結衣奈と楓花は意外そうに彼女を見て、ふたりで目を見合わせた。

 なんとなく――それが正解のような気がする。

 結衣奈と楓花は目を見合わせたまま、「ふふっ」と顔を綻ばせた。

「よーし! じゃあ、ここでひとっ風呂浴びていきますか!」

「わーい、みんなでお風呂だ~♪ でも、お湯足りるかなあ?」

 温泉が溜まっているくぼみを覗き込んで、楓花が心配そうに言った。

 確かに、溜まっているお湯はほんの少量だ。流れ出している場所をせき止めてかさ上げしようにも、この湧出量ではそうしているうちに日が暮れてしまうだろう。

「どうしたもんかな」と結衣奈が頬をかいていると、ユツバが飛び出してきた。

『……足湯にすればいいんじゃないか?』

「あ! それだ!」

 結衣奈は手をポンと叩いた。

 歩きづめでちょうど足が疲れているところだ。それに、この寒い山中で全身浴なんてしたら風邪を引いてしまうかもしれない。お昼ごはんを食べながら入浴できるし、足湯はナイスアイデアだと結衣奈は思った。

「足湯ができるくらいのお湯ならすぐ溜まるかな?」と、結衣奈はスマホカメラを源泉に向けた。

『恐らく。その辺に大きめの石が転がってるから、低くなっている場所にそれを置いていこう』

「あいあいさー♪」

『そしたら、次は座る場所を作って……』

 スマホからユツバが出してくれる指示に従って、結衣奈と楓花がせっせと働き始めた。輪花は離れた場所でスマホを弄りながら、時折こちらをチラチラと見ている。

 結衣奈が大きめの石を探して源泉に持ち帰り、楓花はそれを適切な場所に配置して、うまいことお湯が流れ出さないように一角を囲んでいく。


 そして――十分もすると、立派な足湯ができあがった。

「わあ~……!」と、楓花が感嘆の声を漏らす。

『あとは、そのへんのキレイな雪を投入して、湯温をいい感じに冷ませば完成だ』

「りょーかーい! 最後の仕上げ頑張るぞー♪」

「あ、ちょっと待った!」

「え? どうしたの?」

 雪を足湯に投入しようとした楓花を見て、結衣奈は咄嗟に制止した。

「ユツバちゃん、楓花ちゃん! ここは湯もみだよ! 湯もみ!」

「湯もみ?」

「そう! 楓花ちゃん、ちょっとこれ借りるね!」

 結衣奈は彼女がずっと引きずってきたスノーボードを持ち上げた。そして、板の四分の一ほどをお湯の中に浸し、自分は反対側の端を持って、足湯から離れて立つ。

「ユツバちゃん、草津節流してくれる?」

『まあ、つべに上がってる動画でいいなら……』

「おっけーおっけー! ではでは、草津温泉伝統の湯冷まし法――湯もみをご照覧ください!」

 そう言って、結衣奈はスノーボードを右に、左に、右に、左にと順番に倒し――お湯をかき混ぜ始めた。

 ――カン、コン、カン、コン、カン、コン。

 倒すたびにボードが手前の岩に当たり、メトロノームのように一定のテンポで鳴る。

 それに合わせて、ユツバが『草津節』を流し始めた。結衣奈は合いの手担当だ。

『くさぁーつー、よいとーこー、いちどーはぁ、おいでー』

「あ、どっこいしょー!」

『お湯のなかにーもぉ、コーリャ、花がー咲くよー』

「ちょいな、ちょーいなー!」

「わあ、おもしろいね~♪ ふうかもやってみていいかな、かな?」

 楓花が目を輝かせて近寄ってきた。結衣奈は「もちろん!」と言って、彼女にボードを渡す。

「ユツバちゃん、もいっかい音楽流して~」

『……ワタシはBGM係じゃないんだが……』

 そう言いながらも、ユツバは『草津節』を最初から再生し始めた。

 楓花は前奏の時点で楽しそうに口ずさみながら、ボードを左右交互に倒していく。

「あり~ま~、よいと~こ~、いちど~はぁ、おいで~♪」

「ストォーーーーップ!!」

 歌詞が『草津節』ならぬ『有馬節』にアレンジされていた。結衣奈は反射的に歌を止める。

「えー、だめ?」

「かわいい顔してもそれはダメ! そりゃ有馬温泉もいいところかもしれないけど、それは草津の歌で、これは草津の源泉だから!」

「そっかー。……お弁当の栗きんとん一個あげてもだめ?」

「うっ!? だ、ダメです! 食べ物で草津の魂を売り渡すわけには……!」

「いま心が揺れたよね? もう一押しかな、かな? じゃあミートボールもつけて――」

「だあーーーーっ! 聞きたくない聞きたくない! ……あれっ?」

 楓花とわいわいやっていた結衣奈は、いつの間にか輪花がいなくなっていることに気がついた。

 といっても、雪に足跡が残っているから行き先は一目瞭然だ。結衣奈は『草津節』で湯もみするよう楓花に念を押して、輪花の足跡を追った。

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